仏教用語を完全に文字起こしする精度は、まだ無いようです
Live with a heart that eases someone’s suffering, even if only a little.
1 {微笑む} 大事なコツです
2 本尊様の名前を呼ぶ
3 息を吸う あなたを守る力が体に入る と思う
4 息を吐く その力を分けてあげる と思う
それを繰り返します
疲れたら止めて、本尊様に感謝を伝えます
{微笑む}ことがなければ、瞑想は単なる呼吸体操になりかねません
{微笑む}ことで、瞑想によって自分自身の心の本質に触れることができるようになります
威圧するような、咎めるような、諦め憂えるような表情では、本当の自分自身には到達しません
瞑想には目的があり、それが表情に現れるのは自然なことです
ここのところが、瞑想の権威主義的伝統の中で軽視され続けてきました
釈尊のように、光り輝く神々のように、{微笑んで}みてください
あなたの中に、その{微笑み}を生み出す力があるのです
この瞑想は、あなたの心の中に「無上の心」があることを自覚するためのものです
最初のうちは、あなたと「無上の心」は別々のものであると感じられますが、だんだんと、同じものであることに気づきます
いずれ、わかります
基本の「癒される瞑想」(お堂の前や日常で実践しやすい方法)
これはお寺参拝時や日常の短時間瞑想にぴったりで、呼吸とイメージを組み合わせたシンプルな手法です。
手順:
微笑む(一番大事なコツ)
モナリザのように優しく微笑み、自分を信じて「最高の自分になる」または「人を助ける」と決意します
微笑むことで心がリラックスし、緊張が解けます。
本尊様の名前を呼ぶ(または心の中で唱える)
例: 「南無観世音菩薩」など。信仰がない場合でも「佛」や安心できる存在をイメージ。
自分のイメージと、無上の心は、境界線が無く接しています
無上の心は自分の中にあります
神社、仏閣、仏像、経典などは、自分のイメージを強化するためにあります
息を吸う
「あなたを守る力が体に入る」「だいじょうぶ」とイメージしながら、深く息を吸います。自利(自分を癒す)。
息を吐く
「その力を分けてあげる」「うまくいくよ」とイメージしながら、ゆっくり吐きます。利他(周りにも良い影響を)。
自分にとって良いものを他人に分けてあげるのですから、他人の悪しきものを引き受けるのとは違います
これを繰り返し、1〜2分から始め、慣れたら長く続けます。疲れたら止め、本尊様に感謝を伝えて終了。
ポイント: 呼吸に意識を集中。雑念が浮かんだら、優しく呼吸に戻します。
雑念を吐く息と共に吐き出します
場所はどこでもOK(椅子に座る、あぐら、ベッドで寝て、立ったままでも)。
慣れれば、満員電車の中でもできます
息を吐くときに力を抜くと、深くリラックスでき、体の感覚が薄れて「光」や「大きな力」とつながる感覚が生まれやすい。
肩の力を抜きます
瞑想が深まると、呼吸自体を意識しなくなるほど自然体になります。
こだわらないで
どこでもOK(お風呂、トイレ、ベッドの上など)。
寝ても出来ます(入眠時など)
朝日や夕日を眺めながらやると効果的。
太陽は絶対的な存在です
「光になる」「最高の自分になる」「人を助ける」と強く決意する。
瞑想がうまくいかないのは決意がないからです
ボンヤリとあてもなく瞑想しても、やはり、あてはないのです
微笑み+無条件の慈悲(全てを赦し救う心)を忘れずに。
自分の心を自分で建立することができるのです
守る力を受けるのが縁と他力、分けてあげるのが利他の種子です。
使い方を少しだけ明確にします。
繰り返す速さは、息の自然な長さに合わせます。
呼吸を操る必要はありません。
雑念が出たら、「今、種子が動いただけ」と一度認めて、また名を呼んでみてください。
疲れたらそこで止め、感謝だけ伝えて終わります。
やりすぎないことが苦を増やさない対応です。
上手に拝めたかは見ません。微笑み、名を呼び、「守る力」を受け入れてから分けてあげる。それが清浄の種子を重ねる短い実践になります。
ここでは「お堂の前で」と限定していますが、「あなたを救う絶対的存在」という意味です
