投稿

2009の投稿を表示しています

やっと色づいてきました

イメージ
やはり、温暖化の影響を感じますね 年々色づくのが遅くなってきています 12月7日からデンマークで COP15 が開かれますが、アメリカも中国も具体策を用意しているようですし、大きな進展があるかもしれませんね 世界的な低炭素社会への分水嶺になるかもしれません 本音は次のバブルのネタが欲しい、といったところ 実体は、石油枯渇への準備 そして、環境問題できれいに飾る エネルギーが石油から電気へシフトしていくには、多くの産業分野での進化が必要で、すそ野が広く、つまり、飯の種も多いので、喜んで受け入れられるでしょう 日本は、リチウム電池や燃料電池で先行していますから、なんとかこれからも食いつないでいけるでしょう たとえば モバイル燃料電池 理屈がよくわからないくらい高度な製品は、厳格で精密な工程が必要で、一人でも手抜きをするようでは、製造ラインが設置できません 研究開発が自前でできなければ、ラインに問題があっても解決できません 新興国の発展は著しいのですが、ポンと渡して、ちゃんと作ってくる国は、限られています ちょっと世界を見渡してみても、信頼できる国は少ないのです 日本人の、律儀さ、まじめさ、正直さ、そして知的好奇心と責任感、そういった長所は、これからの世界に、ますます必要になっていくと思いますね

未来の種

イメージ
金融危機で失った資産を取り戻す方法 本の題はセンセーショーナルですが、中身は、これからの近未来を洞察する内容です 二酸化炭素排出権ビジネスは、今後拡大することがあっても、縮小することはありません 世界の流れがどこに向かっているのか、腑に落ちると思います 次のバブルのネタは、低炭素で決まりでしょう エコカー世界大戦争の勝者は誰だ? ハイブリットカーでは日本に勝てないのが明白であるので、世界は一気に電気自動車に向かいます 当面のキーテクノロジーは、リチウム電池です 資源として、リチウムが絶対に必要なのですが、実は、リチウムは海水に含まれていて、日本では、実際取り出すことに成功しています これから益々、世界的な開発競争が激化するでしょう つまり、石油はなくなるのです 新日本石油が薄膜シリコン太陽電池を事業化したり、東燃ゼネラル(エクソンモービル)が東レと合弁でリチウム電池事業に乗り出したり、石油会社は次世代に布石を打ちつつあります 東燃ゼネラルのようなメジャーがリチウム事業に参入するのは、石油が本当になくなるということと、エネルギーの今後の動向を示唆しています バイオマス、メタンハイドレートなどの代替エネルギーや、省エネ技術が話題になることも多くなると思います しかし、石油化学文明の次の世界を支える エネルギーの主流は「電気」 ということになりそうです 太陽電池、風力発電、波力発電、地熱発電、そして、原子力発電は、拡大の一途でしょう 製造業は、人件費が絶対的に安い新興国には勝てません  かといって、金融立国の経済モデルは破綻しました 日本にとって良い一面を考えれば、エネルギー自給のできないハンデがなくなることでしょうか 丁寧な作り込み、血の通ったサービス、細かな気配り、など、日本的なアプローチが益々重要になってきます 電気エネルギーを中心とした高度に人間的な社会、ということですかねぇ そこに、日本の活路を見いだすしかない、ということですね

インド仏教聖地巡拝 写真

イメージ
クシナガラ近郊の夜明け インドはやはり大陸です どこに行っても自然が雄大です 人々の表情も、自然でストレートです

慈眼院 多宝塔(国宝)

イメージ
国宝の多宝塔は全国で6棟あります 石山寺(1194) 高野山金剛三昧院(1223) 浄土寺(1328) 長保寺(1357) 根来寺(1547) そして、泉佐野の慈眼院(1271)です 国宝でない、最近建てられた多宝塔全て合わせて300棟位だそうです 慈眼院は泉佐野ジャンクションのすぐ近くです 大きな地図で見る ふと思いついて今日参拝にいったのですが、来週から屋根替えの工事で、1年間は見れなくなるそうです 小ぶりで、姿のいい塔ですね

今津駐屯地 戦車体験搭乗

イメージ
今津駐屯地 戦車体験搭乗 11月6、7日の日程で、陸上自衛隊今津駐屯地で、戦車の体験搭乗をしてきました 和歌山県防衛協会の研修です 乗り心地は・・・悪いですね・・・ エンジン音で、会話は全く聞こえません 振動も、強烈です カーブを曲がる時は、めちゃくちゃ揺れます 一日乗っていたら、体中がガタガタになりますね 戦争するのは大変ですよ

インド仏教聖地巡拝 写真

イメージ
ルンビニー(お釈迦様生誕地)は、10年ほど前に、全日本仏教会によって、修復整備されました 現在では、きれいになっていると思います この写真は、発掘中の様子です   ルンビニー周辺の整備計画は丹下健三によって立案された、大規模なものです たぶん、今でも少ーしづつ、ゆーっくりと、計画は進んでいると思います     実は、お釈迦様の生誕地には、2説あって ルンビニーは、現在ネパールですが、インドのピプラウアーという所ではないかという説もあります ネパールとインドの意地の張り合いがあって、決着がついていません   ただ、今回の修復で、かなりの範囲で発掘が進み、やはりルンビニーだろう、というのが有力になりました 今でもインド各地で仏跡の発掘が進行中で、まだまだ大きな発見もあるようです 日本では知られていないようなことも沢山あります   日本人が考えている仏教は、ほんとに、日本流に変化した、いわば特殊な仏教です 仏跡をめぐると、お釈迦様の存在感に圧倒されますよ

インド仏教聖地巡拝 写真

イメージ
インドでは、どこに行っても子どもを見かけます 学校に行っている子も多いし、行っていない子も多い 学校に行っていない子は、働いています 小さい子が、赤ちゃんの子守をする光景も珍しくありません 大人は、日本人から見たら怖い顔で、全く笑顔がありませんが、子どもはいつでも元気いっぱいで、よく笑います 本当に、インドでは大人の笑顔は、ホテルの従業員ですらありません 愛想笑いという文化は、インドにはありませんね 仏跡で、 大人の笑顔に出会えるのは、ネパールに入った時くらいです インド人に比べれば、日本人は、ほとんどいつも笑顔です これは、仏教のおかげかな、と思いますね インドでは13世紀頃、イスラムが侵入し、仏教は徹底的に破壊しつくされました 破壊と虐殺から逃れた仏教徒が東アジアで仏教を伝えて今日に至るのです ブッダガヤの大塔(お釈迦様が悟りを開いた地)は、仏教徒が逃げる時に、埋めたのです 埋められていたのを、イギリス人のカニンガムが発掘したのが、今の大塔です てっぺんの1m位だけが地表に出ていたので、下を堀ったら、ごらんのとおりの塔が出てきたのです ですから、お参りする時は、掘ってあるすり鉢状の土地の階段を下りていくのです 現在のインドでは、お釈迦様は、ヒンドゥー教でヴィシュヌの9番目の化身ということになっていますから、大塔も、それなりに、盛んにお参りしてもらっています 文化や歴史の破壊は、意図的に、大規模に行われることがある、ということです こうして、建造物は発掘されましたが、笑顔はまだ戻っていませんね まあ、イスラムの行為そのものを先ず求める姿勢と、ヒンドゥー教の現実的功利主義優先の姿勢からは、一銭にもならない笑顔など生まれないということですかね

