万物はentanglement

ーロン・マスクがTwitterを買収したのを機会に、またTwitterに戻って思考の過程の記録にしようかと考えました
これは、その原稿を下書きにして整理したものです


坂広志「死は存在しない ― 最先端量子科学が示す新たな仮説」
量子論と仏教の世界観の接点を示唆する書ですね

 「ゼロポイントフィールド」と「空」は極めて似た概念だということが分かります
    ただ全ての神霊現象をゼロポイントで説明するのは、やや大雑把な印象

 天動説の図 wikiより


 

ガリレオの時代、天動説でも一応宇宙を説明できたわけだし、仏教でもアビダルマで何もかも説明していたわけだが、やはり理屈はどこまでも理屈であって、なかなかうまくいかくなるもんなのです

ゼロポイントフィールドに、「なぜ意識が生じたか」
それに答えるために、ポオのユリイカが持ち出されるのでしょうか


それが我々の未熟な頭脳に投影されると、ありとあらゆる「転倒夢想」が生じるということなのでしょう



    仏教的な理屈からすれば、この「歪み」から目覚めなければ、苦厄から解放されないことになる
    それが「信仰」「修行」「仏道」の肝腎要であるわけです
    その「肝腎要」の最も効率的で簡単で分かりやすい方法を模索してきたのが、仏教の歴史ですね

    これがまあ、理屈はわかっていても100点満点で実施されるわけではなくて
    お釈迦様を100点満点とするならば、まあまあ60点も取れればボーダーラインあたりということでしょう

    

「空」とはなにか?
    と問うならば

    今、モニターを見てますよね
    パッと目をつぶってみてください
    さっき見ていたモニターは「空」になっています

    そこにあるのだけれど、見てないのだからわからない
    「ある」でも「ない」でもない、でもまあ、あるわけです
    それが「空」です

    パッと目をつぶってしまえば

    見てないのだから、目の前のモニターだろうが、地球の裏側だろうが、宇宙の果てだろうが関係ない

    見てないのだから、「いま」も「きのう」も「あさって」も関係ない

    つまり、空間も時間も無い
    でも、現実の世界がそこにある

   

統的な仏教の瞑想では、瞑想中に目は閉じず、半眼といって、薄目を開けることになっています
    目を閉じてしまったら、眠くなってしまいますから

   
老病死と愛憎と歓喜と絶望と勝ち負けと損得などが押し寄せてくるのが、我々が普通と思って暮らしている娑婆世界なのですが
    押し流されているだけでは、浮いたり沈んだりを繰り返すだけです

    お釈迦様が登場して、ついに人類はFirst principlesに到達して、問題解決の端緒をつかんだと言えるでしょう

    このままでは悲喜こもごも、浮沈を繰り返すだけだと気がつかないと(それを無常感と言ったりしますが)、仏教の必要性は感じないかもしれませんね

   じるなら、自分を信じてください
    信じられないのは、歪んだ方の自分しか知らないからです

    神や仏は、「尊敬」するものではないですか


   


近は、躊躇なく量子論系スピリチュアルが語られているようですが

    もう10年近く量子論との関係を書いてきて思うのですが、心と物質がどういうメカニズムでコヒーレントな干渉作用に至るのか、十分解明されていないわけで、そこがですね、オカルトな怪しさになってくるわけです

量子論と仏教のつながりに気づいて勉強し始めたのが12年前位か・・・


心と物質が繋がる場所はシナプスあたりが疑われるわけですが、まあ、チャクラもどうかということにはなる


    量子論という言葉を使うようにして量子力学とか量子物理学という言葉をなるべく避けるようにしています

    力学とか物理学となれば、実験と観察が計算式で立証される必要があるわけですが、量子「論」ならば、推論や推定が織り交ぜられていても、まあ、許容されるからです

    現時点の量子系スピは、「論」を盛り盛りにして、真実や事実に格上げしてしまっているのが多いかなという印象

    まあ、そんな簡単に奇跡は起こらんよ

    朝起きて、顔を洗って、トイレに行って、飯を食べるのは、全部自分でしなきゃならないのです
    誰かが代わりにやってはくれません

   
識三年、倶舎八年と言ったりするのですが、仏教哲学の分野ですかね、これを、量子論に落とし込めば、近い感じなので、ほぼ矛盾なくあてはまっていくような気がします
    ただし、曖昧さを放置して、推論を重ねればですけれど

