2018/01/07

お釈迦様が悟りを開いたときに食べた食事

スジャータストウーパ
お釈迦様が、悟りを開く直前に、何を食べたかという話です
考えようによっては、重要な問題です
これは、ご承知の方も多いと思いますが、6年苦行したお釈迦様がスジャータという娘の献上した乳粥を食べてから尼連禅河のほとりの菩提樹の下に座し禅定に入り、悟りを開いたのです
この乳粥ですが
短粒米です
今現在は、インドを始め東南アジアで広く食べられている米は長粒米ですが、お釈迦様当時の遺跡からは短粒米が発掘されているので、当時は短粒米が食べられていたことが確認できます
現在でもインドにはキールという甘い乳粥のお菓子があります
また、ヨーロッパ諸国にもライスプディング(ミルヒライス)という、短粒米を使う同種のお菓子があります(短粒米の粘り気が食感をよくするということらしいです)
ただ、不思議なことに、仏教国の日本には、乳粥を食べる習慣は、無いですね
これは、日本仏教では、牛乳が精進料理とみなされていなかったせいだと思われます
日本の仏教寺院で修行中に牛乳を飲むところはありません
というか、どこの仏教国でも修行中には牛乳は飲みません
さて、精進料理で、一切の肉魚を食べず、牛乳も飲まないとなると、栄養学的には深刻な問題が起きます
ビタミンB12は、動物性の食物でないと、ほぼ含まれていないのです
(ごく微量、海苔に含まれています)
wikipediaを引用させていただきますが
B12不足になると
「欠乏が進行すると貧血症状を起こすことがあるが、欠乏が軽度の場合は現れない。脾腫および肝腫大が生じる。希に舌炎。
消化管症状は食欲不振、便秘、および限局性に乏しい腹痛。
神経症状は、思考力の低下やうつ病、興奮、情緒不安定(イライラ)などの性格の変化がある。 痺れ、反射の変化、味覚症害、 心機能低下生殖率低下などがある[3]。子供にみられる症状は成長障害、 発達障害運動障害などがある[6]。早期に治療されなかった場合、生涯的な症状障害になりえる[10]
小児の場合、脳発達障害や成長障害」
ということですので、完璧な精進料理を続けていると、B12不足から病気になってしまいます
最近の研究ではB12は5,6年は体に蓄積された分量で足りるらしいですが、これ、お釈迦様が6年苦行して、一切肉魚乳を口にしなくても、6年目に乳粥を食べればB12が間に合う計算になります
まさに絶妙です
なので、仏教修行道場では、「乳粥を真似ろ」とまでは言いませんが、牛乳を飲むのはいいのではないかという理屈になりますね
人間は、哺乳類ですから、赤ん坊は乳しか飲まずに育つわけで、お釈迦様も自然に乳粥を食べていますし、禁止する理由は無いように思いますよ

それで、この写真ですが、最近B12が含まれているカイワレが開発されました
何気に、画期的です
これは、近所のスーパーで見つけました
価格は、普通のカイワレと同じでした
まあ、これを食べれば、牛乳を飲まずに、精進料理は成立しますね
それで、ここからが、皆様の知らない話です
お釈迦様に乳粥を献上したのはスジャータという娘なのですが
今でも、スジャータ村として、住んでいたところが残っています
で、行ってみて初めて分かったのですが
このスジャータ村は、尼連禅河をはさんだ対岸にあります
https://www.google.co.jp/maps/@24.6936312,84.9961394,1898m/data=!3m1!1e3?hl=ja(ここをクリックすると大きな地図でごらんになれます)
実は、これが「橋のない川」でスジャータ村は川の中州のような場所にあって、かなり迂回しなければ車では行けません
ここは、現在でも、低いカーストの人たちが暮らす場所です
お釈迦様が悟りを開いた12月は乾季で、水量の少ない時期でしたので、歩いて渡れたのです
現在のインドにも差別はあるのですが、お釈迦様当時のインド社会も差別がひどかったと想像されます
スジャータは、低カーストの、しかも女の子です
そのスジャータの乳粥供養を受けて、お釈迦様は悟りを開いたのです
仏教は、最初から、身分、性別、年齢などにこだわらなかった、ということになりませんか

