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自分の心の動き

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隅寺心経 奈良時代 長保寺蔵   深く智慧を修行した時、「五薀は皆な空」なりと照見した(心経) この五薀とは、色受想行識のことで、感覚器官で感じてから意識に上るまでの過程を、仏教ではかなり細かくこだわって分析しているのですが、一言で言えば、「自分の心の動き」です つまり 「自分の心の動き」=空=entanglement 心経によれば、五薀=「自分の心の動き」は  不生不滅だから、始まりもなく終わりも無い  不垢不浄なので、貴賤上下善悪優劣など諸々無い  不増不減てことは、エネルギー不変の法則で、ほっといても無くならないってことですね だから、これを読んでいるあなた自身は、永遠だということです 死去とか逝去という言葉がありますが、今生から去っても、「自分の心の動き」は無くなりません これがですね、善いか悪いかと言うと、仏教では、輪廻転生必ずしも面白くないと言う立場です だからと言って、頑張るしかないですけど 因果応報、業、宿命など諸々、生まれ持ってきているわけですが、永遠の過程の一場面ではあるのです そこを、なるべく息災に安穏にと願うわけです 時間は永遠にあるので、諦めずにコツコツとやっていこうとは思っています 100点満点は無理でも、せめて60点、できればあと1点、あと1点、とやっているつもりです いろんな宗教があり いんなことを言う人がいるわけですが 朝、誰かが代わりに顔を洗ってくれるわけでも、トイレに行ってくれるわけでもありません 腹が減ったら、代わりに食べてくれるなんてことも無いのです 結局、自分なのです 永遠不滅の「自分の心の動き」を大事にしてください

仏教修行の基本

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 仏滅後100年頃、仏教は上座部(伝統重視)と大衆部(臨機応変)に分裂します 上座部の修行法をまとめたのが、清浄道論です 内容は、シャマタ(止)、ビバシャナ(観)です 大衆部の修行法をまとめたのが、摩訶止観です 内容は、当然、止観です 仏教の歴史を通じて、他にはこの解説書がある位です https://chohoji.blogspot.com/search?q=摩訶止観 上座部のシャマタ(止)ビバシャナ(観)と、大衆部の止観はどこが違うのかですが 上座部の経典に、法華、般若などを追加したのが大衆部ですから、上座部と大衆部は骨子は同じと言っていいと思います 上位互換と言ったら怒られます 上座部は、いわば、原理主義 大衆部は、いわば、拡大解釈派です 日時計を見て、午前中に食事を終わらせる決まりだったのを 上座部になった人達は、きちんと守り 大衆部になった人達は、日時計指一本分は誤差として認めて欲しいとしたのを否定されて、分裂したということです だから、上座部と大衆部の本質的な違いは、指一本分です 摩訶止観を講義したのは天台大師です 天台大師画像 長保寺蔵 桃山時代 天台大師は大蔵経全てを、説法年代別、説法内容別に整理して、修行法も体系化して、今でも仏教学の基本です 気持ちを静めて(止) 正しく思う(観) 簡単だとは言いませんが 仏教の修行は、ただこれだけです 産まれながらに持ち合わせている「気持ち」を、何故に落ち着かせなければ(止観の止)ならないのか? 生命進化の歴史を経てきた我々は、自分にとって安全で利益のある物事に、特に関心をもちます 自分の生存に関わるからです それを、自己中心的に解釈すると、歪みが生じるのです 根深い問題です 自分自身を守るための生命反応が、利己主義の原因になっています 「万物はentanglement」なのですが、時間空間、生死、苦楽も作り出しています しかし、我々は、そうやって生きているのです では、我々は、歪んだquantumを量産するために生きているのか? この図から考えるならば entanglement だけでは世界は存在できません あなたが、矢印の「観測」をしない限りquantumは生じないのです(止観の観) この世界には、あなたの「より善い思い」が必要なのではないですか 仏教で、善いこと、と言ったら十善戒が思い浮かぶわけですが、これも

共鳴とプロトコル

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 仏教の修行の最も古典的な説明は中国の天台大師の「止観」です 「忘我と精神集中」「私利私欲を制限して真実を行う」意味で、読経、坐禅、念仏などほぼこれで説明できます この200年程後に日本の弘法大師が「加持」という概念を確立します 仏の側からの働きかけが説明できるようになりました 止観では、自分自身の修行が強調されるわけで、感覚の制御(止)をするのは自分で、何を観るか(観)も自分です 加持は 「仏日の影、衆生の心水に(現ずる)を加といい、行者の心水、よく仏日を(感ずる)を持と名づく」 即身成仏義 弘法大師 と言う説明ですが どうすれば、よく現じ、よく感じるのか? 弘法大師によれば、三密加持(身口意、印・真言・観念)すれば速疾に現れることになっていて、1200年の間に数多の高僧を生み出し続けてきていますが、弘法大師クラスの聖者を量産したという噂は聞かないです 生まれてついての才能、素質も必要なのでしょう 三密のうち、印と真言は模倣が可能で、別段難しくはありません 問題は観念で、伝授できるように言葉で書かれたものが一応ありますが、人によって理解の深さが全く違うので、ここで差がつきます 身ー写経、修験、滝行などー印 口ー読経、念仏、声明などー真言 意ー禅、瞑想、誘導催眠などー観念 大まかに配当するとこうなりますが、この観念がですね、entanglementの部分に含まれてくると考えられるわけです それで、どのように「自在に観る」のかが大事になります 写経、読経、念仏など、どのような拝み方にも「心の動き」があり、それは「自在に観る」ことそのものです 身と口の所作は様々ありますが、そこに心がこもっていなければ、ほとんど意味は無いでしょう 仏教に限って言っても、様々な伝統があるのですが、やはり「自在に観る」ことが大事です 仏菩薩の側からの働きかけを説明するのに、加持という概念が必要なのですが、単純に言えば、「仏と自分が繋がる」ことです 「繋がるの」をサンスクリット語で言うとYOGAです 理論的に言うと、entanglememtな存在同士が、どのように繋がるのかという問題になります 「万物はentanglement 」ですから、別々でもなく、同一でもありません これがどうすれば繋がるか プロトコルは、最低限、平和である必要があります やはり、例えるならば、resonance(共振、

