鎮守堂 本来の姿

長保寺の鎮守堂は、現在は桧皮葺ですが、一時期瓦屋根だった時があります
総合的に検証して、一間社流造檜皮葺であったという結論を出して、昭和2年に現在の姿に復元されました




鎮守堂の写真(昭和2年の修理直前の写真と思われる)
檜皮葺ではなく、本瓦葺(ほんがわらぶき)の屋根になっているのがわかる
大正3年の記録には桟瓦葺(さんがわらぶき)と書いてあり、いずれかの時点で吹き替えられている


長保寺絵図面(廟所絵図)  海南市指定文化財
長保寺の伽藍の様子を知ることのできる、最古の図面

一幅 紙本著色
縦191.7 横214.2
江戸中期

陽照院(現在の長保寺)の、伽藍および紀州徳川家の廟所・墓地を描いた資料である。近世の長保寺寺領については、慶長6年(1601)に浅野幸長が浜中上村の5石を寺領としたのち、寛文12年(1672)に徳川光貞から500石を加増されている。本図はその際に確定された、境内と墓地について描いたものである。藩主の墓が深覚院(第4代藩主頼職)までしか書かれていないことから、本図が作成されたのは吉宗もしくは宗直の藩主時代のことであると考えられる。江戸時代中期の長保寺の伽藍・廟所の状況を知る上で貴重な資料である。


和歌山県立博物館「吉宗と紀州徳川家」より






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