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2020/07/11

導師席から本尊を見る



導師の席から、本尊の釈迦牟尼如来を見るとこんな感じになります

本尊の目線と、導師の目線が合います

中央が釈迦牟尼如来坐像、その右が象座普賢菩薩坐像、左は獅子座文殊菩薩坐像、一番右手の立像は毘沙門天、左端は広目天
手前にある白い台は大壇(だいだん)その上に一面器、金剛板、五瓶花、白蓮華台水晶舎利容器、心経額、法華経八巻、法華経訓読本などがあります


大壇の手前が若干空いているのは、そこに経本を置いて法要をするためです



2020/07/04

心経手文(漢訳と比較)



心経は漢訳経典だけだと、短いお経ですので、何を言いたいのかよくわからない部分が多々あります。現代仏教学に、サンスクリット訳、チベット訳での知見があることは承知していますが、特に心経では、短すぎるために、逐語的な解釈ではどうしても文脈がたどりづらくなります。
そのため、ひとつのストーリーとして成立するように配慮して、思い切った意訳をした部分があります。
もとより、果分不可説で、経典の真意はとらえ難いものなのですが、今のところの一つの了解ということです。



長保寺蔵 隅寺心経 奈良時代



心経

仏の教えの要(かなめ)となる経典




観自在菩薩行深般若波羅蜜多時

観ること自在なる菩薩が、深く般若波羅蜜(向こう岸に至る智慧)を行じたまいし時

照見五蘊皆空。度一切苦厄

五蘊(色蘊・物質、受・感受作用、想・表象作用、行・意志作用、識・認識作用)は皆、空なりと照らし見て、一切の苦(苦痛)と厄(災害や事故)を度(解決)したまいき


なにものにも囚われることなく、自在に考えることのできる修行者
深く智恵の修業行う時
感じられている世界はすべて、その本来の姿をとらえることはできないのだと覚知して
すべての苦しみと災いから救われ


舎利子

舎利子(智慧第一のシャリープトラ)よ

色不異空。空不異色

色(物質として感受されるもの)は空に異ならず。空は色に異ならず

色即是空。空即是色

色はすなわちこれ空。空はすなわちこれ色

受想行識亦復如是

(感受作用、表象作用、意志作用、認識作用の)受想行識もまたかくの如し


深き智恵の修行者よ
脳内世界は、外界として感じられている世界を作り出している
外界として感じられている世界は感覚器官が脳内に作り出した世界である

脳内に作り出された世界外界として感じられる前の世界と等しければ
感じられる前の世界と、脳内世界は等し

脳内の世界のすべては、感じられる前の世界とつながっている


舎利子

舎利子(智慧第一のシャリープトラ)よ

是諸法空相

この(物質として感受されるもの)、感受作用、表象作用、意志作用、認識作用の五蘊の)諸法は空を相とし

不生不滅不垢不浄不増不減

生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず


深き智恵の修行者よ
感じられる前の世界は、その本来の姿とらえることはできない
生ぜず滅せず、汚くも美しくもなく、増えもせず減りもしない

是故空中

このゆえに、空の中には

無色。無受想行識

(五蘊である)色無く、受想行識無く

無眼耳鼻舌身意

(五蘊を生じさせる)眼耳鼻舌身意無く

無色声香味触法

(五蘊によって生じる)色声香味触法無し

無眼界。乃至。無意識界

(したがって)眼界も無く、(耳界、鼻界、舌界、身界)ないし意識界も無く

無無明亦無無明尽。乃至。無老死亦無老死尽

(十二因縁の)無明も無く、無明の尽きることも無く、(行も無く、行の尽きることも無く、識も無く、識の尽きることも無く、名色も無く、名識の尽きることも無く、六処も無く、六処の尽きることも無く、触も無く、触の尽きることも無く、受も無く、受の尽きることも無く、愛も無く、愛の尽きることも無く、取も無く、取の尽きることも無く、有も無く、有の尽きることも無く、生も無く、生の尽きることも無く、)ないし、老死も無く、老死の尽きることも無く

無苦集滅道

(四聖諦の)苦集滅道も無く

無智亦無得無所得

智も無く、また、得たものも、得るものもない


それゆえに、感じられる前の世界には
感覚器官は無く、感覚器官によって作られた世界はなく
無明は無く、無明が尽きるということは無く
老いや死は無く、老いと死が尽きるということは無く
、苦の原因、苦を滅する方法の実体は無く
智恵は無く何か得たものは無く、何かを得るということは無い



菩提薩埵

ゆえに菩提薩埵よ

依般若波羅蜜多。故心無罣礙

般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)によるが故に心に罣礙(障げ覆うもの)無し

無罣礙。故無有恐怖

罣礙(障げ覆うもの)無きが故に恐怖あること無し

遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃

遠く一切の顛倒した夢想を離れ、涅槃を究竟す(涅槃に行き着く)