死をどう考えるか

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 親しい人との死別や、自分が死んでいくことに、手っ取り早い慰めや、気の利いた気休めなんかありません 何をどう言ったところで、辛く悲しいものです ただ、輪廻転生とか、臨死体験とか、頭ごなしに否定しきれない事例もあるにはあるのです それを、まあ、どう考えるのか s uperpositionには、波動の減衰はないんだろうなぁ だって、増えるも減るも無いんだから     とすると、superpositionにある僕らの存在は、永遠に(と言っても時間は無いわけだが)無くならない     だから、今見える聞こえる世界で死んでも、superposition で、存在は消えない     つまり、「死」は無い     ただね、今生での別れはあるんですよ     避けようもなく     それを「死」というなら「死」はある superposition にあるentanglementを(観測)することでquantumが生じるのであって、quantumが独自にあらかじめ存在しているわけではありません     この(観測)が自我の核心部分です     で、この自我の核心はどこにあるのかというと、quantumは(観測)で生じるのですから、entanglementに自我の核心があることになります (概念としては、自我の核心がentanglementにあるわけですが、entanglement は有無どちらでもないわけで、仏教では自我は無いことになっています)     死んだら自分のquantumは消滅するのですが、entanglement に自我の核心が存在しているので、(観測)は終わらず、来世はある、でいいのではないですか 上の図で言えば、矢印の部分の観測によって白いモヤモヤのquantum が生じるのであって、矢印そのものはquantum には含まれないのです、というか、含まれたらそもそも観測できない とすれば、矢印はentanglement の側になければならない 矢印とは観測する自我の核心ですから、自我の核心は、時間も空間も無いentanglement にあることになります     死は親しい者との別れを強制しますが、お互い時空の無いentanglement に自我の核心が永遠に存在し続けているわけですから、いずれ再会します 今、この文章をお読みになっているあなたの「自分自身」は、enta

万物はentanglement

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イ ーロン・マスクがTwitterを買収したのを機会に、またTwitterに戻って思考の過程の記録にしようかと考えました これは、その原稿を下書きにして整理したものです 田 坂広志「死は存在しない ― 最先端量子科学が示す新たな仮説」 量子論と仏教の世界観の接点を示唆する書ですね  「ゼロポイントフィールド」と「空」は極めて似た概念だということが分かります     ただ全ての神霊現象をゼロポイントで説明するのは、やや大雑把な印象  天動説の図 wikiより   ガリレオの時代、天動説でも一応宇宙を説明できたわけだし、仏教でもアビダルマで何もかも説明していたわけだが、やはり理屈はどこまでも理屈であって、なかなかうまくいかくなるもんなのです ゼロポイントフィールドに、「なぜ意識が生じたか」 それに答えるために、ポオのユリイカが持ち出されるのでしょうか それが我々の未熟な頭脳に投影されると、ありとあらゆる「転倒夢想」が生じるということなのでしょう     仏教的な理屈からすれば、この「歪み」から目覚めなければ、苦厄から解放されないことになる     それが「信仰」「修行」「仏道」の肝腎要であるわけです     その「肝腎要」の最も効率的で簡単で分かりやすい方法を模索してきたのが、仏教の歴史ですね     これがまあ、理屈はわかっていても100点満点で実施されるわけではなくて     お釈迦様を100点満点とするならば、まあまあ60点も取れればボーダーラインあたりということでしょう      「空」 とはなにか?     と問うならば     今、モニターを見てますよね     パッと目をつぶってみてください     さっき見ていたモニターは「空」になっています     そこにあるのだけれど、見てないのだからわからない     「ある」でも「ない」でもない、でもまあ、あるわけです     それが「空」です     パッと目をつぶってしまえば     見てないのだから、目の前のモニターだろうが、地球の裏側だろうが、宇宙の果てだろうが関係ない     見てないのだから、「いま」も「きのう」も「あさって」も関係ない     つまり、空間も時間も無い     でも、現実の世界がそこにある     伝 統的な仏教の瞑想では、瞑想中に目は閉じず、半眼といって、薄目を開けることになって

令和5年正月 限定御集印

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長保寺受付にて 書き置きをお授けいたします 一部500円