2010/01/08

唯脳から唯識へ

政治の話なのですが、政治手法をザックリ、利権保護(保守)と理想追求(革新)に分けてみる

つまり「保守」は既得権を守り育てれば務まるわけだが、「革新」は単なる「もんくたれ」でも務まるのは在野にいる間だけで、立場が変われば、それなりの道筋を示す必要はある

で、既得権を守るだけなら理想も夢も無くてすむれど、未知の道筋を示すには、今は無いものを説明するわけだから、脳内でイメージを作っておく必要に迫られる
だから脳内で自分勝手なイメージに浸ることも有り得るわけで、「革新」は現実から乖離する傾向を持ちやすいと言える

脳の力があるから、現実を変えることができるわけだが、独りよがりと紙一重でもあるということ


脳の意識作用だけに限定すれば、とりあえずは常識の範囲の話になるわけだけれど、脳はつまり死んでしまえば終わってしまうわけで、責任範囲は個人に限定される

そこで、意識作用を脳の力に限定する概念を「唯脳」とすれば、もうひとつ「唯識」という概念がある

特定の脳が無くなっても、世界は無くならないわけで、しかし、意識されなければ世界は存在しないのも事実で、「唯脳」では説明が不十分で「唯識」という概念が必要とされてくる

識こそ全てで、識は五感によって脳にイメージを投影し、脳内に外界を作り出している
識は、無限大で一つしかなく、全てが繋がっているのだが、脳に投影された外界は、分断され、有限で、死によって失われる
つまり、「唯脳」から「唯識」へ概念を進化させれば、独りよがりや現実乖離と、死による無意味化は、かなり改善される(理論的には)

実は、慈悲は「唯識」から導き出される概念で、識のなかで人が繋がっているから、思いやりも同情も勝手な妄想でなく成り立つと言える

無限の繋がりから、脳がイメージを切り出しているという自覚を持てば、余計な執着は否定され、ありのままの世界を生き続けることが出来るという話

「保守」や「革新」を超えた立場もあるだろうと思うよ

金輪佛頂像法 書き下し

  陀羅尼集經 T18n0901_p0790a22(00)金輪佛頂像法 欲畫其像。取淨白疊若淨絹布。闊狹任意。 不得截割。於其疊上畫世尊像。 身眞金色著赤袈裟。戴七寶冠作通身光。手作母陀羅。 結跏趺坐七寶莊嚴蓮華座上。 其華座下豎著金輪。其金輪下畫作寶池。 遶池四邊作鬱金華。及四...