物欲から仏性へ
幸福とは何ぞや、と問われると、またややこしくなってくるのだが
デンマークとジンバブエの間に目盛りをつけて
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日本は
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このくらい、という御宣託だそうです
仏教で言えば
「足るを知る」で、高望みをしなければ、それがそのまま幸福ということにもなるけれど、デンマークとジンバブエどちらか選べ、と言われれば、正直、ジンバブエで暮らしたいとは思えない
正義感に燃える人には、ジンバブエは、いいフィールドになり得るが、日本もたいしたことはない国でありますので、そういう人は是非、日本で活躍していただきたい
幸福と言うと、どうも客観性がなくなり、主観的な尺度になりがちだが、「暮らし易さ」と考えれば近いような気もする
しかし、度をつけた「幸福度」という概念は、もっと広い意味にも解釈され、まあ、新しい価値観として育てていくべきものでしょう
それで、ここで哲学的命題
幸福度は、上げなきゃならんものなのか?
当たり前だ、当然だ、と言ったところで、その当たり前さ、当然さ、の根拠はなにか、ということ
ジンバブエは、主権国家として、やりたいようにやっているので、ほっといてくれ、ということになりそうですよ
このあたりがですね、古くは宗教観であり、今風には価値観ということになってくる
そして、この価値観は、持ち合わせが無い、というわけにはいかないのです
今をどう生きるのかに、かかわっているのですから
で、この、言葉で言えば、「幸福度を上げたい」という感覚は、人間に自然に備わっている、というのが仏教の立場です
つまり、それが、仏性です
人間の心の問題で言えば
自分の心を観察して、不平・不満・悪意・愚痴・劣等感・不安に満たされているようにも思えるのですが、実際は、その「ドロドロ」がいやだと思う心も同居しているわけで、そのいやだと思わせる力が、仏性です
まあ、理論的には、ですから、「幸福度を上げる」ということは、仏性に根ざした根本的衝動であって、日本が今まで追求してきた経済的繁栄は物欲に根ざしたものである、と整理することもできてくるわけです
国民総幸福度という指標が提唱されているそうですが、ブータンという仏教国で初めて言われたというのも、象徴的ですね
一神教では、神が世界を造ってるんだから、どうも、こういう理屈になりにくいのかな
歴史的には
採集ー狩猟ー農耕ー工業ー情報、と産業構造が変化するのだけれど、幸せの尺度も変わって当然だろうねぇ
それで、普遍的な幸福の指標は、宗教的なバックボーンが必要になるのかもしれない
デンマークに、いかなる哲学があるのか、興味深いですね
マホメットの風刺画(マホメットを爆弾に見立てた風刺画)は記憶に新しいが
たまたま幸福度が高くなった、とも考えにくい
神秘的でもなければ、不可解なものでもない、生活に密着した、もっとも大事な事ですが、ま、わかりにくくはある
物欲から仏性へ、などと言ったら、もっとわかりずらいか