ゆえに、道を行く修行者は、「智恵の修業によって
これらの、心に妨げとなるものが無くなり
妨げとなるものが無くなるので、れも無い
一切の顛倒したから目覚め涅槃に到達する



三世諸仏

(過去、現在、未来の)三世の諸仏(諸々の全ての仏)は

依般若波羅蜜多。故得阿耨多羅三藐三菩提

般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)によるが故に、阿耨多羅三藐三菩提(無上正等正覚、無上にして正しい覚りに正に等しきもの)を得たまいし


過去現在未来の諸仏も智恵の修業」によって無上正等正覚を得


故知。般若波羅蜜多

故に知る、般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)は

是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪

是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり

能除一切苦

よく一切の苦を除き

真実不虚

真実にして虚にあらず


ゆえに、「智恵の修業
おおいなる神のでありおおいなる明らかな咒であり
無上の咒であり、比類なき咒であると知れ
一切の苦を取り除くことができ真実であり虚妄ではない


故説般若波羅蜜多咒

ゆえに般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)の咒を説く

即説咒曰

すなわち咒を説いていわく


ゆえに、智恵の修業をここに説く
すなわちにいわく


羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソウギャーテー、ボージソワカ


Gate gate pāragate pārasagate bodhi svāhā

ける者よ、行ける者よ、目指すべきところへける者よ
目指すべきところへ正しく行ける者よ目覚めに栄あれ








心経玄談
図解 般若心経

長保寺のホームページ

2020/07/03

心経手文(しんぎょうてぶみ)





長保寺に伝わる隅寺心経の、手文です
(仏教行者が手元で参照する、修業方法のメモのことを手文といいます)


仏の教えの要となる経典

なにものにも囚われることなく、自在に考えることのできる修行者
深く智恵の修業行う時
感じられている世界はすべて、その本来の姿をとらえることはできないのだと覚知して
すべての苦しみと災いから救われ

深き智恵の修行者よ
脳内世界は、外界として感じられている世界を作り出している
外界として感じられている世界は感覚器官が脳内に作り出した世界である

脳内に作り出された世界外界として感じられる前の世界と等しければ
感じられる前の世界と、脳内世界は等し

脳内の世界のすべては、感じられる前の世界とつながっている

深き智恵の修行者よ
感じられる前の世界は、その本来の姿とらえることはできない
生ぜず滅せず、汚くも美しくもなく、増えもせず減りもしない

それゆえに、感じられる前の世界には
感覚器官は無く、感覚器官によって作られた世界はなく
無明は無く、無明が尽きるということは無く
老いや死は無く、老いと死が尽きるということは無く
、苦の原因、苦を滅する方法の実体は無く
智恵は無く何か得たものは無く、何かを得るということは無い

ゆえに、道を行く修行者は、「智恵の修業によって
これらの、心に妨げとなるものが無くなり
妨げとなるものが無くなるので、れも無い
一切の顛倒したから目覚め涅槃に到達する

過去現在未来の諸仏も智恵の修業」によって無上正等正覚を得

ゆえに、「智恵の修業
おおいなる神のでありおおいなる明らかな咒であり
無上の咒であり、比類なき咒であると知れ
一切の苦を取り除くことができ真実であり虚妄ではない

ゆえに、智恵の修業をここに説く
すなわちにいわく

Gate gate pāragate pārasagate bodhi svāhā

ける者よ、行ける者よ、目指すべきところへける者よ
目指すべきところへ正しく行ける者よ目覚めに栄あれ




心経玄談
図解 般若心経

長保寺のホームページ



2019/11/17

法話 令和元年御霊屋コンサート





法要とコンサートの合間の法話です



自分の死を、受け入れられる人も

自分の死と、向き合える人も、いないのです

その時は、仏を念じてください


2016/10/18

地蔵菩薩


紀州初代藩主南龍公が祈願を込めていた地蔵菩薩です
江戸時代には紀州藩主のご家族様だけが参拝することができた、長保寺客殿の奥まったところにある内仏堂に安置されています

長保寺には1000年の歴史がありますから、人目に触れないところにも奥深い歴史が秘められているのです


家族を社会の基本と考えていた紀州徳川家では、地蔵菩薩を子育ての仏として篤く信仰していました

過去帳を見ると、明治の初期までは、藩主だろうが庶民だろうが嬰児や幼児の死亡率は一緒です
七歳まで生き残るのは4~5人に一人くらいです

医薬の力に限界のある時代ですから、仏に頼る気持ちは、現代よりもずっと強かったでしょう





2015/10/12

仏があなたを信じている

国宝長保寺多宝塔 金剛界大日如来


普通、宗教というと、「神を信じろ」と、あなたが何かを信じることを求めるわけですけれど、基本、仏教はそういう構造にはなっていません

釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、など「如来」ですね
「来たるが如し」で、来るんです
行くのじゃありません