    「一法界、多法界」というテーマで卒論を書いている人がいたなあ

   
子もつれをentanglementというのですけれど
    つまり、観測されない限り、物事は全てentanglementな状態でいるわけで、それをsuperpositionというと語感からわかりやすくなります

    2022年のノーベル物理学賞に「量子もつれ」の研究者3人|ノーベル賞2022 NHK

    このsuperpositionが、つまり、「ある」でも「ない」でもなく、「現在」でも「過去」でも「未来」でもないのです

    それを、2500年前から、仏教では「空」と言ってきたのです

    自分がしたことは自分に返ってくる

    「心」と「物質」が、どのように干渉作用を起こすのか、あるいは、superpositionの中で、どのような状態でentanglementしているのか

    これは、仏教にも明快な説明はないかなぁ

    「能感・所感」「理・智」「胎蔵・金剛界」など研究はされてるが

    


「心」と「物質」が統合された状態を、天台大師は「実相」としているのだけれども

    まず、これを理屈として理解するのが、なんというか、ハードルが高い
    体得したら、たぶん、神々も一目置く存在になれるでしょう

    一心三観 

    EPRパラドックスが物理学の世界できちんと否定されたってことは、superpositionを語っても変人扱いされないってことですかね

    ただ、仏教は2500年前からやってるわけで、「心経」に要点が語られているのですよ

   

世界最古の「心経」
    心経


    量子論から心を説き起こすのを、プラトンのイデアと繋ぐ発想もあるにはあるのですが、これねえ
    プラトンは瞑想はしなかったらしいのですよ

    仏教には瞑想がセットであるのです
    一歩踏みこんでいると言えるでしょう

   

仏教の普遍性

    ノーベル賞でEPRパラドックスが終わりになったなら、ペンローズの量子脳理論とホログラフィック宇宙論が洗練され、統合され、裏付ける方程式を提示する天才があらわれるのは、時間の問題でしょう

    受賞は時代の曲がり角だということ

   

法大師の声字実相義は、全ては波動だと言い切っているのだけれども、仏教的な心と物質の統合理論とも言えますね

    人間の五感は、波動を感知してるとも言えるのですが、帯域を広げれば、オカルトなトンデモ理論も、正しい常識になると思いますよ

   
心伝心がsuperpositionで行われるという可能性を、真向から否定し、トンデモと決めつける方は人類進化の方向性を鑑みるにホモサピエンスから見たネアンデルタールかもよ

いきなり他人の思考が自分の脳に流れ込む、などというのは、理屈で考えると、無いんだよ

    pcのネットワークでも、隣同士のpcをピアツーピアで接続しない限り、一度ハブに迂回されるわけです
    そのハブは、最低限ネットワークが破壊さないよう交通整理をせざるを得ない
    つまり、ネットワークは平和

    これ実は、「己界、仏界、衆生界」で、大雑把に言うと、自分→ハブ→他人という構造になっているのを天台大師が書いています
    で、そのプロトコルは「慈悲」なんだな

    「慈悲」は自分と他人がentanglementになっている状態で、自分が自分を助けることと同じです

    慈悲は空より生じるのです

  

教と一口でいいますけれど、タイとかの上座仏教は、日本仏教とかなり違うんです
    妻帯しないのは、特にこだわっていて、日本以外では妻帯してたら
    在家あつかいです

    ただ、本質的違いはそこじゃなくて、上座部には般若心経は無いんですよ
    パーリ経典に無い

    だから、上座部には「空」という概念が無い
    控えめに言って、これからの時代、大きな伸びしろがありますね

    「空」という概念が中心にある日本仏教は、ピンポイントで、この部分に大きな責任があるのではないですか

    日本仏教には、奈良の官製仏教からはじまり、平安時代に最澄、空海によって書き加えられ、鎌倉時代に法然、親鸞、道元、日蓮などあまたの天才達によって改革されてきた歴史があります

