和光同塵
掃溜めの鶴、という言葉がありますが
ゴミの山の上に清らかな鶴が飛んでいるイメージでしょうか
ゴミの山とは、我々の暮らす娑婆世界です
私利私欲、恨み、ねたみ、嫉妬、怒り、絶望、暴力など、なんでもありです
ゴミの山の中には、お宝も埋もれていますが、ゴミだらけになって掘り返さないと、お宝は得られません
仏教の出家主義は、つまりは、鶴になることを求めています
ゴミはゴミでどうしようもないから、ほっといて、自分は優雅に暮らす
戒律を守り、世間に交わらず、つねに仏を念じて、清らかに生きる
ゴミとは別世界で、住む所が違う
これを、小乗として、つまり、自分のことだけ考えている生き方であると
で、大乗は、人々を救い助けるのだと
まあ、理屈では、そういう分類をします
大乗は、在家主義でもないんですね、とくにこだわらない
今どき多い、独身の方は、まあ、生き方によっては出家みたいにもなり得ますな
ま、どっちでもいいし、だからどうということでもない
最澄は、大乗は大乗の戒律が必要だということで、当時の日本仏教界とたいへんな衝突をしたのですが、自分では、小乗の戒律も守っていました
今の比叡山でも、回峰行の人など、生活自体は、肉食妻帯せず厳格な精進です
小乗でも大乗でも、どっちにしても、ゴミの山は、ゴミの山で同じことです
小乗も正しいと言えば正しい
誰だって人助けができるわけでもないし、自分が生きるだけでも精一杯なのが人生です
自分だけ正しく、自分だけ幸せで、自分だけ豊かで、自分だけ清らか
鶴になりたければ、鶴になる努力をしなさい、という生き方
でまあ、鶴になる努力も、それなりに大変なのです
大乗は、人助けをして、人を幸せにすることを人生の目的にする生き方
でもこれは、強く賢い人でないとできない
強くて賢く、愛のある人は、意外と沢山います、捨てたもんではありません
ただ、弱く愚かな人も多いのです
現実は厳しいのです
実は、もう一つの選択肢があります
それが、和光同塵です
心の中に、なごやかな光を灯しながら、ゴミの山で暮らす
人助けができる時はして、できないときは、一緒に悲しむ
人々を幸せにするために、先ず、自分が幸せになる
価値の基準は、自分の心の中にあって、比較や評判は関係ない
感謝を先にする
そして、人々を生かすため、いつでも自分を犠牲にする覚悟ができている
心の中に、光があるからできることです
ゴミの山で、突いたり引いたり、ゴミとなって暮らすか
鶴になって、お高くとまって暮らすか
あるいは、心に光を灯して暮らすか
役割の違い、でもない
棲み分け、でもない
自分の中に光を確かに持ちながら、一緒に暮らす
これから、世界は、益々混沌としてきます
価値観は、もっと多様になるでしょう
グロバリゼーションが、わるいとか
ガラパゴス化するべきだとか
国柄や伝統や民族性を守れとか
そんな事を言っても、情報、経済、政治、すべてが、世界規模の繋がりを強めているのです
ゴミの山は、世界規模になり、境界線はあいまいになり、情け容赦もなく肥大化して渦巻いているのです
これからの時代、鶴になって暮らすのは、もう人間には無理だと思いますよ
もはや、単純な世界ではないのです
あまりに渦潮が大きい
ゴミとして翻弄されるか、心に光を灯すか
どちらかしかない、ということに早く気がついてくださいね