お堂の前ならば、イメージに間違いがなく、強い実在感が伴います
イメージがあるなら、お堂の前でなくてもかまいません
心が動いても、苦を増やさない応答へ戻れるようになってきます
同じ縁が来たときの心の出方が、少しずつ変わります
「今、種子が動いただけ」とは、
今出てきているイライラや比較や不安を、自分の性格や失敗の証拠だと思わず、「昔から心の奥にしまってあった種が、今の条件で芽を出しただけ」と見る、ということです。
たとえば誰かに指摘されて腹が立ったとします。その怒りを「自分が未熟だから」と責めるのではなく、「指摘という縁が触れたので、すでにあった種が一時的に動いただけ」と一度認める。それが具体的な使い方です。
種そのものを今すぐ消す必要はありません。動いたことに気づいて、「これは今の動きだ」と名付けるだけで、聞・思の短い実践になります。次の瞬間に同じ種がまた動いても、また同じように一度認めるだけで続けられます。
阿頼耶識にしまってある種は、普段は眠っています。そこに「指摘された」「比べられた」「疲れている」「誰かの様子を見た」といった縁が触れると、種が芽を出します。だから日常では「自動的に出てきた」ように感じます。
一方で、朝に発心しておくと、同じ種が動いても「これは今の動きだ」と気づきやすくなります。種の発動そのものは止められなくても、動き出したあとの向きを少しずつ変えていくのが修行です。
心が穏やかに清まっていくというのは、こういうことなのです
お堂の前で拝む時のコツ
1 微笑む 大事なコツです
2 本尊様の名前を呼ぶ
3 息を吸う あなたを守る力が体に入る と思う
4 息を吐く その力を分けてあげる と思う
それを繰り返します
疲れたら止めて、本尊様に感謝を伝えます
守る力を受けるのが縁と他力、分けてあげるのが利他の種子です。
使い方を少しだけ明確にします。
繰り返す速さは、息の自然な長さに合わせます。
呼吸を操る必要はありません。
雑念が出たら、「今、種子が動いただけ」と一度認めて、また名を呼んでみてください。
疲れたらそこで止め、感謝だけ伝えて終わります。
やりすぎないことが苦を増やさない対応です。
上手に拝めたかは見ません。微笑み、名を呼び、受け入れてから分けてあげる。それが清浄の種子を重ねる短い実践になります。
ここでは「お堂の前で」と限定していますが、「あなたを救う絶対的存在」という意味です
お堂の前ならば、イメージに間違いがなく、強い実在感が伴います
イメージがあるなら、お堂の前でなくてもかまいません
心が動いても、苦を増やさない応答へ戻れるようになってきます
同じ縁が来たときの心の出方が、少しずつ変わります
「今、種子が動いただけ」とは、
今出てきているイライラや比較や不安を、自分の性格や失敗の証拠だと思わず、「昔から心の奥にしまってあった種が、今の条件で芽を出しただけ」と見る、ということです。
たとえば誰かに指摘されて腹が立ったとします。その怒りを「自分が未熟だから」と責めるのではなく、「指摘という縁が触れたので、すでにあった種が一時的に動いただけ」と一度認める。それが具体的な使い方です。
種そのものを今すぐ消す必要はありません。動いたことに気づいて、「これは今の動きだ」と名付けるだけで、聞・思の短い実践になります。次の瞬間に同じ種がまた動いても、また同じように一度認めるだけで続けられます。
阿頼耶識にしまってある種は、普段は眠っています。そこに「指摘された」「比べられた」「疲れている」「誰かの様子を見た」といった縁が触れると、種が芽を出します。だから日常では「自動的に出てきた」ように感じます。
一方で、朝に発心しておくと、同じ種が動いても「これは今の動きだ」と気づきやすくなります。種の発動そのものは止められなくても、動き出したあとの向きを少しずつ変えていくのが修行です。
心が穏やかに清まっていくというのは、こういうことなのです
瑜伽行唯識派の根本論書である『瑜伽師地論』(菩薩地・発心品)によれば、菩薩の最初の発心(発菩提心)は、四縁・四因・四力によって起こると説かれます。
「契機」として特に強調されるのは、外的なきっかけとしての四縁です。
