三密加持は、平安時代に真言宗と天台宗において精緻に体系化された仏教の修行法です。両宗派はともに三密加持を重視しながらも、その依拠する経典や解釈の幅において異なる展開を見せました。
鎌倉時代に、仏教が大衆にとって必要十分な実践へと変化する素地が、三密加持の中にあったのです。
なにかが入り込むのでも、生まれるのでもありません。
ただ、伝統的な唯識論では仏性のない人も想定されているので、加持を説明するには天台本覚思想も必要です。
1. 「種子(唯識)」と「理具(本覚)」の違い
- 唯識学においては、阿頼耶識に蔵される無漏の種子は、あくまで未来に発芽する可能性(潜勢力)としての「種(たね)」であり、現在はまだ現れていない不完全な状態(始覚の立場)と捉えます。伝統的には、仏性のない人も想定されています。
- これに対して天台本覚思想では、唯識でいうところの「不完全な心の中の、完全な心になる可能性」を単なる未来の種とは見なしません。今ここにある不完全な心そのものが、そのままで元々完全に悟っている状態(本来成仏・理具)であるとします。
2. 天台本覚思想からみた「加持」の再定義天台本覚思想の文脈において加持を捉え直すならば、それは「不完全なものが、外の縁によって完全なものへと変化するプロセス」ではなく、「迷いという幻想によって覆い隠されていた、本来の完全な現実(本覚)が、仏という縁に触れることで、ただそのまま現前(顕現)するプロセス」となります。つまり、唯識のいう「種子の現行化(発芽)」は、天台本覚思想においては「元々そこにあった真実の顕現」とされます。
伝統的な唯識論では仏性のない人も想定しています。人はなぜ悟ることができるのか、を考えるとき、天台本覚思想は無視できない理論と言えます。
「不完全な心」そのものから「完全な心」は生まれません。
- 増上縁(ぞうじょうえん):仏の無漏の法界(清浄な識の現れ)が、行者の阿頼耶識の表面へ外側から強力に働きかけ、有漏の心の働きを抑制・阻害しない(ひいては清浄な側へと方向づける)外的な勢力となります。
(仏の側から、始まりも終わりも無く、働き続けている縁。) - 所縁縁(しょえんえん):行者が仏の相好(姿)や功徳を観想(瞑想)するとき、仏の無漏の境地が行者の心の「対象(所縁)」となります。行者の有漏の心(見分)は、仏という無漏の対象(相分)を内面に映し出すことで、一時的に極めて清浄な状態へと方向づけられます。
(行者の側が働きかける縁。修行がこれにあたる。)
すでにそこに存在していたものが現れ出るのです。
- 仏の無漏現行が増上縁として行者の阿頼耶識に接触するのが{加}です。
- 行者の阿頼耶識の奥底で眠っていた本有の無漏種子が、この増上縁によって直接刺激される。
- 刺激された無漏種子が因(等流因)となり、行者の心に無漏の現行(等流果)を一瞬にして生起させる。
- 遍計所執性(へんげしょしゅうしょう:虚妄の分別)の断絶:
普段、行者の有漏の心(末那識など)は、「これが自分であり、外に仏という実体がある」という自他の絶対的断絶(我執・法執)に囚われています。 - 依他起性(いたきしょう:他縁によって生滅する心)の浄化:
仏の加(増上縁)によって無漏種子が発芽した瞬間、行者の依他起性(心の生滅のプロセスそのもの)から、虚妄の分別が削ぎ落とされます。 - 円成実性(えんじょうじつしょう:真如の実顕)の維持・持続:
分別の消滅により、自他が本来一如であるという真実のありよう(円成実性)が、行者の心に一時的に現前します。
この「真如の現前」を、行者の心が有漏の制約を受けながらもブレずに維持し持続させている状態が{持}です。
- 加(か):仏の無漏現行が、増上縁として行者の阿頼耶識に接触すること。
仏の誓願が増上縁の根拠です。 - 持(じ):その接触を契機として、行者の阿頼耶識に蔵される無漏種子が発芽(現行化)し、その清浄な状態を維持すること。
一切衆生 悉有仏性(涅槃経)という言葉を、行者の無漏種子の根拠とすることができます。これは天台本覚思想を必要とする部分です。
常に働き続けている仏の心(増上縁)と、行者が仏を所縁(対象)として観じる修行(所縁縁)とが接触したことを契機として、行者の阿頼耶識の奥底に元々蔵されていた「完全な心になる可能性(無漏種子=仏心)」が、ただそのまま現前(現行化)します。
仏心は、行者の分別や想像で作られるイメージではありません。行者の心の深層から現れるのです。