インド仏教聖地巡拝 写真

イメージ
ラージギル温泉と土産物屋 霊鷲山(りょうじゅせん)の近くに温泉があります 地元の人たちが沢山来ています カースト制の残る国だからでしょうか、山の斜面を利用して、上から段々と4段構え位になっていて、お湯が流れ落ちてきます 一番上はきれいですが、一番下は、お湯がまっ黒けです でも、ごらんのとおり、平気で遊んだり、洗濯したりしています 裏手の山に、経典の第一結集をした七葉窟があります 仏滅後、高弟が集まり 「われ、かくのごとく聞けり(如是我聞)」 と、記憶するお釈迦様の言葉を皆で統一しました 後に多門随一と言われるアーナンダは、お釈迦様の従者をずっとしていましたが、悟りを開いていないということで、結集に呼ばれませんでした 「ああ、もうだめだ。せっかく沢山の言葉を聞いたのに結集に参加できない」 と、がっくりうなだれた時、忽然と悟りを開き、結集に呼ばれたのです 知識がいくらあっても、本質を把握していなければ相手にされない厳しさがありました   ちなみに 温泉と霊感には相関関係があるように思います 地下のマグマと霊感と、なにか関係があるんじゃないですか

インド仏教聖地巡拝 写真

イメージ
サトウキビを運ぶ牛車 仏教遺跡があるのは、おもにインド北東部のウッタルプラデーシュ州ですが、インドでも工業化の遅れた農村地帯です 牛車で作物を運ぶ光景は、普通によく見かけます 道路は、日本のODAで舗装されている区間が多いそうです インドの人達はよくそのことを知っていて、極めて親日的です

インド仏教聖地巡拝 写真

イメージ
もう10年以上前になりますが、インド仏教聖地巡拝の時の写真をご覧いただきます これは、ガヤの近くだったかな 日差しが強く色彩が強烈ですね

インド仏教聖地巡拝 募集

イメージ
来年2月9日から20日までの予定で、インド仏教聖地巡拝に行きます 費用は35万円位、6大聖地とサールナート博物館、デリーのインド博物館を回りますので主要な仏跡はすべて網羅しています サールナート(初転法輪、初めて教えを説いたところ) ブッダガヤ(悟りを開いたところ) ラジギール(霊鷲山、般若心経や法華経を説いたところ) クシナガラ(涅槃の地。2月15日は涅槃の日。当日参拝します) ルンビニ(生誕の地) スラバスティー(祇園精舎などがあります) ナーランダー(大学跡、玄奘三蔵も留学した、仏教最大の大学) サールナート博物館(初転法輪の釈迦像があります) インド博物館(仏舎利があります) などを初めとし、 ベナレス(ガンジス河の沐浴風景) 前正覚山(お釈迦様が悟りを開く前6年間苦行した影現窟がある) 七葉窟(経典の第一結集をした洞窟) バイシャリ(第二結集をして、上座部と大衆部が分かれた) タイ仏教寺院(帰り道にバンコクに寄り、エメラルド寺院、暁の寺など参拝します) 現在計画中なので、同行していただくことができます 現地では、熟練したガイドが付きます 10名以上になった場合は、日本から添乗員が同行します 詳しくはお問い合わせください 073 492 1030 僕はもうこれで5回目ですが、前回が平成9年ですから、どのように変わったか楽しみですね 仏跡は、インドの田舎にありますので、のどかな、そしてエキゾチックな旅になります

お問い合わせについて

イメージ
メールや、じかに電話などでお問い合わせやご相談いただく方が増えています いつも、最優先でお答えさせていただいております 基本的には、問題を解決するのは、ご自分です ただ、僕の考え方が参考になるのならば、お役立ていただけば、それでいいのです 念のため、申し上げときますが、僕には霊感はありません ただ、霊感のある人たちと長く付き合ってきたので、いろいろ経験はしているということです オーラが見える、直感的にわかる、霊気を感じる、など、僕的には霊感のうちにはいれていません 誰にでも普通に、これくらいのことはあるのです 気がついていないだけです   般若心経の祈祷法 についてのお問い合わせが多いです 実際にやるのに、細かいことを書いていませんから これは、やりかたの細かいことは、ご自分の心に浮かぶからです その力を大事にしなければなりません    外国製ブラックについてお問い合わせがありました 一般的なことを、ここに書きますが 書籍や新聞、マスコミなどで、話題になっている、評価されている、おいしい話が羅列されている、など、それでその宗教なり主張が正しくなるわけではありません 日本国内でも、でたらめなカルトがまだまだ、まかり通っているのですから、事情のわからない外国製宗教の中身など、脳内お花畑で勝手に美化し期待しても、それは認識不足なだけで実態は正反対なことが多いのです 日本製カルトは、お金でなんでも決着するお国柄を反映して、最後は金を巻き上げるというところに落着する傾向がありますから、比較的平和です 外国製は、支配する、破滅させる、あやつる、などだけを純粋に追及してるのもあります 早い話、共食いですね、これをさせて、嘲笑うのが目的なんでしょうね 人間同士が殺し合いをしてきた、長い歴史の産物ですよ   霊的な攻撃や祟りに対処する基本は、「無視」です 驚いてなにかするのを、悪意のある存在は待っています ものを動かす力は、霊には無いのです 自分で動かせるなら、自分でなんでもするでしょう ですから、無視してなにもしなければ、なにも起こらないのです ただ、憑依して、生気を奪う、恐怖を与え続ける、判断を狂わせる、ということはあります これは、その人の前世に原因のあることが多いです これは、自分の心構えが変わらないと解決しません 一般的には、他人を責めない、赦す、慈悲を心がけるなどが、問題

選挙結果

選挙結果について、一言 実は、選挙の得票率、つまり、実際にフダをいれた数を比較してみると、今回の選挙結果のような大きな差はないのです 2009年衆院選小選挙区得票率 民主党47.4% 221議席 自民党38.7%  64議席 これは、自民党が圧勝した2005年の選挙でも言えることで 2005年衆院選小選挙区得票率 自民党47.8% 219議席 民主党36.4%  52議席 とまあ、本来の得票数を配分すれば、おおよそ、140議席対110議席くらいの勢力差なのです 小選挙区制の怖さなのか、長所なのか、ここのところは、もっと真剣に考えなければなりませんね このような、極端な議席数の差が出るような制度が、本当に民意を反映するのか、僕的には、まったく疑問ですね さて、今回の選挙結果の影響ですが 僕とこは、まったく、大変なことになります 全ての文化財行政がストップします とえりあえずは、国宝修理計画が白紙になります 国の予算が決まりませんから、県も市も予算をつけようがありません すったもんだで、決まってくるとして、それまでにかなり、破損が進みますね 金銭的な負担でいえば、自己負担分だけで、補助率の算定やらなんやらで、数千万円の支出増になる可能性があります まあ、自分から投げ出すわけにいきませんから、控えめに言っておきますけど 国民の総意として、そんなこと、どうでもいいのでしょうか? 2009年衆院選 <衆院選>民主小選挙区、5割の得票率で7割の議席 8月31日13時30分配信 毎日新聞  衆院選で空前の308議席を獲得した民主党の得票数は小選挙区、比例代表ともこれまでの最多記録を塗り替えた。小選挙区では5割の得票率で7割の議席を獲得したことになり、得票率の差以上に議席数に開きが出る小選挙区制の特徴が顕著に表れた。  民主党は小選挙区で、現在の小選挙区比例代表並立制が導入された96年以降最多の221議席を獲得した。一方、自民党はこれまでで最少だった03年の168議席にも遠く及ばない64議席と惨敗した。  定数300に占める獲得議席数の割合(議席占有率)は民主党73.7%、自民党21.3%で、その差が3.5倍だったのに対し、得票率は民主党47.4%、自民党38.7%で差は1.2倍しかなかった。得票が1票でも多い候補が当選し、有効投票数の半分以上が「死に票」となることもある小選挙区制