    EPRパラドックスが否定されたわけだし「空」を中心に再編されるかもですね

   

superpositionには、波動の減衰はないんだろうなぁ
    だって、増えるも減るも無いんだから

    とすると、superpositionにある僕らの存在は、永遠に(と言っても
    時間は無いわけだが)無くならない
    だから、今見える聞こえる世界で死んでも、superposition で、存在は消えない
    つまり、「死」は無い

    ただね、今生での別れはあるんですよ
    避けようもなく
    それを「死」というなら「死」はある

    「死後」があるなら、そこに持って行けるのは、「心」だけです
    「心」と向き合うのが、人生で最も重要ということになりますね

    「心」と向き合うことに、自分の持っている全てのリソースを集中させるのが「出家」でしょうね
    戒律とか、修行とかは、その一面にすぎないということです

   
子論的に言えば、superposition(空)は、観測されれば(説明されれば)それはquantumなわけで、entanglement な状態でなくなります
    鎌倉時代になって、興教大師が加持身説法という修正案を提唱しましたが高野山から追い出されてしまいました

「空」は、果分不可説と言って、説明してはならなことになっています
説明したら、それは論であって事実ではないと言う立場
禅で「隻手の声を聞け」というのもそれ

ただ、世界の仏教の歴史で、弘法大師だけが果分可説で、法身は説法すると言う立場

 

    「己界・仏界・衆生界」がどのように繋がるかですけれど

    先ず、ネットワークは最低限破壊されないよう「平和」でなければなりません
    だから、最もスムーズに通用するプロトコルは「慈悲」です

    プロトコルがつながると、共鳴(resonance)します

    これを密教で加持といいます

   

「仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく」 即身成仏義 弘法大師

仏は常に我々を助けようとしています(大慈悲)

仏に向かって、「大好き」「いつもありがとう」と念じてみてください

プロトコルが成立し、resonanceが生じます

   
想の大事なコツに、一番最初に「微笑む」というのがあるのだけれど、これ、今までほんとに誰も言わなかった
    「無ーーっと」とか、ただ半眼にしろ、とかしかなかった

    やってみたらわかるけど、入り方が違うよ

    理屈は、プロトコルが「慈悲」だからです

瞑想や坐禅や念誦、などなかなか成果が出ない人は、一番最初に「微笑んで」、神仏に向かって「大好き、いつもありがとう」って念じてから初めてみてください

今まで、そんなことしたことありますか

神や仏も、「うれしい」と思うんじゃないでしょうか

    瞑想の時の呼吸法は、4つ吸って8つ吐く、とか色々言うのだけれど
    これは、仏教で言う数息観(すそくかん)と本質的に違います

    普通呼吸は無意識にしていますが、その無意識の呼吸の数を数えるのが数息観
    つまり無意識を観察している

    テクニカルな呼吸は、意識した呼吸法

    呼吸は、意識的に吸って吐いてとできるし、普段は無意識にしている
    つまり、意識と無意識にまたがっている

    無意識にしている呼吸の数を、ただリラックスして数えるのは、自分の無意識を観察していることになる

    何回吸って、何回吐くというのは、意識的呼吸法であり、無意識の観察では無い

数息観は、「ひとーつ」「ふたーつ」と10まで数えて、それを繰り返すのが一般的ですが、100とか50とかやれと言う人もいる

やればわかるけど、100までなんて集中力が続かんよ

数えることじゃなくて、普段無意識にしている呼吸を観察するのが大事です

    プラトン哲学や量子論と違って、仏教には生老病死の巷で生きている自分自身の奥底にある「空」にアクセスする方法があります
    そして、自分自身の「空」に触れなければ、苦厄から逃れることは難しいのです
    大まかに言うと、そのやり方は「止観」です