念仏や密教の加持などが該当するかと思いますけど
自己努力は、一応求められますが、仏は、来てくれるんです

阿弥陀三尊来迎図 江戸時代
長保寺蔵


あなたが仏を信じるのではなくて、仏があなたを信じているのです
今、この時も 

経典の根拠を、いちおう出しときますが
 毎自作是念 如何令衆生 得入無上道 速成就仏身
つねに自らこの念をなす 何をもってか衆生をして 無上道に入らしめ 速やかに仏身を成就するかと(法華経如来寿量品)
これは、破地獄偈とも言って、地獄の苦悩すら打ち破る力のある経文とされています
仏が、誰に頼まれたわけでもなく「つねに自らこの念をなす」で、自らいつも念じているのです

つまり、「如来」ですから、来るんです








癒される瞑想

    



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2015/10/11

多神世界 仏教の世界観

正月に神社に初詣に行き、盆には寺に墓参り、クリスマスにはツリーを飾る
日本社会では、ごく普通のことですけれど、これは、無宗教などではなく、仏教的な世界観が土台にあるからできることです
まあ、無宗教なら寺社参りなどしませんから

いまさら、世界中に仏教徒になれとは申しませんが、少なくとも、現在の世界は多神世界である、ということは認めていただきたいですね



仏菩薩を尊敬し
八百万の神を尊敬し
イエスキリストを尊敬し
アラーの神を尊敬し
自分を信じる
 自分を信じられない人は、他になにかを信じることはできません自分を信じられない人は、誰かを信じているようで、それは盲目的に依存する「おすがり」です

自分を信じる、その根底に、「一切衆生に悉く仏性あり(涅槃経)」という釈尊の教えがあります
自分自身の中に、真実を見極める力があるのです


I respect Buddha 
I respect Christ 
I respect Allah 
I respect many Gods
 And  I believe in my good heart



多神教という言葉は聞いたことがあるとおもいます

ですが、ここで言いたいのは、多神世界です

こういう概念があるということを知っていただいて、是非、世界平和の為にも流行らせていただきたい

一神教のキリスト教やイスラムが、いろいろ主張しても、世界の実態は多神世界だということなんです
そして、この多神世界であることを前提にした宗教もある、ということなんです
たとえば、神道、仏教、ヒンドゥーなど

一神教は、数ある神の中から自分が帰依する対象を選んでいる、というのが実際のところです

それが、今ある世界なんだということを、是非知っておいてください

ここからは、過去のブログの投稿です


増神世界

2006/01/25
先日バチカンで、新法王のもとで初めて、宗教対話の会議が開かれたらしい
バチカンには諸宗教対話評議会というのがあるのです
イスラムからは誰も招かれなかったが、仏教からということで山折哲夫さんが招かれたらしい

昨日の読売新聞に山折哲夫さんがいろいろ書いていたが、「事実上、世界は多神世界になっている」と指摘していた

こんなことは、わかりきったことだと思うけど
バチカンはなかなか、この事実を認めようとしないのですね

新法王がイスラムを呼ばなかったのは、なぜなのか聞きたいところだが、前向きな印象は持てないね

僕は単純だから、どうやって一神教が今の世界を説明するのか、さっぱりわからないですね


それで、仏教は、基本的に、アニミズム肯定で、なんにでも神が宿る世界を想定しています

まあ、それを最後には、自我という幻想にしがみついているだけだと、棄てさってしまうのですけど

それでも、自我にしがみついている間は、霊魂もあれば、神もいれば、菩薩もいるし、我々普通の人間もいて、なかなか多彩です
自我から完全に解放されたら如来になることになってます、仏ですね

神をどう定義するかは、諸説ありますが、仏教的には、偉い霊魂は皆、神です
菩薩は、すでに学ぶことはないが、この世に止まっている存在ってことになってますから、神様と菩薩は、どうも同じようなもんだと思います

まあ、言葉の問題ですので、深入りしても、ほんとの所には行きません
似たようなもんだということにしておきます

それで、自我から解放されれば神仏ですから、仏教的には、神仏は増えつづけます

多神世界どころか、増神世界です

そこらへんの所から、世界平和を考えないと、とんでもない勘違いをすると思います

そう言えば、世界宗教サミットというのの第1回をバチカンでやって、2回目は比叡山でやりました

ご存じないかもしれませんが、比叡山の仏教は、バチカンから熱い視線を注がれています
前のヨハネパウロ法王はスピーチの中で「忘己利他」の精神が共通の価値だと説きました

