唯脳から唯識へ
つまり「保守」は既得権を守り育てれば務まるわけだが、「革新」は単なる「もんくたれ」でも務まるのは在野にいる間だけで、立場が変われば、それなりの道筋を示す必要はある
で、既得権を守るだけなら理想も夢も無くてすむれど、未知の道筋を示すには、今は無いものを説明するわけだから、脳内でイメージを作っておく必要に迫られる
だから脳内で自分勝手なイメージに浸ることも有り得るわけで、「革新」は現実から乖離する傾向を持ちやすいと言える
脳の力があるから、現実を変えることができるわけだが、独りよがりと紙一重でもあるということ
脳の意識作用だけに限定すれば、とりあえずは常識の範囲の話になるわけだけれど、脳はつまり死んでしまえば終わってしまうわけで、責任範囲は個人に限定される
そこで、意識作用を脳の力に限定する概念を「唯脳」とすれば、もうひとつ「唯識」という概念がある
特定の脳が無くなっても、世界は無くならないわけで、しかし、意識されなければ世界は存在しないのも事実で、「唯脳」では説明が不十分で「唯識」という概念が必要とされてくる
識こそ全てで、識は五感によって脳にイメージを投影し、脳内に外界を作り出している
識は、無限大で一つしかなく、全てが繋がっているのだが、脳に投影された外界は、分断され、有限で、死によって失われる
つまり、「唯脳」から「唯識」へ概念を進化させれば、独りよがりや現実乖離と、死による無意味化は、かなり改善される(理論的には)
実は、慈悲は「唯識」から導き出される概念で、識のなかで人が繋がっているから、思いやりも同情も勝手な妄想でなく成り立つと言える
無限の繋がりから、脳がイメージを切り出しているという自覚を持てば、余計な執着は否定され、ありのままの世界を生き続けることが出来るという話
「保守」や「革新」を超えた立場もあるだろうと思うよ