    今の自分から離れて、「空」に触れます


「空」は、つまり、ゼロポイントフィールドですから、秩序が破綻していない
完全な秩序と言うこともできる

「空」に触れることで、我々は深く癒されるのです

 

   
「空」の中でプロトコルが成立するには、resonance(共鳴)する必要がある
    神仏の「慈悲」と共鳴したいなら、自分にも「慈悲のかけら」が無いと共鳴はしない

    だから「誰かを救おうとするものが、救われる」のです

    「己界、仏界、衆生界」がそれぞれentanglement だから共鳴し、癒しが可能なのです
   
    仏教はもう2500年やっているわけですから、「空」に多数の先達がいらっしゃることが想定されるわけです
    お釈迦様以外にも、過去現在未来で3000仏、数限りない菩薩・護法善神・聖僧・神僧など
    この存在達に、「空」の中で応援され手助けされているのです

    そもそもですが
    神仏の加護を得るには、resonance (共鳴)が必要なわけで、様々な作法や修行法など形だけまねても、自分自身に「慈悲のかけら」がないと神仏の「慈悲」と共鳴はしないのです

    ノーベル賞でEPRパラドックスは正式に否定される形になったわけで、つまり、万物はentanglementな状態で「空」に存在してる
    だから、あなたの行い善悪正邪全ては永遠に時空の無い「空」に刻まれていますが、resonance の助けがあれば、永遠のループから救われる可能性がある

因果応報、カルマ、業から自助努力で抜け出すことは、もちろん可能ですが、病気の時、家で一人で寝てるより医者に行った方がいいのと同じで、誰かの助けを得たほうがいいにきまっている
加持とか念仏は、そこが原点なわけですが、自分に「慈悲のかけら」があったほうがうまくいくということになります

 
教では「空」の中で、我々の個性はmix(つまり、混ぜ合わさって一つ)にはならないと考えている
    我々は、どこまでも転生を続けていって、いつか仏菩薩と等しい存在になることになっている
    神仏の助け、護りはあっても、「空」の中でmixされ、合一するとは考えていない

    ただその、転生するのが、無条件に楽しいとは思っていなくて、むしろ、極楽世界から追い出されるくらいに思っている

    天人五衰という言葉があるが、天界の快楽は人間界の快楽よりも大きいのだが、いずれ天人としての因縁が尽きれば、どこかへ転生しなければならない

    転生必ずしも楽しくはないのです

    仏教では
    あの世はあるか?とか
    死後の世界、とか
    臨死体験、とか
    初歩的な諸問題であって、いつまでも転生が続くのを苦痛と感じて、いかに輪廻転生を終わらせるかが重要な問題なのです

    仏教の始まった2500年前は生きていくのが今よりずっと辛かった、というのはあると思う

    臨死体験した人から直接話を聞いたことがあります
    高速でオートバイ事故を起こし、花園に行ったが、後ろに吸い込まれて帰ってきた
    死んだら、あそこに行くのがわかっているので怖くないそうです
    実は、この方、NHKの番組にも出た

臨死体験については、もう7年前に動画を出していますが、これ結局、死んではいないのです
あくまでも「臨死」
ただし、いまだ合理的な説明ができない

盛りに盛った話や、長大な尾ひれのついた話が多い

EPRパラドックスが否定されたんで、少しは話が進むかも
 

   
ーベル賞で「万物はentanglement 」だというところから始めればいいことになりました

「万物はentanglement 」だから、心経の「度一切苦厄」が可能になり「万物はentanglement 」だと認識することが、つまり、「遠離一切転倒夢想」だというわけです

    これが,「万物はentanglement 」ですか、わかりました、これで生も死も苦しみも災いも無くなりました・・・とならないのは
    心経の1番最初に書いてある「観自在」、観ること自在なるというところがなかなか難しいからです

    我々は、ありとあらゆる固定観念、思い込み、誤謬に囚われているからです

    「万物はentanglement」だから苦しみや災いから逃れるのは、たとえば
    今日は雨で濡れるから「嫌だなぁ」となる事が確定してるわけではなく、考え方によっては、空気が湿って新鮮な感じで「嬉しい」にもなるわけです

