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6月, 2012の投稿を表示しています

梅ジュース

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毎年、梅ジュースを作ります 梅の木は何本かありますが、今年は不作でした それで、ジュースも例年の半分くらい さっぱりとした甘さで、おいしいです

「御霊殿の調度」のリンクを追加

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長保寺ホームページの「長保寺と紀州徳川家」のページに「御霊殿の調度」のリンクを追加しました http://www.chohoji.or.jp/tokugawa/toku.htm 御霊殿の調度 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14

御霊殿(おたまや)の調度 14

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紀伊徳川藩主位牌宮殿の前の仏間にある密壇の灯篭です 黒塗りの密壇は江戸時代のものですが、ごく一般的な形です その密壇の両脇に一対の灯篭があります 塗金三葵紋六角灯篭 一対 江戸初期   紀伊徳川藩主位牌宮殿前仏間 正面 灯篭の軒下に細かい細工の意匠が施されています 気がつきにくい場所です 長保寺バイパスの灯篭は、この御霊殿の灯篭をモデルにして作られました 平成8年竣工 工事の時に作られた雛形 最初は当時の下津町にありましたが、竣工後に長保寺に奉納されました

御霊殿(おたまや)の調度 13

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徳川頼倫(よりみち)の葬儀の際(大正14年 1925)に奉献されたと考えられる、布製造花です 残念ながら、本体には何も書いてありません 記録もなく、いつの時代に奉献されたか推量するしかありませんが、すでにガラスがあって、紀州徳川家が勢力を保っていた時代というと、まだ農地改革も無く財政も豊かであった、徳川 侯爵家 の時代のものと考えられます 立派な漆塗りのガラスケースに収められ、今でもよく色が残っています 極めて丁重に扱われていることから、皇室から贈られたものかもしれません 紀州徳川侯爵家霊前奉献布花 一対 右側  大正末期~昭和初期 紀州徳川侯爵家霊前奉献布花 一対 左側  大正末期 ~昭和初期 江戸時代は、紀州(約30万石)と伊勢(約20万石)をあわせた領地の藩主が 紀伊徳川家 でした 明治になり、廃藩置県で和歌山県と三重県になりましたので、それより後は 紀州徳川家 となります

御霊殿(おたまや)の調度 12

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この華瓶は藩主宮殿の前ではなく、隣の部屋の奥方様の宮殿の前にあるものです 奥方様の宮殿の前に置かれることを意識して、文様が女性的です 藩主宮殿の前にあるものを模して、別の時期に作られたものと考えられます 像耳 塗金散流水文様 青銅華瓶 江戸時代  紀伊徳川藩主御霊殿奥方様位牌宮殿前 狭間(さま)に流水と紅葉でしょうか、線描されています

御霊殿(おたまや)の調度 11

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紀伊徳川藩主御霊殿の藩主宮殿前にある、華瓶(けびょう)です 青銅の地金の上に塗金を散らしています 似たものに金箔押がありますが、金の付着が塗金のほうが強固で、摺れてもとれず、近くで見ればわかります 塗金は水銀を蒸発させる工程があり、日本では危険ということで、もう作る人はありません 像耳 塗金散 鬼面地紋青銅華瓶 江戸初期  紀伊徳川藩主御霊殿位牌宮殿前 地紋が顔になっているため、鬼面と呼ばれます 塗金が摺れていますが、これが340年位時代を経た塗金の様子です

御霊殿(おたまや)の調度 10

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長保寺の御霊殿の紀伊徳川藩主位牌宮殿前に奉納されている吊灯篭です 紀伊徳川 初代藩主頼宣(よりのぶ)の次男、 西条藩主の 頼純(よりずみ、頼宣の長男は二代藩主光貞)が寄進しました 四国の西条藩主の頼純は、 元禄8年に、領内の立川銅山 で産出された銅で吊灯篭を作り、父である初代藩主頼宣の霊前に奉納しました 立川銅山の銅を徳川家が独占するために、頼純が西条藩主になったと考えられます 元禄3年には、同じ鉱脈の別子銅山が発見されましたが、これは天領となり、やはり、徳川家の銅独占体制が維持されました 純銅吊灯篭一対 元禄8年(1695) 紀伊徳川藩主御霊殿位牌宮殿前 320年間の灯明の煤で、古色蒼然となっています 現在は、電球を入れています 左側の吊灯篭の銘盤 元禄乙亥(元禄8年、1695) 右側吊灯篭の銘板

