閉じられた本を読む
「止観」と「加持」を組み合わせて、難しく考えれば「一心三観」となるのですが、仏教は組み立てられています
で、これ、「空」を信頼というか、絶対的に信用しなければ成り立ちません
この図で言えば、感覚器官を休止するだけで「空」だけになりそうなんですが
それでは、居眠りでも同じことですね
では「空」とはなにか?
ここが難しいところで、説明してしまったら、それは「色」になってしまいます
感じる前の世界なわけですから、まあ、「果分不可説」なわけです
それではあまりに不親切なので、仏教の代表的な解釈をご紹介しますが、仏教史最大の学者のナーガルジュナ(龍樹)の説ですけど
八不(はっぷ)といって
一異、同断、生滅、去来の八つを
一つでもなく異なってもいない、同じでもなく断絶してもいない、生じるでもないし滅するでもない、去るでもなく来るでもない
と定義していて、いわば仏教の基本セオリーです
それで、僕はこれを量子論でいう、Suerpositionと近似する概念だと考えているわけです
Quantum Sense
http://www.chohoji.or.jp/archives/quantumsense.htm
このリンク先は長文で、しかも、わかり易くはないです(^^;;
さわりは、こんな感じです
i半導体中で量子もつれの生成と検知に成功
たとえば私がここに座っている状態と向こうの方に座っている状態は想像できます
でも、同時に両方に座っている状態は想像できません
しかし、量子力学では、まさに重ね合わせの原理によりこれが可能です
このように原子、電子、分子などは同時に2つの状態で存在することができ、この概念が量子技術を強力なものにします
重ね合わせのさらに延長上にエンタングルメントがあります
これには2つの量子的物体が必要です
この2つが絡み合う(エンタングルメントentanglements)と、個々の物体を分けて考えることはできません
エンタングルした2つの物体を宇宙の両端まで引き離したとしても、片方の状態はもう片方の状態に影響を及ぼすという時空を超えた相関をもちます」
さて、ともかく、無垢で清浄であっても、「空」そのものは、どうやっても説明できないわけです
で、それを、どう信用しろと?
これですね
「空」は、感覚器官を通じて脳内に印象を形成して初めて「色」として認識され、意味を持ちます
閉じられた本が、読まれるように
「空」は、読まれずにいる本のように、あなたに読んでもらうのを待っているのです
読まれずにいる無数の物語が「空」の中にあるのです
止観を例にすれば、感覚器官を止めるだけでは、ただの屍です
慈悲や愛は、自分でつかみ取らなければなりません
あなたが慈悲を感じれば、その時、慈悲があります
あなたが愛を行えば、それが愛です
座して待っていても、慈悲は、「空」の中で眠り続けるだけです
「神は愛だ」とか「仏は慈悲深い」とかは定義の問題で、イメージです
あなたがなんにもしなければ、慈悲は「空」の中で眠り続け、はいそれまでよ、です
当たり前の話ですけど
ちょっと、くだけたたとえで言うと
脳内お花畑を勝手に信じ込み、世界に広めても、それは個人的妄想の拡大でしかありません
「私利私欲を捨て、考えうる限りの事実関係を把握し、だれを笑顔にするかよく考え、出来る限りの努力をする」ということではないでしょうか
間違いや、失敗があるかもしれませんが、その時は、もういちど「空」に戻ればいいのです