サンテレビ

9月5日朝7:30-8:00 サンテレビ ミュージックカフェ夢中人 長保有紀さんが出演します 長保寺のことをご紹介いただけるそうです

灯明会

灯明会、無事終了いたしました

長保寺 灯明会

イメージ
長保寺 灯明会 8月15日(土) 午後7時より 長保寺参道に灯明をお供えし、ご先祖の冥福を祈ります 本年は、提灯を8月13、14、15日 の三日間、ご供養のため点灯いたします 売店の夜の営業は15日だけです 霊名提灯 1000円

イメージ

エゴ

イメージ
網様体賦活系の話の続きですが 脳幹 脳幹部分に網様体賦活系があって、意識に「何を入力し、何を入力しないか」を決めていると考えられているのですが、これ、生命維持と深いかかわりがあって、生命進化のかなり古い時代からの器官のようですね 脳死判定でも脳幹が生きているかどうかは重要な判定項目です The RAS Pathway RAS(Reticular Activating System)が、五感からの入力を、通過させたり、止めたりしています この網様体賦活系を、意図的に自在にコントロールできれば、自分の人格を思い通りに構築することができそうな感じです・・・が 「独り言」(まあ、自分に対する話しかけですね)と、「なりきり」(目標が達成された状態をイメージする)によって、網様体賦活系がコントロールできるという理論ですね これですね 網様体賦活系という脳の部位は、進化論的には、爬虫類時代のものになります、ですから、言葉は通じません、感情、それも生命の危機があるかないかという位の原始的な感情しか通じません まあ、トカゲの行動原理を考えればわかります ですから、実際に網様体賦活系をコントロールできるのは、「強い恐怖を伴った感情」あるいは「身体的な快楽」または、「敵を倒した達成感」「獲物を捕まえた充実感」といった、動物的というか、それよりも原始的な爬虫類的な感情だけなのです それで、「独り言」と「なりきり」は、この原始的感情を生成するための「前振り」ということになります 要は、本当に必要なのは「強い感情」です 爬虫類のような、直線的な強い感情が脳幹のホメオスタシスを書き換えるのです 実は、この苫米地さんの技術は、米軍、米警察などで採用されているコーチング理論がもとになっています 戦場や犯罪現場などの強いストレスがある状況で、いかに生き延び、使命を達成するかが目的です 戦いということで言えば、オリンピックやプロスポーツなども対象範囲でしょう あるは、厳しいビジネスの現場もあてはまります 具体的には チームが円陣を組んで 「俺たちは強い、俺たちは最高だ、俺たちは勝つ」と大声で何回も連呼するといったたぐいの士気の上げ方ですね たとえばですけど ですから、宗教とは、方向が違うのです 宗教は爬虫類的な感情ではなくて、最高の人間性を求めています しかし、仏教では、この方法は古くから使われていた

日々是好日

イメージ
日々是好日(ひびこれこうじつ) 禅の言葉です 『雲門垂語(すいご)して云く、十五日已前(いぜん)は汝に問わず、十五日巳後(いご)、一句を道(い)いもち来れ。自ら代って云く、日日是れ好日』(碧巌録) 毎日が好き日である、という意味ですが これ、先日の自己実現プログラムそのものなのです 朝起きた時、「あー、今日もいい日だ!!」と、おもいきり、ニッコリする 夜寝るとき、「一日、すごくいい日だったなー!!」と、おもいきり、ニッコリする どうして、いい日なのか? その理由は、脳幹の網様体賦活系が、無意識のうちに必死で探しまくるのです 雨のしずくがキラっと光るのに出会えた、ことかもしれないし 通りがかりに、思いつきで買った宝くじで大金があたることかもしれない いい日!!と決めつけて、気分もいい気分になってしまえば、いい気分の理由は、脳が勝手に、後で探してくれるのです いいことがあれば好い日で、悪いことがあれば悪い日、と考えるのが当然のように思えますが、実はそうではありません 同じことが同じように起こっても、それを解釈し、どう感じるかは、人によって違うのです その、解釈に、人によって個性があります 癖ですね 何事も、ネガティブに、悪い方に悪い方に考える人 何事もポジティブに、どんな問題が起きても、その中から、好い事を見つける人 健康に暮らしていても、いつも病気になった時のことを心配する人 病気になっても、まだ生きているじゃないかと、笑い飛ばす人 これは、なにごとについても言えます あら探しばかりする人 長所を探す人 人の欠点や、過去の失敗、悪い連想、などばかり言う人を、 ドリームキラー と言うそうです ま、ドリームキラーにはなりたくないな、とは思いますね(^^;) それで 好いか、悪いかは、単なる印象です それならば、「好い」と決めてしまうのです 理由は、後で、脳が勝手に探してくれます すると、好いことだらけになってしまいます それが、禅の悟りであり、最新の脳科学の応用であると こんな簡単でいいのかなー それで、いいのだ!

まずは親を超えなさい!

イメージ
amazon いえ、本の題名です なかなかの野心作です 認知科学と言うらしいですが、心理学や脳科学、認識論哲学などの学際的な研究分野だそうで、その最新の成果を取り入れて、コーチングと合体させ、有益な自己実現プログラムにしたそうです 論旨は明快なのですが、カタカナをわざとらしく多用して、読みずらいです 苫米地さんの本によくあるパターンです 表装は、個人的には全く気に入りませんね、オドロオドロしてる これはこうだと明快に断言してしまうので、かえって薄っぺらい感じですが、一つの通過地点として評価しましょう ま、しかし 僕に言わせれば、密教の考え方とダブっている部分が多くあります もちろん、密教とは別物ですが、密教をわかりやすくする参考になると思います 密教の場合は、物質を含めてすべてを意識作用によって説明します、唯識ですね 認知科学は、物質と精神を別のものとする二元論です ですから、よく言えば、認知科学は、より進化する可能性を秘めていて、密教を二元論的な世界観で部分的に説明することができます 全体の論旨は、ぜひお読みになってください ここでは、ちょっと気になった部分を取り上げてみます 網様体賦活系 reticular activating system 略してRAS 五感によって認識される外界からの情報によって絶え間なく刺激される脳の入り口にあって、「感じることと、感じないこと」を振り分ける機能があると考えられているのが脳幹の網様体賦活系です ここが、注目することと無視することを決めているらしい モルヒネが作用するのも、ここです 意識障害もここで起きます RASを唯識で言うと、マナ識の作用です あー、これでやっと、唯識と科学の接点が見つかった 自己実現プログラムとは、つまり、マナ識をコントロールする方法ということになります それが、簡単に言えば、「独り言」と、「なりきり」でできるのです この本では「独り言」とは言わず、セルフトークと言うのですが、ま、同じですね 仏教や各種宗教では、経典読誦がこれにあたりますが、やはり「独り言」のほうが範囲が広くて、 たとえば、失敗をやらかした場合 「俺はいつもこうなのさ」と自嘲するのではなく 「俺らしくないことだ、欠点を修正して頑張ろう」と前向きに変えていきます 「なりきり」は、臨場感を高め、コンフォートゾーンを高く保つことなのですが

