今日一日、苦しみを与えない
諸行無常 諸法無我 一切不可得
明日一日、苦しみを与えない
死と識
今、私たちが生きているこの世界は、外界実在論でいえば、私たちが住んでいる場所で、死とは、一人ぽつんとこの世界から消え去ることです。
ところが唯識論では、この世界は器世間といい、衆生に共通する種子(共相種子)から、それぞれの識が似た世界を変現する、としています。ですから、唯識論でいう死とは、人格は死によって終わりますが、その人の行いは阿頼耶識(行いや経験を種子として蓄える、心の奥底)に蓄えられ(共相種子として残るものもあります)、その人生は虚無に帰したのではない、ということです。阿頼耶識や共相種子と呼ばれる縁の継続は、この世界のあり方そのものであり、不断に続きます。
自分の人格に愛着を持つのは当然ですが、死によって失われるのは受け入れるしかないのでしょう。ただ、それで人生の意味の全てが否定されるわけではなく、行いは阿頼耶識に蓄えられ、世界の縁起は不断に続きます。ですから、仏教は、識の続き方を心配している、と言えます。その答えが、最初に掲げた三句です。
阿頼耶識と末那識
阿頼耶識は、行いが心に残した力を、種子として蓄える深層の心で、末那識(自分に執着する深層の心)は、その阿頼耶識を「我」と執着し、「これは私」「これは他と別」という区切りを保ち続けます。この二つは、不可分で切り離せません。一組で、一人の人格の深層をなします。
蓄えられた種子は、縁によって現れます。その種子のうち、人々に共通する共相種子からは、共通の世界(器世間)が現れます。
阿頼耶識も末那識も、縁によって現れる流れであり、無我・無自性です。執着される「我」は、どこにもありません。それでも、末那識の「私」という思いは、死によってなくなるわけではありません。この人生の人格は終わっても、蓄えられた種子は、縁によって、また現れます。
重々帝網
個々の阿頼耶識は別々でありながら、共通の世界を現します。そのさまは、帝釈天の網の珠が互いを映し合う姿に似ています。
帝釈天の宮殿の上に、美しい網が果てしなく広がり、その結び目ごとに宝珠が輝いています。どの宝珠も、ほかのすべての宝珠を映し、映った像の中にも、また宝珠が映っています。珠の境界は実体ではなく、映り合いの中でだけ成り立っています。この宝珠は、人々の奥深くにある心です。この重々帝網の中に、強く暖かく輝く光があります。
宝珠が一つの球体に見えるのは、末那識の区切りの働きによる、と見ることもできます。球体は、唯識でいう「似現」、つまり、そのように現れた姿です。転依(迷いから悟りへの、心の転換)が起こると、末那識は、自他を平等に見る智慧(平等性智)に転じます。そのとき、珠と珠の境界は溶け、映り合いそのものが現れます。
輪廻と先達
衆生の阿頼耶識と末那識は、途切れることなく続き、心の深いところが迷いから悟りへ転じるまで、輪廻は続きます。
私たちは迷える衆生のままであっても、先に歩む先達がいることは、当然に想定されます。その先達が、迷いから悟りへ転じて輪廻を終えることも、あって不思議ではありません。
その一人が釈尊であるとしたら、どうでしょうか。
そうであれば、釈尊も、悟りを開く前は、私たちと同じように、阿頼耶識がはたらいていたことになります。
転依によって如来となり、人としての生は終わりましたが、その慈悲は、今も縁としてはたらき続けています。この慈悲の、強く暖かく輝く光を、仏の誓願とも言い、密教では加持力と言います。
如来は、宝珠の中にも外にもいない
如来は、特定の一つの珠の中にいるのではなく、網の外にいるのでもありません。毘盧遮那仏の世界は、網そのものとして現れています。区切りを執るあいだは、「如来はどの珠にいるか」と問いたくなります。転依によって区切りが止めば、珠が互いを映し合うはたらきそのものが、如来のはたらきとして現れます。
色即是空と転依
転依は実は、すぐ身近にあります。
今見ている姿(色)は、見られる前は(空)であり、
その(空)を、見ることで、今見ている姿(色)となります。
これを自覚することが、転依への道です。
その道は、どこかで起きる特別な出来事ではなく、この知覚の構造を、繰り返し自覚していくことの中にあります。
『般若心経』の「色即是空、空即是色」は、実体がないからこそ、形が成り立つ、という教えです。今見ている姿も、見る働きと別に、「この色」として決まっているものではありません。見ることで、その姿として現れます。この知覚の瞬間に、色即是空・空即是色は、すでに成り立っています。色即是空が示すのは、転依が起きる理由ではなく、転依が可能な構造です。
帝網の宝珠も同じです。珠は、自性がないからこそ、ほかのすべての珠を映し込めます。量子論のエンタングルメントと似た構造です。
ところが末那識は、見られた色を「自性(それ自体で成り立つ、固定した性質)のあるもの」と執り、宝珠を球体として固定しようとします。しかし、その色は、見ることによって初めて、その姿として現れるものです。固定しようとする執りに、根拠はありません。
「今見ている色は、見ることで現れたものだ」と気づくたびに、執りは少しずつ根拠を失います。転依は、その気づきを重ねた先にあります。
迷いから悟りへ転じた(転依した)先達は、網そのものとして強く暖かく輝いています。
光を受けとめる心があるとき、そのはたらきは、私たちの中に現れます。
簡単な実践法です。あなたも祈ってみてください。
微笑む
仏様の名を呼ぶ 「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」
息を吸う あなたを救う力が、心に現れる
息を吐く その力を、大切な人へ分ける
力まず、呼吸を繰り返します
疲れたら止め、仏様に感謝します
胎蔵尊形曼荼羅中胎八葉 長保寺