これらは「増上縁」(発心を促す外縁)です。内的基盤としての四因(種姓具足、善友摂受、悲心具足、長時の苦に堪えられること)と、発心を堅固にする四力(自力・他力・因力・加行力)が伴って、初めて堅固な発心となります。
唯識の立場から見れば、これらの縁はすべて阿頼耶識に薫習された種子が現行する過程として理解されます
四縁と発心の関係は、「外から何かが心に入って発心させる」のではなく、「阿頼耶識の種子が、見かけ上の外縁を縁として、発心という現行を生じさせる」という無我の識転変の関係です。
日常の修行論では外縁と呼ばれるが、いずれか一つ、または複数で足りる。いわゆる「外縁」も阿頼耶識の外にはありません。
発心しうる素地。これがないと縁に遇っても発心しないか、質が歪む。
同じ発心でも、主となる力で堅固さが変わる。
関係は次のとおり。
四因=器と質/四縁=刺激/四力=現行の強さと持続。
因力が強ければわずかな縁で足り、他力や浅い加行だけだと退転しやすい。
因力が強い人は、わずかな四縁でも堅固に発心します。他力や加行力だけの発心は、相対的に不堅固とされます。
修行とは「私が自分を完成させる」ことではありません。阿頼耶識の循環の向きを変えることです。
日常の経験は、阿頼耶識の種子が縁に遇って現行し、また熏習し返す循環です。修行とは、この循環の向きを変えることです。
発心はその入口です。四縁・四因・四力で発心が現行したあと、その発心自体が新しい熏習となり、以後の行の種子になります。
聞
正法を聞く。唯識の教え、菩薩蔵、空と識の道理を受け取る。これは阿頼耶識に新しい印象を入れることです。
思
聞いた内容を如理に観察する。「外境は実在しない」「四縁も四力も無我」「発心する私も無我」と、分別を正す。
修
止観(奢摩他・毘鉢舎那)によって、その理解を散心の議論から定心の現観へ移す。
依り所 | 知る仕方 | 種子に対してすること | |
|---|---|---|---|
聞 | 文・他者の説 | 説のとおり | 正しい印象を入れる |
思 | 文と義 | 意趣を決める | 分別を正し、信解を熟す |
修 | 定中の影像(文に即しても離れてもよい) | 義が現前する | 対治し、転依の条件を作る |
転は、阿頼耶識を基盤とする有漏の流れが、別の働き方へ転換することです。八識が四智になる、という言い方がそれです。
これは、外から智が来るのでも、別の主体に入れ替わるのでもありません。依り所(所依)がひっくり返るので転依といいます。染汚の種子が尽き、我執・法執を支える仕組みが壊れることです。
その転換の結果として、円成実(真如・無我の智)が顕わになります。障が除かれるので、もともと空であった依他起が、空として現前する、という意味では顕現です。
ただし注意が要ります。
依他起の流れが、遍計の執着を離れたとき、その空性が智として現前する。これが転ずることの意味です。
だから修行は、智を外から獲得することでも、内なる仏を信じることだけでもありません。熏習を変え、執着の現行を止め、転依が起きる条件を作ることです。転じたとき、それは新しいものが到来したようにも、覆いが取れたようにも見えます。唯識はその両方を、識の転換として説きます。
要するに、転ずるとは「流れの向きが変わり、その結果として無漏の智が現前すること」です。顕現はその結果の言い方であり、転の全体ではありません。
よく読めばわかりますが
人種差別も性差別も貧富の差も身分の差も頭の良し悪しもありません
発心と修行は、機縁が熟すれば、人を選ばず発動するのです
「瑜伽」はサンスクリット yoga の音写で、語根 yuj(くびきでつなぐ、結びつける)から来ます。仏教では「相応」(ぴったり対応すること)と訳されます。では、何と何を結びつけるのか。
『瑜伽師地論』が挙げる四瑜伽
結びつくもの | 意味 |
|---|---|
止と観 | 心を一つに止めることと、ありのままに観察することが平等に運ぶ |
境と智 | 観察対象と、それを見る無分別智が離れない(境智無差別。真諦の阿摩羅識もここ) |
教と行 | 聖教の内容と実際の修行が一致する |
行と果 | 修行が正しい果(転依・涅槃)へ向かう |