国宝本堂、多宝塔




長保寺本堂   附 厨子一基
   国宝 明治37年9月29日指定

 桁行五間、梁間五間、一重入り母屋造、向拝一間、本瓦葺の建物で、長保2年の草創以来、度々の再建をうけてきたが、現在の本堂は延喜4年(1311)の建立になるといわれる。
 天和3年(1683)の記のある「長保寺記録抜書」には「一、長保寺古書ニ云 長保寺棟上延喜四年辛亥五月五日 大願主僧承禅律師印玄并衆徒等僧浄明氏人等 大工藤原有次」と記されている。以後、近世まで数度の修繕があったと思われるが、記録を欠き、寛文6年に紀州徳川藩主頼宣公が帰依され、菩提寺となるまで何の資料も見られない。
 「当山諸堂絵図面」には「寛文七丁未年十一月徳川頼宣修繕之以来御一新迄徳川家ヨリ修覆仕候」とあるので藩主の保護を受けるようになった寛文頃までは、かなり建物の破損があったと思われる。この寛文の修理はどの程度であったか記録がなく、また大正9年の修理でかなり復原されたため大正の補足材も多く、詳しく知る事はできない。しかし、現在使用されている向拝頭貫は、その絵様、繰型よりもこの折のものと思われる。
 堂は方五間で、柱頭の粽及び組物の笹繰り、拳鼻など唐様の手法をとりながら、出入口の幣軸構え、連子窓、組入天井、吹寄せの菱格子、扠首組の妻飾りなどは和様の手法によっている。すなわち二つの様式を融和混合し、しかも独自の計画と好意匠に成功した例である。向拝の一部や、厨子の正面間口、小屋組等に後補がみられるが、その他はよく当初材を残している。
 県下の鎌倉時代遺構中、梅田の釈迦堂が純唐様であるのに対し、この堂は和様と唐様を折衷した様式を代表するものとして極めて重要な意義がある。なお内陣の須弥壇、厨子も本堂と同時のものである。
 昭和47年の修理では、正面ほか側面、背面の棧唐戸を復旧したほか、内陣正面の鴨居位置を下げ、脇陣の間仕切を旧規に復し良好な姿となった。また、両側面の前から第2と第3の間に間仕切があったことが判ったが、後世の改修によるものである。
 昭和36年9月の第2室戸台風では被害をうけ、西北隅部の補修を行っている。 

長保寺多宝塔
   

国宝 明治37年8月29日指定
   昭和28年3月31日

 この多宝塔は、三間多宝塔の本瓦葺であって、寺伝では本堂と同時の建立とされているが、構造、手法からみると、やや年代が下るようである。康永3年(1344)の弘法大師御影堂建立の勧進状には塔の名が見えることから考えると、その頃にはすでに建立されていたことが知られる。
 本堂が和様、唐様を折衷した様式からなっているのに対し、この多宝塔は純和様を採用している。
 この多宝塔は一重と二重の釣合いがよく均整のとれた優美な意匠をみせる。さらに著しく低い亀腹と、勾配のゆるい屋根などがよく調和して安定感を与えている。細部においても力強い組物に美しい蟇股及び折上小組格天井の雄健な手法など、外観、内容ともに現在多宝塔中の傑作の一つである。
 初重の柱はすべて円柱で、内部には四天柱が建っている。側廻りの柱には、現内法長押の一段上に旧長押取付の襟輪欠きや、長押止釘痕と取付の風蝕差が認められ、かつては頭貫と内法長押間の小壁はもっと狭かったことが知られる。
 現在内部は折上小組格天井となり、天井廻縁に相当する内法長押は幣軸上に廻るが、幣軸の高さが内外異になり、外側では楯前面に取付くので、外側の内法長押が一段上ると内外の幣軸の納まりがよくなる。
 外側の内法長押を一段上げると、両端間の連子窓も高いものになり、形がより整ったものになろう。この塔は和様になるが、内部の仏壇は禅宗様で、その腰の唐草彫刻はすこぶる優美な作である。ことに正面勾欄は平桁がなく、蕨手と地覆間の網目に巴文の入った透彫りは他に類例のない珍しいものである。

清文堂「和歌山県の文化財 第2巻」より


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