和光同塵

イメージ
カサブランカ 掃溜めの鶴 、という言葉がありますが ゴミの山の上に清らかな鶴が飛んでいるイメージでしょうか ゴミの山とは、我々の暮らす娑婆世界です 私利私欲、恨み、ねたみ、嫉妬、怒り、絶望、暴力など、なんでもありです ゴミの山の中には、お宝も埋もれていますが、ゴミだらけになって掘り返さないと、お宝は得られません 仏教の出家主義は、つまりは、鶴になることを求めています ゴミはゴミでどうしようもないから、ほっといて、自分は優雅に暮らす 戒律を守り、世間に交わらず、つねに仏を念じて、清らかに生きる ゴミとは別世界で、住む所が違う これを、小乗として、つまり、自分のことだけ考えている生き方であると で、大乗は、人々を救い助けるのだと まあ、理屈では、そういう分類をします 大乗は、在家主義でもないんですね、とくにこだわらない 今どき多い、独身の方は、まあ、生き方によっては出家みたいにもなり得ますな ま、どっちでもいいし、だからどうということでもない 最澄は、大乗は大乗の戒律が必要だということで、当時の日本仏教界とたいへんな衝突をしたのですが、自分では、小乗の戒律も守っていました 今の比叡山でも、回峰行の人など、生活自体は、肉食妻帯せず厳格な精進です 小乗でも大乗でも、どっちにしても、ゴミの山は、ゴミの山で同じことです 小乗も正しいと言えば正しい 誰だって人助けができるわけでもないし、自分が生きるだけでも精一杯なのが人生です 自分だけ正しく、自分だけ幸せで、自分だけ豊かで、自分だけ清らか 鶴になりたければ、鶴になる努力をしなさい、という生き方 でまあ、鶴になる努力も、それなりに大変なのです 大乗は、人助けをして、人を幸せにすることを人生の目的にする生き方 でもこれは、強く賢い人でないとできない 強くて賢く、愛のある人は、意外と沢山います、捨てたもんではありません ただ、弱く愚かな人も多いのです 現実は厳しいのです 実は、もう一つの選択肢があります それが、 和光同塵 です 心の中に、なごやかな光を灯しながら、ゴミの山で暮らす 人助けができる時はして、できないときは、一緒に悲しむ 人々を幸せにするために、先ず、自分が幸せになる 価値の基準は、自分の心の中にあって、比較や評判は関係ない 感謝を先にする そして、人々を生かすため、いつでも自分を犠牲にする覚悟ができている 心の中に

仏舎利

イメージ
弘法大師は両部不二と言って、統一された世界を考えていました ですが言うだけで、どれがそう、という具体的なものは無く、理念だけです その答えが台密の蘇悉地です 密教の理論で、必然的に必要になる答えです 空-->胎蔵 唯識-->金剛界 仏舎利信仰-->蘇悉地 空と唯識は哲学的な基礎で、仏舎利信仰がその二つを統合した信仰形態という考え方です ですから、根本のお釈迦様への信仰です それが、比叡山から発展して、念仏、禅、法華、といった広がりにつながりました 蘇悉地曼荼羅といったものはなく、具体的な作法の総称が蘇悉地です サンスクットを翻訳すると、妙成就で、成就するための方法ですね 僕は、インドで仏舎利を何回か実際に参拝しています デリーのインド博物館にあるのですが、館内も暑いのですよ ですが、舎利の周りだけ、なぜかひんやりと涼しいのです 真言宗は、お釈迦様への信仰が、大師信仰になって、極めて日本的な密教になりました 加持力の根源が弘法大師です 天台の加持力の根源は、お釈迦様です これが、仏教を俯瞰するにはいいのですが、「これだけやってればいいんだ」的な、わかりやすさのない個性になるんですね あれもこれもいいですよ、となります ただ、天台宗が、皇室が最初に公認した宗教になったということには、日本にとって幸せなことだったと思いますよ 天台宗は、沢山の選択肢を持った宗教ですからね

奏楽堂

イメージ
旧東京音楽学校奏楽堂   紀州徳川家16代当主の徳川頼貞さんは、子供の頃に見た軍楽隊のパレードにあこがれ、それ以来、西洋音楽のよき理解者であり、日本に紹介をしたパイオニアでもあります たしか、ベートーベンの楽譜もどこかで手に入れています 日本最初のパイプオルガンは頼貞さんによって輸入されました 教会音楽が大好きで、バチカンの奥深くにある、ローマ法王の「秘密の花園」に入ることができた人でもあります パイプオルガンのある奏楽堂は、上野公園の一角にひっそりと、意外に小さく、佇んでいます 今でも、このパイプオルガンの演奏会があります 戦前は紀州徳川家も侯爵家として、江戸時代には比べることはできないまでも、かなりの資産があり、様々な文化活動をしていました こちら にリンク集があります 南葵楽堂の想いで 徳川頼貞 本物の殿様の生活の一端がうかがえます 今の奏楽堂ができた、いきさつの記録です 頼貞隨想 一冊の本なのですが、たぶん入手できないでしょう 幕末から明治の、西洋列強による、戦争による国益追求が当たり前の時代、いかに苦心して日本を守ったかがわかる、貴重な資料です その本の中で、長保寺にかかわる部分を抜き出しています 徳川家は南葵育英会という日本最初の奨学金制度の組織もつくっています これは、返す必要のない奨学金です その事務所は現在、銀座の真ん中の、日本最初の電気街灯が点いた場所にある、ある会社のオフィスにあります その会社は、リッツやポッキーを作る機械を製造している会社です 歴史は今も息づいているのです