それで、比叡山のサミットの最後に、世界の宗教にとって最高の価値はなにか、ということで議論になりました

「幸福」なのか「平和」なのか、どっちだ、ということになりました

あなたも、考えてみてください


結局「平和」ということになりました
隣人と仲良くすることを、自分の喜びの追求より優先させました

まあ、自分勝手な奴が世界にはたくさんいて、好き放題されても困る
仲良くするのが、最低限のマナーだ、ということでしょう

そこまでは、丸く収まりました

それから、じゃあ、世界平和のため、皆で祈ろうってことになりました

そしたら、イスラムの代表が、他宗教の人と一緒に祈ることはできない、って言いだしました

唖然です

で、各宗教、それぞれのやり方で別々に祈ることになりました

その時点で、多神世界を認めたことになるような気がしますけどね
違うのかな

多神世界

2009/06/18


山王垂迹神曼荼羅 絹本着色 江戸後期 長保寺蔵

「日吉山王の諸神の姿を画面に構成したもので、諸神の数や配列に多少の異同がある。本図の場合、神殿の内陣に上七社の七神、外陣に猿面の大行事と早尾の二神と狛犬一対を配し、下方の階段付近に神猿を描いている。」



仏教が日本に伝来してから、基本的には神仏習合で、日本古来の神様と、仏教の仏菩薩天は同時に信仰されていました
それが密教では真言系が両部神道、天台系が山王神道と独自に理論化して、本地垂迹(ほんじすいじゃく)と言うのですが、日本の神々の本体は仏様ということにしました

天照大神=大日如来とか、あてはめていくわけです

よく権現様と言いますが、仏様が仮の姿で(権)あらわれた(現)という意味です

ローマのパンテオンは円形に神々を並べて中心に人間がくるのですが、垂迹説では、本体が仏ということで、仏教的世界観の敷衍になるのです
しかし、統一見解といったものはなくて、宗派や時代によって、少しずつ違います

多種多様な神様達がいるのを、どうまとめるかという、いわば政治的動機が根底にあって、共和制的神殿になったり、中央集権的曼荼羅になったりするということですね
一口に多神教と言ってもいろいろあるということです

これが、ローマカトリックやイスラムでは、もう個性的な神々はいません
否定されてしまいます



それで、今の世界を考える時
キリスト教やイスラムなどの一神教や、仏教や神道、ヒンドゥーなどのような多神教が同時に存在してるわけです
多神世界であるのが現実です

これを、一神教の人たちは認めないのですよ
ま、妄想にしがみついているのですね

ただ、多神世界では、神様達が仲がいいか悪いかという問題が生じるのです
スサノオの神話や、まあ、いろいろあります

神々の世界にも秩序が求められるのですね

それで、僕ら自身が、現代の多神世界が、共和制神殿なのか中央集権曼荼羅なのか、イメージを創り出す必要に迫られているのです

僕は、パンテオンですよ
ただし、パンテオンの中心は、仏心です

よいことをすれば、いい神様
わるいことをすれば、悪い神様
生まれによって善悪はない、行いによって善悪がある

ま、仏教の基本です




余談ですが

神様には眷属(けんぞく)がいるんですね
神使ともいいますが、使い走りです

鹿  春日大社・鹿島神宮・厳島神社
兎  住吉大社
猿  日吉大社・春日大社
烏  熊野三山・諏訪大社・日吉大社
鳩  八幡宮
鶏  伊勢神宮
蜂  二荒山神社・日吉神社
鰻  三嶋大社
鼠  大黒天
蛇  弁才天・大神神社
海蛇 出雲大社
狐  稲荷神
牛  天満宮
亀  松尾大社 
狼  武蔵御嶽神社・三峰神社

神使wiki 


これねぇ

熱心に、こういう神様拝んでると、その人の周りは、うじゃうじゃとね
なってきます

人間界の邪魔しないように、なだめるため、おまつりしてる神様もありますが、しばしば羽目を外すんじゃないですか

桃太郎の家来のようなもんで、主人の言うことは聞きますが、甘やかされていると、悪さ、いたずら、からかい、冗談など連発します
神様にも都合がありますからね

最近の外国産は、トンデモなのがほとんどです
つまり、外国で相手にされないのが来てたりします

仏教の修行の邪魔をした話も、もう、お釈迦様の時代からあります

坐禅してたら、蛇にぐるぐる巻きにされたとか
仏に化けたとか

これはこれで、難しいということですね





癒される瞑想

    



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仏道を歩む 多神世界をどう生きるか 動画要約

多神教の世界 : 演者は、すべての人を一つの宗教に改宗させようとするのではなく、多様な宗教や無神論者が共存する多神教の世界でどのように生きるかに焦点を当てるべきです。 仏教とキリスト教 : キリスト教のような「啓示宗教」とは対照的に、仏教は個人的な実践と理解を通じて自身の苦しみを...