時間を超越した「意味」
「越三時如來之日。加持故身語意平等句法門。
三時を越えたる如来の日。加持のゆえに身語意平等句の法門なり
大毘盧遮那成佛神變加持經 入眞言門住心品第一」
仏教で言う「空」は、感覚器官で感じる前の世界ですから、永遠にどのようなものか、わかることが出来ないことになります
それこそが真実で実体だとしても、感じる前の姿ですから、わかりようがありません
でも、実際に見えたり聞こえたりしてるわけですから、そこにあります
ですけれど、見えたり聞こえたりして感じているのは、結果としての脳内のイメージでしかありません
それで、真実にたどり着く方法論が必要になります
yoga
真実と人間をつなぐ マントラや祈り、瞑想、断食、苦行など、いわゆる修行と言われていること全ての原型があります
止観
感覚器官の制御(制感) 考えたり感じたりするのを休めば真実が沸き起こるという考え方です
加持
仏教ではyogaの影響を受けて、加持という方法論が出てきます
仏教でも瑜伽師地論とか金剛頂瑜伽など瑜伽(ゆが yogaですね)という言葉がそのまま使われることもありますが、日本で密教が集大成されると加持という言葉だけになってきます
弘法大師が明確に密教の方法論を定義します
「仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく
即身成仏義」
もともと大日経にある概念です
「三時を越えたる如来の日」
この三時は、おやつの時間、じゃありません・・・
ここでは過去・現在・未来のことです
如来とは、「来るが如く」で、厳密には仏とか神とか言ったらそれはイメージにつけたレッテルなので、実体は感じる前の世界にあることを言おうとしてます
如来は、感じる前の世界の存在なので、時間は当然、ありません
ついでに書いときますが、数もありません、大きさも、形も、重さもありません、有るとか無いとかが無いんです
でも、存在してます
存在してる「意味」というか、実体を表にしたのが曼荼羅です
あの世がこんなかっこをしてる、ということじゃありません
感じる前の世界にある、時間を超越した「意味」を視覚化してみたら曼荼羅になったと(つまりこれもイメージですね)
「身語意平等句の法門なり」
如来の身語意を三密、衆生の身語意を三業とし、三密と三業が同じになれば、平等になったということです
やってることと考えてることが同じなら、同じになったと
句はメソッドという程度の意味で、方法とか手法とかいう意味ですね
「三密加持すれば速疾にあらわる 即身成仏義」
手に印を結び(身)
口に真言を唱え(語)
心に仏を思う(意)
これができれば、加持ですよ、と
手と口は、まねればすぐできます
心ですね、修業が必要なのは、ここがなかなか難しいからです
印と真言を習うだけでも大変です
けっこう難しいです
で、形骸化しやすいと
合掌礼拝を「身の一密」
念仏や経典読誦を「口の一密」
止観坐禅を「意の一密」
とか言ったりもします
空即是色--->加即是持
これが、なかなか理屈どおりに簡単でないと、ま、そういうことです