長期投資の勧め

イメージ
投資の極意は「感謝のこころ」 いきなりなんだ、とお思いかもしれません まあ、お読みください 今、世界はアメリカ発の金融危機で、経済が大打撃をこうむっています いいとか、悪いとか、評論家のようなことを言っている場合ではありません 我々の生活を、大きく脅かしています この夏、選挙がありますが、政府は財政出動による景気刺激策を打ち出しました 財源は、消費税増税が正論でしょうけれど、てっとり早い国債増発をすることになると思います 御存じの方もいるかと思いますが、日本のGDPのうち輸出の占める割合は実は案外低く15%位のもんです 今回の世界不況の、日本への破滅的な影響は、ありません でも、金額にしたら、影響が大きいことは大きいです 世界経済が当分の間、不景気になりますから、輸出で稼いでいた分を内需拡大で穴埋めしたいところです 財政出動は当然の選択だと思います アメリカでは、金融機関やGMの救済に、ついにドル増刷に踏み切りました ドルの価値は、ゆるやかに、しかし、確実に、下がっていきます アメリカが世界経済の中心であることは、今後も変わりないでしょうが、頼り切ることはもうできません 日本の財政出動とアメリカのドル増刷で、マーケットにはお金が有り余ることになります つまり、インフレなのですが、日本の場合、もともとデフレですから深刻な問題にはなりません 長い目で見れば、有り余るドルは、発展途上国に還流し、経済を活性化するはずです しかし、その前に、商品相場、株式市場は、資金が流入して、かなり高騰するでしょう 国は、経済を刺激するのに、公共投資などの財政出動をすることになりますが、個人は、株を買うのがいいのではないかと考えています 今、日本人の貯蓄は1500兆円あります 世界一です このうち一割でも株式市場に移れば、当然、株価は上がります そうでなくても、世界中でだぶついてくる資金が行き場を求めて流入してきます 株を買っておけば、たぶん、儲かります ただ、それだけではなく、企業は潤沢な資金を得て、事業に活用できます こちらのほうが、重要です 国の財政出動は、政治がらみやら、あきれかえる無駄遣いやらが横行して、効率的ではありません バラマキと言われて、しかたのない状況です しかし、個人投資家が、これはと思う企業に、株を買うことで資金を提供すれば、企業は生き残りをかけてそれを活用しますか

タイサンボク

イメージ

カシワバアジサイ

イメージ

宗教の限界

イメージ
法華経 平安後期 長保寺蔵 一神教に限らず、宗教には限界があります 奇跡が思った時に、思ったように起こらないとかじゃありません 奇跡は、そもそも、コントロールできないから奇跡なのです 加持祈祷の結果も合理性の範疇の外ですから、なるようにしかなりません 加持祈祷についていえば、祈っていて、手ごたえが有る無しは歴然としてあります よく「法がかかった」とか「法が空回りする」とか言います でも、結果がどうなるか、やってみなければわかりません 巷の拝み屋は、営業トークでいろいろ言いますが、なんでも拝めばよくなるなら、世の中に悲劇などありませんよ そうではなくて 宗教という統一性のある物語も、イメージであり、パラレルワールドであるということです ただし、そのイメージは、世界の根源からの語りかけであり、パラレルワールドの住人にとって真実との唯一の接点です イメージは、暫定的理解、などではなくて、絶対的な真実からの語りかけなのです 真実が、各種あるからパラレルワールドなのであって、これが衝突の原因にならないほうが不思議ですよ ですから、一神教が、自分の正義を絶対化するのは当然として、多神教や無神論も、絶対化されざるを得ないようになってきます 唯一の真実がイメージとなったのが、その人にとっての宗教なのですから 宗教戦争は不可避で、神学論争が尽きることはない、ということになりそうです     宗教の教義を絶対化するのではなくて、その教義が生まれた源泉の、そのまた源 つまり、Superpositionですね、ここまで遡れば、衝突がおきることはないと思いますよ 僕が言っている、「仏教を基調とする考え方が世界に必要」というのはそういう意味です それを、神の意志、とか、物質の相互作用、とかのレッテルを張って、わかったつもりになっているんじゃないですか 何回も言いますが、パッと目をつぶったら、眼の前のモニターは、消えてなくなったのではなく、どうなったかわからない状態で(見てないんだからわからなくて当然です)、有ると言ったら、見てないんですからウソになり、無いと言ったら、そりゃそんなことはないのです 物事は、認識した瞬間に、イメージとして脳内に生じ、それは、各人別々のものになるしかないのです イメージを自己主張しても、対立するのは当然です ですから、見える前の世界を、これは、智慧で探究するしかあり

霊験

イメージ
法華曼荼羅図 絹本著色 天明3年(1783)長保寺蔵 中央に釈迦如来、多宝如来が並んで座っています これは、「イメージと実体」の象徴的イメージです 法華経寿量品の中で、美しく文学的に表現されています       「真言行者、座を立たずして、一切の仏事をなす」 身語意を加持して、仏と我と衆生が繋がると、仏の力が衆生に注がれます 実相の中で、三平等になるからです その瞬間、行者は衆生の痛みを感じます そして、衆生が仏の力によって癒されていくのを感じます 衆生の苦しみが大きければ、行者は耐え難い苦しみを受けることもあります 初心の行者は、衆生と繋がるのを制限しながら、仏との繋がりを深めなければなりません しかし、加持を繰り返すうちに、徐々に行者は仏と深く繋がり、苦しみを癒す力が大きくなります 人には、様々な才能というか個性がありますが、加持のできる人も、まあ、才能の有る無しがあって、天才もいれば、どうも伸び悩む人もいます でも、たとえば音楽がそうですが、楽しむことは誰でもできます 演奏家や作曲家は、苦しんだり努力したりが避けられませんが 天台学は、もともと中国で始まりましたが、比叡山で、まったくの密教になってしまいました それは、やはり、密教の現実世界を変える、応用力というか、霊験ですよね、これが桁違いに強いからです 霊験と書くと、理屈無視のようですが、順を追って考えると、それなりに仏教哲学の中で辻褄はあってます ですが、大前提があります 僕は、仏の存在だと考えています つまり、ものすごい昔に、仏教的修行をして、自己を完成させた人がいる ということです 道の先を歩いている存在ですね まあ、お釈迦様ですね、歴史的には やっぱり、 仏の力が注がれている これが、感じられるかどうかです 苦労した人は、やはり、仏に近いですよ 威張ってたらだめだな、わからなくなる 純真な、お子さんは近いんじゃないですか 子供に出来ることだから、実は、簡単なことなんですよ むしろ、大人になって、権威とか知識を振り回すようになると、だめですよね 仏の力が感じられるようになると、これ、拝んでばっかになります 世界を、てっとり早く善くできるように感じるからです 昔の偉い坊さんは、拝め拝めと、めちゃくちゃ厳しいです(^^;) 僕なりに言えば 天才はそれでいいんです ですけど、チベットみたいにあまりに観念的に