    原因と結果が、動かし難く決定してるわけではないのです
    つまりentanglement

    「雨は人を不幸にするに決まっている」と決めつければ、entanglement を否定することになります

    なにごとも、考え方次第、感じ方次第であり、善悪、好悪などの評価が機械的に決定されるわけではないのです
    当たり前と言えば当たり前で、「万物はentanglement 」だからです

「観る事自在」であることが大事なのですが、この「自在」ができそうでできない
知らず知らず「こうに決まっている」と決めつけているのです
洗脳状態と言ってもいい

たとえば、目の前のモニターは、ぱっと目をつぶった瞬間にentanglementになる、わけなのですが、そんなこと考えてもいません

 

    これが,「万物はentanglement 」ですか、わかりました、これで生も死も苦しみも災いも無くなりました・・・とならないのは
    心経の1番最初に書いてある「観自在」、観ること自在なるというところがなかなか難しいからです

    我々は、ありとあらゆる固定観念、思い込み、誤謬に囚われているからです

    「万物はentanglement」だから苦しみや災いから逃れるのは、たとえば
    今日は雨で濡れるから「嫌だなぁ」となる事が確定してるわけではなく、考え方によっては、空気が湿って新鮮な感じで「嬉しい」にもなるわけです

    原因と結果が、動かし難く決定してるわけではないのです
    つまりentanglement

    「雨は人を不幸にするに決まっている」と決めつければ、entanglement を否定することになります

    なにごとも、考え方次第、感じ方次第であり、善悪、好悪などの評価が機械的に決定されるわけではないのです
    当たり前と言えば当たり前で、「万物はentanglement 」だからです

    「観る事自在」であることが大事なのですが、この「自在」ができそうでできない
    知らず知らず「こうに決まっている」と決めつけているのです
    洗脳状態と言ってもいい

    たとえば、目の前のモニターは、ぱっと目をつぶった瞬間にentanglementになる、わけなのですが、そんなこと考えてもいません

        「万物はentanglement」であることは、実は生活の隅々に行き渡っています
        例えば、今日の夕御飯は何にするか決まっていない(entanglement)、だから夕御飯は「無い」にはならず
        これから計画して決めれば済む事です

        少子高齢化はもう避けられないに「決まっている」
        ではなくて(entanglement)、どうにかすることは出来る

        貧乏は不幸に「決まっている」
        ではなくて(entanglement )、他では味わえない幸福もある

        人は死んだら終わりに「決まっている」
        本当にそうなのか

        川に橋が架かっていないから渡れないに「決まっている」
        ではなくて(entanglement )
        橋を架けようと思いつき、設計図を書いて、材料と人手を集めて
        橋を架ける工事をする

        冗長な話ですが、「万物はentanglement 」な訳ですから、そこに「意志」が働けば、固定された状態を変える可能性が生じます

 
   

Quantumは観測されなければSuperposition(entanglement な状態)です

    しかし
    **そこに「意志」が働くことで(観測)、この世の現実になる**
    という言い方もできます

    つまり
    「意志」が現実を作っている

    生死も苦厄も「意志」が作り出している
    という言い方もできます

    「万物はentanglement 」ですから
    そこに「意志」が働けば、より望ましい現実をもたらす可能性があります

    「人間の本質的自由」と、「誰でも幸福になれる可能性」の、これが根拠です

 

    Superpositionにおいて「万物はentanglement」な状態ですから、観測しなければquantumにはなりません

    観測(つまり意志)が無ければ、この世界はありません

   

この「意志」が、ひん曲がって、汚れて、自分勝手で、嘘っぱちだったら世界はどうなりますか?