2018/01/05

光と影



我々は、感覚器官を通じて外界(空 くう)を認識し、脳内に自分なりの世界(色 しき)を構築しています
物事の本当の姿が「空」だとすると
「空」は完全無欠で、無誤謬で、事実そのものです
ということになると、善と悪、正義と不正、慈悲と暴力、建設と破壊、などなど、全て「空」からみれば「完全無欠で、無誤謬で、事実そのもの」ということになります
となると、努力も積み重ねも善意も、どーでもいい・・・には、ならないんですよこれが
無軌道な生活をすれば、無軌道な世界になり、悪と不正と暴力と破壊を行えば、悪と不正と暴力と破壊の結末を引き受けることになるだけのことです
まあ、仏教では伝統的に「因果応報」と言うわけですが
ただ、「悪を行って、悪い結果になる」という一連のプロセスは、「完全無欠で、無誤謬で、事実そのもの」なのです
これは「色」と「空」という、我々が外界を認識する仕組みから、そう言えるのです
我々が物を見る時、光が当たっていなければ見ることはできません
光が当たると、物は見えますが、必ずそこに影が出来ます
物を見るには、光だけでなく影も必要なのです
光と影を合わせて、物の姿形になる、とも言えます
その物の姿形を美しいと感じたとしても、そこには必ず光と影があるのです



2018/01/04

一切諸法、仏法にあらざる無し


夕座(部分) 2018.1.4



我々は、感覚器官を通じて外界(空 くう)を認識し、脳内に自分なりの世界(色 しき)を構築しているのですが


「自分自身」というフィルターを通した人工物である「色」は、「自分自身」によって「空」を歪めている、とも言えるわけで、自分が正しいとか、物事を理解しているとか言ったところで、そもそも、「空」ではないのです

物事の本当の姿が「空」だとすると
「空」は完全無欠で、無誤謬で、事実そのものです

芸術とか科学や学問は、いかに「空」を獲得するか
いかに「色」を「空」に近づけるかという営みである、とも言えるのです
さて
我々が感じている、苦悩や厄災は、つまり「色」です
ところが、「空」が本当の世界とすると、それらの苦悩や厄災は、「空」から見れば、それはそれで完全無欠だということになってきます
苦悩とか厄災とか感じるのが自分勝手なのであって、本当は「完全無欠で、無誤謬で、事実そのものなのだ」ということになります
ここのところを、憤慨したり絶望したり諦めたりしても、「色」と「空」の関係が変わるわけではありません

では、憤慨も絶望も諦めもしないとすると、いったいどうするのか
いろいろな解決法があるとは思いますが、ここでは、仏教に限った説明をします
仏教には2500年の間、連綿と伝えられた、それなりの方法があります

僕がおすすめするのは、「癒される瞑想」ですね
この瞑想は、何気に、密教の高度な瞑想法が取り入れられています

あっけないほど単純ですよ
先ず 微笑んで
次に あなたの一番に信じる神仏の名前を呼びます(特になければ、ありったけの善意を念じてください)
次 息を吸いながら あなたを救う力が体に入ると 思う
次 息を吐きながら その力を分けてあげると 思う
何回かこの呼吸を繰り返す

これだけです
もちろん密教には、もっと複雑精緻な様々な方法が伝えられていますが、普段簡単にできないですからね

気軽に出来るのでお勧めしますよ

2018/01/03

心を開く

長保寺 国宝本堂(1311) 国宝多宝塔(1354) 2018.1.3

何に対して、心を開くのかというと、自分自身に対して心を開くのです
そもそも、「心」とは何か、とか考え始めるといつまでも始まりませんから、ざっくりした話をします

我々は、感覚器官を通じて外界(空 くう)を認識し、脳内に自分なりの世界(色 しき)を構築しています
我々の普段の生活では、自分の経験や知識や思いや考えに基づいて暮らしているのですが、つまり、この図で言えば「色」です
これは、厳密に考えてみると、物事の本来の姿「空」を自分なりに脳内に形成したもので、本来の姿そのものでは無いわけで、誤謬、勘違い、一面的理解など、あってあたりまえです
ガラクタとまでは言いませんが、そもそも完全無欠ではないのです
それで、注意を「本来の姿」に向けてみるのです
実は、これが、心を閉ざしてしまっていて、できていないのです
自分自身の、勝手な解釈、未熟な思い、無知、などの入り込むことがない、本来の世界が「空」です
諸々の不幸や脱線が、なぜ生じるのかといえば、根本的には、われわれが「色」に基づいて暮らしていて、「空」に心を閉ざしているからです
各人、自分勝手な世界観を構築して(色)生活するなら、まぐれ当たりで幸せになれるかもしれませんが、いずれ上手くいかなくなるのはあたりまえです
では、どうすれば良いのかと言うと
この図で考えてみると、「物を思わない」のがよさそうです
まあ、これは理屈であって、実際は、ほぼ不可能です
無念無想という言葉はありますが、それが簡単なら、だれも不幸にはならないのです
ここのところをなんとかしよう、というのが仏教の全てだと、言っていいと思います



仏道を歩む 多神世界をどう生きるか 動画要約

多神教の世界 : 演者は、すべての人を一つの宗教に改宗させようとするのではなく、多様な宗教や無神論者が共存する多神教の世界でどのように生きるかに焦点を当てるべきです。 仏教とキリスト教 : キリスト教のような「啓示宗教」とは対照的に、仏教は個人的な実践と理解を通じて自身の苦しみを...