不思議

イメージ
我々、お互いが、実はSuperpositionの中の存在なんですよね こうして文章を読んでいただいていますが、書いてる僕は、あなたにとってSuperpositonの中にいます 僕にとっては、読んでいただいている方々がSuperpositionの中にいます だから、理論的には、時空を超えて繋がっています くどい事を書きますが、Superpositionは物理的に観測される現象で、この理論をもとに走査型電子顕微鏡など実用化されているわけで、無視できない事実なんです 自分が今生きているという感覚も、厳密に言うと、そう思った瞬間に過去になっているわけです いったいいつ生きているのかというと、未来はまだ来ていませんし、生きているなと思った刹那は過ぎ去ってしまっていますから、生きる暇がない、と言うのも変ですが、考えてみると不思議です 唯物論的な理屈をつけても、仏教的な理屈をつけても、しょせん、よくわからないことへの屁理屈なんですから、ムキになってもしょうがないと思いますよ まあ、僕がこうして、かなりアバウトな話をつづけているのは、几帳面につじつま合わせをしても、実際のところを説明しきれるものでもないからです あまりに綺麗に理論を作りすぎると、そうですね、たとえて言えば、sudokuが、あと最後のひとマスで出来あがるのに、どうしても埋まらず、結局最初から全部間違いだったようなことにもなりかねません 数独 ・・・いいんです、わかりにくくて (^^;) 心の「ある」ことを否定する人は無いと思いますが、どこにあるのかということになったら、脳でもいいですが、パカッと二つに割っても心が出てくるわけでもなく、理解しずらい対象ですね と言って、全く不可知かというとそうでもなく、中途半端にわかっているというか、理解途上にあるというか、あてになるようなならないような、よくこれで平気で暮らせますよね 「ある」という概念がそもそも間違っているのかもですね この瞬間が、与えられているというか 生きてるだけで丸もうけ、ですよ、ほんと

参道にお花

イメージ
地元の方達の御奉仕で、参道にプランターを置き、お花を育てていただくことになりました これから暑くなって、水やりが大変ですが、当番を決めて御奉仕されるそうです また、海南市の補助金と下津ライオンズクラブのご協賛をいただいております

神通

イメージ
  無宗教の人に、いい人もいれば悪い人もいる 無神論者に、いい人もいれば悪い人もいる 仏教徒に、いい人もいれば悪い人もいる キリスト教信者に、いい人もいれば悪い人もいる イスラムに、いい人もいれば悪い人もいる 唯物論者に、いい人もいれば悪い人もいる 坊さんに、いい人もいれば悪い人もいる 神主に、いい人もいれば悪い人もいる 学校の先生に、いい人もいれば悪い人もいる などなど およそ、レッテルがどうであれ、中身は別です ま、イメージと実体ですねぇ これが、こんがらがっている人が多いのです レッテル貼りは、妄想にしがみつく行為そのものです 日本はどう、韓国はどう、アメリカはどう、と、割と簡単に一般化した議論をしますが、一種夢遊病のようなものではないですか レッテルを剥がしたらどうなるか、よく考えてから議論を進めた方がいいですね ちゃんとした結論が欲しいなら ところで、仏教哲学の「空と唯識」ですが、これを前提に考えたら、いろいろ不思議なことになるのですね 相手と、向かい合って話をしてるとします(対話です) パッと目をつぶると、相手は見えなくなります(あたりまえですが) その時、相手は、Superpositionにいます(理論的には) 自分の心の実体はSuperpositionです(厳密には自分自身がですが) で、Superpositionは、有るでも無いでも無く、一でも多でもなく、始めも終わりもなく、というか、観測されないんですから、どうなっているかわからず、仏教で言えば、空であるわけです(実相でもいいですが) ですから、空の中で、相手と自分の心は、一緒にいます(だから、一でも別でもないんですが) その時、自分の心にマナ識がなければ、相手と自分は一つです(ここがミソです) マナ識は仏教で厳密に定義されてますが、ここではザックリ省略して、レッテルにしがみついている状態とします(妄想に執着してるってことですね) 純粋な子供、自分と他人の心の垣根の低い人、など、レッテル貼りはあまりしません(一口に言うと、先入観の無い、やさしい人かなぁ) 仏教では、妄想を離れれば菩薩です(つまり、先入観を捨て、レッテル貼りをしない人) だから、先入観を捨て、レッテル貼りをしないと、空の中で相手と自分の心が、繋がります(相手を理解するってことです) 仏教では他心通といいます(天眼通、天耳通、など他に

多神世界

イメージ
山王垂迹神曼荼羅 絹本着色 江戸後期 長保寺蔵 「日吉山王の諸神の姿を画面に構成したもので、諸神の数や配列に多少の異同がある。本図の場合、神殿の内陣に上七社の七神、外陣に猿面の大行事と早尾の二神と狛犬一対を配し、下方の階段付近に神猿を描いている。」 仏教が日本に伝来してから、基本的には神仏習合で、日本古来の神様と、仏教の仏菩薩天は同時に信仰されていました それが密教では真言系が両部神道、天台系が山王神道と独自に理論化して、本地垂迹(ほんじすいじゃく)と言うのですが、日本の神々の本体は仏様ということにしました 天照大神=大日如来とか、あてはめていくわけです よく権現様と言いますが、仏様が仮の姿で(権)あらわれた(現)という意味です   ローマのパンテオンは円形に神々を並べて中心に人間がくるのですが、垂迹説では、本体が仏ということで、仏教的世界観の敷衍になるのです しかし、統一見解といったものはなくて、宗派や時代によって、少しずつ違います   つもり、これも、イメージがパラレルワールドですから、いろんな解釈が成り立つということです・・・ここだけ読んだらなんのことかわかりません。前の記事からお読みください(^^;) 多種多様な神様達がいるのを、どうまとめるかという、いわば政治的動機が根底にあって、共和制的神殿になったり、中央集権的曼荼羅になったりするということですね 一口に多神教と言ってもいろいろあるということです これが、ローマカトリックやイスラムでは、もう個性的な神々はいません 否定されてしまいます     それで、今の世界を考える時 キリスト教やイスラムなどの一神教や、仏教や神道、ヒンドゥーなどのような多神教が同時に存在してるわけです 多神世界であるのが現実です これを、一神教の人たちは認めないのですよ ま、妄想にしがみついているのですね ただ、多神世界では、神様達が仲がいいか悪いかという問題が生じるのです スサノオの神話や、まあ、いろいろあります 神々の世界にも秩序が求められるのですね それで、僕ら自身が、現代の多神世界が、共和制神殿なのか中央集権曼荼羅なのか、イメージを創り出す必要に迫られているのです 僕は、パンテオンですよ ただし、パンテオンの中心は、仏心です   よいことをすれば、いい神様 わるいことをすれば、悪い神様 生まれによって善悪はない、行いによって