御霊殿(おたまや)の調度 9

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以前もご紹介したことのある、金華鬘です 金華鬘の由来 御霊屋の 金華鬘   御霊殿では、北、東、南の三方にそれぞれ3枚づつ、全部で9枚懸けられています 本堂にも、中心の家紋の部分が輪宝で、瓔珞の意匠の違うものが、東に3枚、南に4枚、西に3枚、全部で10枚懸けられています 透 法相華三葵紋切金梵字五色宝玉水晶瓔珞金 華鬘 江戸初期  紀伊徳川御霊殿藩主前仏間 表側 右の梵字は「バク」、釈迦如来の種字(しゅじ)です 左の梵字は「バイ」、薬師如来の種字です 裏側 三葵紋はきちんと彫金されています 右の梵字は「キリク」、阿弥陀如来の種字 左の梵字は「ア」、ここでは多宝如来の種字です おそらく、この四仏で東西南北を表していると思われます バク、釈迦如来(北) バイ、薬師如来(東) キリク、阿弥陀如来(西) ア、多宝如来(南) 仏殿の周囲に懸ける金 華鬘ですから、方位を意識したのかもしれません 五色宝玉水晶瓔珞は西暦2000年に長保寺1000年(長保寺は西暦1000年創建)の記念に新調しました もともとあった瓔珞は、さすがに350年の時間に耐えられず、失われてしまっていました それで、和歌浦の雲蓋院(同じ天台宗。紀伊徳川家の法事の奉行所。また、和歌浦東照宮の別当寺だった。)にある、赤瑪瑙の瓔珞を参考にして新調しました 吊金具も手の込んだ細工です 北側の金 華鬘の様子    

御霊殿(おたまや)の調度 8

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長保寺の紀伊藩主御霊殿の障子です 腰板の部分に襖紙が張ってあります この御霊殿だけに使用されている意匠です 現在の腰張は、平成四年の修理の時に江戸初期と同柄のものを再現しました 地味な柄ですが、薄暗いお堂でみると、柄の部分が浮き立って見えます 堂内で使用することを計算した意匠です 双葉葵型押本鳥子 障子 腰張  平成四年修復 双葉葵型押本鳥子 障子 腰張 拡大  

御霊殿(おたまや)の調度 7

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長保寺御霊殿の紀伊徳川藩主位牌宮殿の前にある三具足のうちの香炉です 三方に六牙の像面があります 紀伊徳川御霊殿藩主宮殿前三具足のうち、三方六牙像面卍透真鍮香炉 江戸初期 長保寺御霊殿

カイコウズ

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別名 アメリカデイゴ マメ科の落葉低木 鹿児島県の県花 強健で、切った枝を放っておいても根がつく

御霊殿(おたまや)の調度 6

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欄間障子の格子です 「地獄組」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか 格子の桟が、全面にわたって、上下上下、下上下上と交互に編んであります さらに、編みこんだ後で微かに面取りしています 交差するところは面取りがありません 一見なんの変哲もない障子ですが、これ以上無い技巧を凝らしています もう345年たつ障子ですが、全く狂いがありません 紀伊徳川藩主御霊殿地獄組欄間障子 クリックして拡大してご覧になると、よくわかります 紀伊徳川藩主御霊殿地獄組欄間障子

御霊殿(おたまや)の調度 5

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長保寺の御霊殿の紀伊徳川藩主霊前仏間人天蓋に懸かっている幡です 御霊殿創建の時(1667)のものと考えられますから、もう345年前のものになります 若干の痛みがみられますが、紫外線が当たらない堂内のため、大変良好な保存状態です 紀伊徳川藩主霊前仏間人天蓋  織出 三葵紋 金襴 和 幡   彫金装飾懸金具 紀伊徳川藩主霊前仏間人天蓋 織出 三葵紋 金襴 和 幡 紀伊徳川藩主霊前仏間人天蓋  織出 三葵紋 金襴 和 幡    裏面 裏面も同じ金襴織の、手の込んだ仕上げです 紀伊徳川藩主霊前仏間人天蓋

石榴の花

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御霊殿(おたまや)の調度 4

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薄暗いお堂の導師の席の上に天蓋があります もともとは、インドで仏様の日傘でしたが、仏に日傘をさすと絶大な功徳があることから仏堂の中でも用いられるようになりました 紀伊徳川藩主霊前仏間人天蓋 江戸初期 長保寺御霊殿 暗くて、装飾はよく見えません しかし、中にライトを当ててみると 真っ暗な天蓋の内側に・・・ 紀伊徳川藩主霊前仏間人天蓋彫金 鳳笙を奏でる天女 藩主側(西)内部 紀伊徳川藩主霊前仏間人天蓋彫金 天華を散らす天女 北側内部 紀伊徳川藩主霊前仏間人天蓋彫金 竜笛を奏でる天女 東側内部 紀伊徳川藩主霊前仏間人天蓋彫金 鞨鼓を打つ天女 南側内部

御霊殿(おたまや)の調度 3

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御霊殿の藩主位牌宮殿前に置かれている香炉です 香炉の三方に葵葉が描かれています 紀伊徳川歴代藩主やご家族様が参拝の折に使われました 今もそのまま霊前で使われています 葵葉文様蓮台鋳鉄香炉 江戸初期 長保寺御霊殿 蓮台があることから、仏殿で使用するためのもので、座敷の床の間などで使用するもので無いことがわかる

南天の花

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南天の花

アジサイ 5

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6月13日のアジサイ