    仏教的なロジックで言えば、自分自身の「空」で癒される必要があります
    quantumの側の発想にこだわるならば、問題の本質的解決には至らないのです

    だから「観自在」で、過去のしがらみや、固定観念、嘘、間違いを、「自在に観て」、束縛から解放される必要があります

 

    森羅万象全てが「空」の中にあり、自分自身の「空」も、その中で時間も空間も破綻も無く調和しています
    その、自分自身の調和した「空」で癒されるのです

    それを、心経では、「一切の転倒した夢想を遠く離れる」と説いています

    大雑把に言えば、事実の解釈(つまり観測)は常に事実そのものではありません
    ですからquantumをいくら調べても、superposition の全てを理解出来るわけではありません

    キリスト教で言うところの「原罪」、仏教で言えば「無明」でしょうか

    

「万物はentanglement」しているわけですから、神々や諸仏もsuperposition すなわち「空」の中にいることになります

    神々や諸仏の「空」と、自分の「空」は、ともにentanglement ですから、別々でも同一でもなく、一でも多でもありません
    同じと言えば違うし、別物だと言うのも違うのです

    Superposition で「万物はentanglement 」しているのですから、同じでも別々でも無く一でも多でもありません
    だから、こちらの世界(quantum)で神仏を祈るよりも、superposition で神仏とresonance (共鳴)するほうが簡単だということになります

       
や仏はどこにいるのか

        聖地や御堂や教会でもいいのですが、「万物はentanglement 」ですから、時間も空間も無いわけで

        神仏は、「今ここにいる」でも正解だと思いますよ

        「いつもありがとう」って呼びかけてみてください
        したことないでしょ
        喜びますよ

           
をつぶれば全ては「万物はentanglement」になっているわけですが、entanglement がなにもかも一気に解決するのではありません

            entanglement がquantumになるには観測が必要で、つまり、「意志」がどのようなquantumになるかを左右すると言えるのです
           
仏教の伝統の話をしますが、拝み始める前に、表白(ひょうびゃく)と言いますが、拝む目的をきちんと神仏に説明しなければなりません
拝んだ後には、回向(えこう)と言いますが、拝んだ功徳をどこに向けるか具体的に指定します

            たとえば
            一切我今皆懺悔(表白)
            我等与衆生皆共成仏道(回向)
            — 瑞樹正哲 (@chohoji) December 21, 2022

            理屈を言えば

            entanglementが「意志」によってquantum になる
            神仏への祈願が「表白と回向」によって現実世界に投影される

            という構造に、きちんとなっているわけです
            これは、キリスト教でもイスラムでも似たようなもんなのだと思いますよ
           
           
現実世界(quantum)だけの、勝ち負け、損得、貸し借りなどだけで物事そう上手くはいきません

            それで人類は、生きる知恵として、神仏への祈りや瞑想をしてきたのでしょう
            つまり、entanglement を観測してquantum を得る

            それを「自分の空に触れる」と表現することもできるのです

口慧海の西蔵旅行記(明治37年)だったと思うのだけれど
    チベット探検中に困難に遭った時、断事観三昧と言って、これは河口慧海独自の命名ですが、山中だろうが河原だろうが坐禅をして活路を見出そうとしている

    これなどentanglement からquantum を得る事例とも言える

    三井英光阿闍梨が高野山奥之院の責任者だった時、50年に一度の大法要の当番に当たったが、聖天法を秘修して霊感を得て、法要準備の抜かったところを指摘していたのです
    これは、ご自身の著作にも書かれているので、ここで書いていいと思います