魑魅魍魎

イメージ
Hieronymus Bosch 十字架を担うキリスト     仏教でいう唯識と現代の心理学の接点を、一時期探したんですけど、どうも、よくわかりませんでした というのは、現代の心理学自体が、人体実験ができるわけでもなく、反復実証させるわけにもいかず、観察に対する評価の連続で、かなり文学的なんです まだ未熟な学問なんですかね フロイトの無意識をピンセットでつまむわけにはいきませんし、ユングの集合意識も、そう考えることもできる、というだけのことです 向神経薬などありますが、わかったような、わからないような 余談ですが、むかーし、知りあいに、テレビ番組の脚本家がいて、この人が統合失調症で薬を飲んでいました ぶっとんだ、はちゃめちゃな話が得意で、まんま、地ですね そのお父上が東大の神経科のお医者さんで、薬をいろいろ人体実験といったらいけませんが、試していたのです 知り合いは、薬がどのように効いてくるか、言葉で説明するわけです 物書きですから、詳しく描写するわけですよ 壮絶な、科学の、現場ですね 脳科学も、これからですね 洗脳も研究しましたよ、かなり ホメオスタシス(恒常性を保とうする自律的働き)とか条件反射を応用するらしいです 精神分析とか、ヒプノセラピーとかね、言葉が重要で、これかなり、臨機応変で、なにか法則性があると言えばあり、ないと言えばないようなで で、心理学という名で、あんまり物語を拡張しちゃいけないな、とは思いますね   それでも、仏教の場合、4世紀頃から、心に着目して研究を重ねているのですから、まあ、実績と言うか、歴史はありますね 研究が進展しているのか、と言われそうですけど、サンスクリット、チベット、漢文の経典や論書の突き合わせを厳密にする、といった段階ですかねぇ テキストクリテイークというやつです 考え方の変遷とか、どこから影響をうけたとか、わかってきます これはこれで興味深いです ただ、仏教の場合、自分で坐禅なり、修行をしますから、「ああ、これはこう」と自得することが多いのです それが、自己満足かどうかという問題はありますが、どのみち自分で納得するまで試行錯誤するしかありません   さて それで、唯識で、瞑想体験や神秘体験の、説明はつきます 仏教では応用もかなり進んでいます いわゆる、先祖供養、加持祈祷、などです 先祖供養など、どの宗派でもあたりまえにし

菩薩

イメージ
過去現在未来三劫三千仏曼荼羅 三本組 江戸時代 長保寺蔵 さて、そろそろ、わけのわからない話をすることにします     今まで、模式的に、イメージと実体の境目が感覚器官、という理論を展開して、眼耳鼻舌身の五感までは境目としてきました   それで、 意識は境目ではない 、ということなんです   すでにこちらで書いているんで、ちょっと別の角度から書きます 仏教ロジックの模式図   仏教の考え方に、まあ哲学ですけど、大きく二つの流れがあります   空観と唯識観   空観は、イメージと実体ですね、この実体がSuperpositionで、無始無終無常無我で、有るでも無いでもなく、しかし、そこにあるということを説明しようとしています   唯識観は、「イメージと実体」が、意識の中で生じる現象だということを説明しようとします   仏教の歴史の中では、瞑想体験や神秘体験の、体験したこととうまく整合性のとれるような理論が研究されました なかなか苦労してるんですが、ここのところが、どうも煩雑なので割愛します(^^;) 意識、マナ識、アラヤ識、如来蔵と意識は階層化しています 説明がめんどくさいので、興味があれば「仏教ロジックの模式図」を見てください(^^;)     結論的に言うと、意識が、「イメージと実体」の入れ物だということです わかりにくく縮めて言うと(^^;)、物質も意識の産物です   意識は、無始無終無常無我で、てっとり早く言うと、永遠です それで、僕らの、肉体は死ぬことはありますが、意識は永続というか始めも終りもなくそのまま、ということになります 意識は、境目(唯識の専門用語でいうマナ識)のあっちとこっちを行ったり来たりします(なんのこっちゃ、だと思いますけど) 唯識的には、眼耳鼻舌身の消失が死です 意識は永続します マナ識が、妄想にしがみつく、まさにしがみついている本質です マナ識は、意識が成長する(つまり、妄想から解放される)と消滅します マナ識が消滅した状態が、ブッダです マナ識が消滅しても、意識の履歴は保持されます、なぜなら、実体には時間や空間はありませんから それで、ブッダは無数に存在します(厳密に言うと数えることはできませんが) ですから、僕らは死んでも、今経験していることは、蓄積され、実績として生かされ、輪廻転生を繰り返し、最後は、別々のブッダになります ただし、

あじさい

イメージ
あじさいが咲き始めました 今年は、花が小さく、花数も少ないようです 長保寺には、約300株のあじさいがあります

密教

イメージ
丸木の柱ですから、まるで、森の中にいるような感じになります 冷たい空気が下に来ますから、木々の梢の下を通ってくる風は、涼しくて気持ちいいですよ ここで、ユリイカなど読むのです     「 法身は説法する 」弘法大師   密教の精髄ですね   どのように説法するかと言えば、「五大に皆響きあり」で、響きが感覚器官を通じて、脳内にイメージとして色香触味法を作ると   ユーミンの歌にありますが 「すべてのことはメッセージ」です ですから、勝手なことを言えば、ユーミンは密教を布教してることになりますw     弘法大師的には、 「響き」はつまり、Superpositionです で、それがサンスクリットだ、となるんですが、まあ、どうなんでしょう サンスクリットもイメージじゃないかと思いますが 波動という説もあるのですが、なんでしょうね、「波とその動き」として観測されてるわけじゃないので、波動はいわば、文学的表現ですね 「水からの伝言」など、どうしていきなり波動になったんでしょうね 水と波で、つながったのかな 水と心が通うでも、念飛ばし、でも、まあ、文学的表現はいろいろあるんじゃないですかね     さて 銀河系には2000億以上の恒星があるそうですが、宇宙全体には、そのような銀河が1000億以上あるらしいです しかし、それは、眼で観測して数えるからで、響きとしてとらえれば、実はたった一つの響きしかありません Barred Spiral Galaxy NGC 1300 ->をクリックしてください こちら でも書いています   その響きが真言である、となるのが弘法大師なのですが、サンスクリットにしろ、マントラにしろ、脳内のイメージ、とするのが厳密な態度でしょう   真言密教は、真言以外を密教として考えないという立場なのですが、天台密教は、全く違います   天台学は、そもそもは中国の天台山にある国清寺で始まったのですが、日本に伝教大師が請来してから、比叡山で密教化します その時、真言だけでなく、阿弥陀経や法華経、般若心経なども密教に分類します 密教の範囲が、全く違うのです   専門的には、「教主の違い」と言うんですが 真言密教では、教主は大日如来です 天台密教では、教主は釈迦如来です、で、釈迦大日一体とします   大日如来が説法している経典が、金剛頂経や大

来迎

イメージ
阿弥陀三尊来迎図 絹本着色 江戸時代 長保寺蔵        単にSuperpositionを認知するだけでは悟りではない、という話の続きなのですが   Superpositionを知るのが、無上の悟りなら、昼寝でも修行になります 感覚器官がお休みの状態ですからね     仏教では、悟りにも段階があって、Superpositionがわかるくらいになって、初心の行者になります(なんか専門用語がありましたが、時代や宗派によって違うので、説明するとややこしくなります)   わかりやすく、弘法大師で言うと、10段階にわけて 8 です   要はですね、本を開けてみたはいいけれど、活字がランダムに並んでいて読めない状態です 自分に語りかけてくるものが無い   無始無終無常無我のSuperpositionなのですが、自然科学によって確認されつつあるように、美しい秩序があります なぜ、あまりにも整合性のある厳然とした法則があるのか、謎ですね その、法則(とりあえずこう言っておきます)そのものが、イメージの中で形になると・・・ それが、神や仏の姿になります 神や仏がなぜ人の形になるかと言うと、人の理解力に応じた形でイメージが作られるからです   金剛界曼荼羅部分 降三世三昧耶会 長保寺蔵    密教では、三昧耶形(さんまやぎょう)というんですが、神様などがいろいろな持ち物を持っていますが、これなども、理解力に応じて、というか、人の中にあるイメージを借りて、法則が表現されたものです この三昧耶形の意味は、必ず師から弟子に直接伝授されなければなりません よけいな意味が入りこまないようにです これが、密教の秘密性にもなるのです     ここからは、わかる人にしかわからない話です   弘法大師で言うと、ここが 9 です     神仏は、我々に、常に語りかけています キリスト教だと、啓示ですね   これは、つまり、今までの文脈で言うと、感覚器官が自動的にSuperpositionをイメージ変換していて、ついに、法則そのものと出会う、ということです   それは、人が、与えられた自由を行使して、求め続けて、求めても得られないことに気がついた時に、与えられます 一回、スッカラカンにならないと、うまくいきません 本を開いて、意味のない文字の羅列を見て、どんなに頑張っても解読できず絶望したとき その時初

