修行に対する考え方
先日あるお寺の行事で、近くの天台の住職が4人程集まった
その席で施餓鬼作法の話になった
どうも天台では、作法の統一が無い、という話
つまり、法曼流(ほうまん)と穴太流(あのう)という2大派閥があって、ちょっとづつ作法が違う
信仰や修行は、個人でするものだから、作法に統一感があろうとなかろうと、どっちでもよさそうなものだけれど、何人か集まって法要をするとなると、それでは困る
それが、もう、鎌倉時代からバラバラなんです
だから、やる度にちょっとづつ違うということにもなる
高野山では中院流という流派で一応統一されてはいる
しかしながら、密教の作法は、厳密に言えば、ほとんど無数のバリエーションがあり、実際に、施餓鬼法だけでも、無数の拝み方があり、中院流にもいろんなバリエーションがある
僕は高野山の中院流でも2種類の伝授を受けている
こういうことは、お寺の住職でも、ほとんどの人は知らない
つまり、「こういう時にはこうする」、という方程式のようなものは無いということなんです
だから、原理主義など、つまり、独裁主義に過ぎないということでもある
フランチャイズの外食チェーンのような、マニュアルどうりやれば同じ味になるようなことを考えていても、密教には元々そんなものが無いのだから、新たにお家元を作るような努力が必要になるでしょうな
天台では3年籠山(ろうざん)という制度があって、3年間比叡山を出ずに修行する人が、今でも年に10人前後初めていると思うが、これは、100日回峰や常行三昧をしたりもするが、ほとんどの期間は山内の各御堂で小僧さんをすることになっている
人間関係の中で評価されることが必要だと考えているからでしょう
高野山にはこのような制度は無く、修業は基本的に一人で籠ってする
いわば、個人的な達成感が目的で、超能力者を目標にしているような感じになる
まあ、僕的に言えば、どんな超能力があっても、人間関係が滅茶苦茶ではダメなわけで、天台的な考え方が洗練されていると思いますがね
天台
作法の統一感が無いが、人間関係を重視
高野山
作法は一応統一してるが、修業は個人的なもの
うーむ
どっちもどっちだが(汗)
やっぱり、大乗仏教の母山と、真言密教オンリーの、考え方の違いが出てますねぇ