    これも、entanglement からquantumを得る例

 
て夢を見るのは、entanglement との接触とも思えないこともないのですが、寝てしまうと「観測(意志)」が無い
    瞑想との一番のちがいでしょうね

ちなみに、仏教の「仏」はサンスクリットで「目覚める」という意味なのです

    「寝るのと瞑想」との違いは「観測(意志)」ということですね

瞑想には、何のためという目的と、結局どうしたいのかという目標が必要です

    そうでないと、居眠りとたいして違いません

    entanglement のプロトコルは「慈悲」ですから、目的と目標に「慈悲」が無いとresonanceが生じにくいということになります

entanglement からquantumを得る、ところまでがわかったら、仏教で言う「悟り」が開けるのかと言うと、そんなに簡単ではありません

    要は、その「得る」時にですね「いかなる観測(意志)」であるのか
    つまり、「観測」の目的と目標が何なのか、が重要になるのです

    基本的には、人は善くも悪くもなれるわけです

    その、「善い」というのは、一体何を基準にしているのか

    「万物はentanglement 」ということで考えれば、「他人の痛みを我が痛みとして感じる」あるいは「他人の喜びを我が喜びとして感じる」ことでしょうか

    ま、以心伝心

    「以心伝心」は、結局、自発的に自分の意志ですることであって、誰かに命令されたり、強要されたりしては出来ません

    「万物はentanglement 」という原則によれば、強要による洗脳とかカルトとかには癒しはありません

    本当の癒しは、entanglementによる自発的な「以心伝心」で得られるのです

    「以心伝心」の「心」なのですけれど
    他人の痛みや喜びを「感じ」て、「どうする」のか

    これがね、人生永遠のテーマですよ

    「感じ」て「どうする」、の部分こそが、その人の「不滅の魂」の姿なのかなと考えているんですけどね

    わがこころ、吾、心、すなわち「悟り」の姿なのかなと

 
「万物はentanglement」ですから、この文章をお読みになっているあなたと、これを書いている僕は、時空を超えてentanglement な状態であるわけです

    理屈では、「空」の中で、あなたと僕は一つでは無いのですが、別々でも無いのです

    これがね、文章の意味が通じる原理かもしれないと考えています

    文字に限って考えてみますが、「単なる文字の羅列」の言わんとする所が相手に通じるのは不思議なことです

    自分が伝えたい意味が、entanglement な状態で、相手にresonance (共鳴)するのかもしれません

    これは、全ての種類のコミュニケーションで言えることです

    resonanceは意識を集中していると起こりやすくなります
    これを、仏教では三昧耶(さんまや)と言います

    神仏は、もうすでにentanglement にいると考えられるわけですが、この神仏とのresonanceを試みるのが密教です

    最も手っ取り早く叡智を得る方法です

    すでにsuperpositionに存在している神仏と、行者がコンタクトするわけですが、「万物はentanglement」で同じでも別々でも無いとしても、どのように感化されるのか、仕組みがあるとは思っています
    それで、resonanceと言っているわけです

    resonanceを仏教では、瑜伽、繋ぐ、加持と様々に表現しています

    音叉を考えれば、resonance が起こりやすい環境は思い当たります

    互いに固有の波長が近い状態が必要です

    だから、いきなり神仏とresonanceが生じるのでは無く、自己努力で神仏に心を近づける必要があると思います

    resonanceは、波動を連想させる表現ですが、これは、弘法大師の声字実相義からきています

    五大にみな響あり、 十界に言語を具す、六塵ことごとく文字なり、法身はこれ実相なり

    仏教のテクニカルタームは、便利なのですが、様々な縛りがあるので使い方が難しいのです

 
entanglementを(観測)することでquantumが生じるのであって、quantumが独自にあらかじめ存在しているわけではありません

    この(観測)が自我の核心部分です
    で、この自我の核心はどこにあるのかというと、quantumは(観測)で生じるのですから、entanglementに自我の核心があることになります
概念としては、自我の核心がentantanglementにあるわけですが、entanglement は有無どちらでもないわけで、仏教では自我は無いことになっています

    死んだら自分のquantumは消滅するのですが、entanglement に自我の核心が存在しているので、(観測)は終わらず、来世はある、でいいのではないですか

    死は親しい者との別れを強制しますが、お互い時空の無いentanglement に自我の核心が永遠に存在し続けているわけですから、いずれ再会します

    結局、ものの見方、考え方でしょうか
    いかに(観測)し、感じ、どうするのか

    あなたなら、どうしますか

 

 やはり「観自在」なのですよ
心経の最初の一句が、全ての原点なのでしょう

そもそも心経の「心」は、肝心要の心です
つまり、仏教の肝心要の経典が心経だという立場です
その最初の一句こそが始めであり結論でもあると


 隅寺心経 奈良時代 長保寺蔵







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