果分不可説(かぶんふかせつ)
蝋梅
果分不可説 これ、仏教語です
説明をはしょりますが「空(くう)」を、つまり「果分」といいます
この「空」を、言葉によって説明しようとすると、説明する人の使う言語とか、知識量とか語彙の制約を受けます
つまり、言葉による説明は脳内に生成される「色(しき)」です
言葉によらない「写真」「絵」「音」「動画」は、やや「空」に迫るかもしれませんが、やはり脳内に生成されるので同じことです
「色」は「空」をどんなに上手に説明しても、「空」そのものには絶対になりません
それを果分不可説といいます
目の前に「PC画面」がありますが、これを「モニターです」と説明したとしても、液晶の種類、大きさ、解像度など千差万別で一言で言い切れるものではありません
言葉は便利ですが、実際は、真実の一部分を描写するだけです
いや、こういった話は退屈かもしれませんが、仏教ではもう2500年間、このような議論を継続しているのです
現在の仏教学会では、漢訳、サンスクリット語、パーリ語、チベット語、の諸経典を比較校定した研究が主流です
これこそ、退屈なんですが、学問の手順としては避けられません
ところがですね
この、厳密にテキストクリティークされた経典の語句は、果分不可説で、どのみち真実の説明の断片でしかないということが、最初から了解されているのです
(ちなみに、世界の仏教史でただ一人、弘法大師は、果分不可説ではなく果分可説を説いています。天才といえばそうだし、主流でないといえばそのとおりです)
とまあ、ここまでが前振りです
僕の「色即是空」を図示した上のイラストなど、実は、仏教学の精緻な議論からすれば、かなり大雑把なものです
しかしながら、そもそも、仏教の説明は、真実の断片の集積でしかないのです
それで、僕の場合、これらのイラストを「仏教の目的」を達成するための道具と割り切って、実用上まにあうだろう精度で作っています
「仏教の目的」とは、「成仏、仏となる」ことですけど
さて、こういった話を、長年の僕の読者(1996年からやってますから)は、また同じようなことを書いてる、と思ってらっしゃるかもしれませんが、実は、それが狙いでして、絶え間なく反復することで、理解が身についてしまうものなのです
「同じような」と思った瞬間、すでに記憶の片隅に仕舞われていることに気づいたわけですよ
このBlogにあるのは、大雑把なイラストや議論なのですが、そもそも説明というものは脳内生成物で「色」だから、さほど信用していない、という立場ですから、これ以上精度を上げた議論に踏み込むことは、意図的にあまりしないつもりです
それで、前回からの続きのプラトンですけれど
プラトンに限らず、哲学は、言葉でします
ここに、瞑想や祈りを持ち込んだら、少なくとも西洋哲学ではなくなってしまいますが、仏教哲学やスコラ哲学は平気でそれをしているのです
それを敷衍して、科学もですね、実験と観察に基づくのを拡大して、ここに念とか意志とかを加味すると、これは、一気にオカルトになりますね
しかし、そういう分野も実際あるわけで
「ありがとう」と書いた容器に入れたら腐るのが遅くなったとか
果分不可説ということを踏まえれば、「言葉による哲学」や「実験観察による科学」と、「瞑想する哲学」「念じる科学」は、共存できると考えるべきではなかろうか、ということになりませんか