慈悲はどこにあるのか

イメージ
風天 紙本著色 桃山(16世紀) 長保寺蔵   さて、もう何回も繰り返しますが、イメージと実体ですね 感覚器官を境目に分かれています   で、その実体ですが、正邪美醜、神々や、未熟な魂達が、有るでも無いでもない状態で、一つでも∞でもなく、無常無我に存在しています    たとえば、風が吹いたり、まあ、水が流れたり、自然現象ですが、ダイナミックに活動しています、これは、誰かが見ていなくても活発に動いているわけです    ですから、実体は、かなり活動的に運動してるわけです 己の意志があるのではなく、自然に動いています   実体は、有るでも無いでもないのですから、苦痛と言うか、不如意そのものが、有るでも無いでもない 願望が、有るでも無いでもない 私利私欲は、無いでしょうが、有るでも無いでもない 喜びも悲しみも、有るでも無いでもない 無為自然、天真爛漫、自然法爾、あるがまま、です 自然現象の実体は混然とSuerpositionで、ひとかたまりであるでもないでもなく、無意味でも有意義でもなく存在しています   実体は、感覚器官を通じて観測され、イメージになって、初めて、意味を持ちます 閉じられた本が、読まれるように   ですから、慈悲はどこにあるのかと問うならば、有るでも無いでもなく、イメージとして感じられるまでは、読まれずにいる本の物語のように、実体の中で時がくるのを待っています 慈悲は、イメージの中にあるのです   止観が実体にたどりつくアプローチだ、というのが仏教の立場なのですが、 感覚器官を止めるだけでは、ただの屍 で、仏教で言う、悟りではないです 止めただけでは、Superpositionがあるだけで、その中には、無数の物語が読まれずにあり、まあ、インターネットを丸めてビー玉にして、それを見ているようなものです・・・たとえが分かりにくい(^^;) ビッグバンの前の宇宙です(もっとわからん) それで、観もセットになっているのです      慈悲や愛は、自分でつかみ取らなければなりません あなたが慈悲を感じれば、その時、慈悲があります あなたが愛を行えば、それが愛です   座して待っていても、慈悲は、実体の中で眠り続けるだけです      「神は愛だ」とか「仏は慈悲深い」とかは定義の問題で、イメージです あなたがなんにもしなければ、はいそれまでよ、です 当たり前の話ですけ

判断の基準

イメージ
自民党が発表した政策です これが、「経済危機対策」なのか「バラマキ」なのか これから選挙になりますから、一応の関心は集めるでしょう まあ、争点になるかどうかはわかりません ローカルにはローカルの事情があって、まともな言い分だけが評価されるわけでもありませんから 個人的な評価をしますと、株価が世界に先駆て回復の兆しをみせていますし、経済運営は比較的うまくいっているのではないかと思われます あまりにグチャグチャになったしがらみの中で、よくやっているのではないでしょうか もちろん、この先どうなるかわかりませんが、世の中を明るくしようという意図が感じられます ただし、過去の利権政治の土台の上で実施される政策ですから、昔ながらの金権は温存され、無駄遣いもまかり通るのでしょう それでも、世界経済が猛烈なリセッションにみまわれているのですから、すべての理想を求めても無理です どう判断しますかね 生活に直結しますからね ありきたりの結論ですがそれを決めるのは、神でも仏でもなく、自分だということですよ その連続が人生です 判断の基準は、自分の中にあるのです でまあ、僕的には、自分を信じるしかない、と、結構つらい結論なのです 「だいじょうぶか、自分・・・」 その不安や孤独が、宗教を生みだしたり、妄想にすがったり、絶望したり、いわば、悪あがきをさせるのです それがまた、悪あがきと言って笑っている場合じゃなくて、悪あがきだろうがなんだろうが、やっていくしかありません 選挙の日は迫っております それで、虚心坦懐、当面の利害得失を捨て、冷静に現実を観察する必要がある、というのが仏教の教訓ではないでしょうか 「リアリスティック」と「インテリジェンス」、ですかねぇ たいていのことは、解決の糸口が見つかるんじゃないでしょうか

実相

イメージ
ビッグバン wiki わかりにくい話を、もっと、わかりにくくしてさしあげましょう   遠方の銀河の拡散しつつある速度を観測した結果から逆算して、宇宙は137億年前に凝縮された単一状態からビッグバンしたと考えられています 今のところ、この説を覆す事実は報告されていません 当然に、最も最初の凝縮した状態の時に、なんらかの生命があって、宇宙を観察していたということは確認されていません 仏教式に言えば、観察されなけば世界は存在できませんから、誰かが見守っていたことにしなければ辻褄が合わなくなります ビックバン直前は、少なくとも、脳や感覚器官を備えた生物はいなかったわけで、イメージも実体も無い、ということになってきます・・・   実は、ポーのユリイカを引用したかったのですが、手元に本が無いのでネットで注文して、届くのを待っていました 去年文庫で再版されたんですねぇ 文庫の表紙の絵は、ポーの本にある挿絵です ビッグバンの図と同じですね ポーは、 原初の事物の原始の単一のなかに、その後のすべての事物の原因がひそみ、同時に、それらすべての不可避的な消滅の萌芽もひそむ と、精神と物質が、凝縮された一つの状態から膨張し、それが星雲や星々を生み、臨界点に達すると、また次第に収縮して単一に帰る、いわば、ビックバン宇宙論を説いているのです そして、ただ爆発するのではなく、また収縮し、単一に帰り、爆発と収縮を繰り返すと考えました 神の心臓の鼓動 と、呼んでいます ユリイカが発表されたのが1849年、天文学でビッグバン理論が発表されたのが1927年 ポーは詩的直観だけで、後の天文学で観測される、宇宙の姿を描いてしまっていたのです ポーは詩的な直観でこの宇宙論を書き、 「わたしは死なねばならないのです。ユリイカをなしおえてしまったので、わたしはもう生きてゆく意欲がありません」 と、手紙を書いた3ヶ月後、死去しました   「原始粒子が拡散し宇宙が形成され、やがてそれが収縮して すべての創造物は程度の差こそあれ、みな知覚をそなえている。 第一に、自己が自己であることを感得する知覚、第二に、そしてかすかで曖昧な洞察によるものだが、いま問題にしている聖なる存在者、すなわち 神との同一性の知覚 である。 これら無数の個々の知覚力が・・空に輝く星々もろとも・・一つに融合するまでの長い年月のあいだに、二種類の意