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8月, 2013の投稿を表示しています

智恵の心

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「諸法は空を相とし、生ぜず滅せず、垢つかず浄ならず、増さず減らず」 とまあ、般若心経には書いてあります これを、「時間も空間も質量も無い」という意味で理解しておきます で、これ 「時間も空間も質量も無い」から、勝手気ままで、自由自在で、やりっぱなし、ということになるかというと、そうでもないのです 問題は「諸法は空を相とし」という部分です 「諸法」とは自然界の法則とでも言いましょうか、因果応報の理ですね それが、厳然として、「空」の前提になっています たとえば、自然科学における真理の探究や、経済学における社会法則の発見などは、つまりは、般若心経における「諸法」の探求とも言えます このへんは、物理学の量子論が極めて示唆的ですが、ややこしくなるので、ご興味のある方はこちらをどうぞ 仏教のロジックと物理学との接点 ガリレオが振り子の等時性を発見したとか、現代の最先端の科学研究も、まさに「諸法の空の相」の探求とも言えるのです ピサの聖堂にあるガリレオのシャンデリア で、人間は、この「諸法」に束縛されて、生まれ、生活し、死んでゆくのですが、この「諸法」には「時間も空間も質量も無い」という特徴があるので、束縛されているようで、じゃ、いったい何に束縛されているのかというと、束縛するのもが無いという理屈になってきます これがですね、我々に自由意志がある、という言い方にもなってくるのです でも「諸法」に従って、我々は生きているのです たとえば、ガスレンジの上に水を入れた鍋をおけば、大人でも子供でも、老若男女、イスラム、キリスト、仏教、白人、黒人問わず、だれでもお湯を沸かせます 人間に自由意志があり、自然界の法則が厳然としてあるわけですから、それを、諸法を自在に利用することができる、というふうに言ってもよいのではないでしょうか まあ、屁理屈の積み重ねのように聞こえるかもしれませんが、お釈迦様はインドの霊鷲山(りょうじゅせん)で、般若心経を説いて「一切の苦厄を度した」わけです それは、一瞬にして、全てがバラ色の極楽世界に様変わりしたわけではなく、「必ず問題を解決することができる」ということを言っているのではないですか 今風に言えば、智恵で科学法則を利用して苦しみや災厄から逃れることができる、と解釈することもできるわ

なにを思うか

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昨日の「心を生きる」続きです 心の重点が「空」に置かれていれば、生も死も無い まあ、このようなことを書いても、ああそうですか、で終わってしまうと思います あなたが今、この文章を読んでいるとき、僕はパソコンの前にいるか、昼寝をしているか、飯を食べてるか、いずれにしろ、どこかで何かをしています 実は、あなたから見て、僕は「空」の中にいます これを今読んでいらっしゃる、あなたは、僕から見れば「空」の中にいます とにかく、感覚器官で脳内に結像するまでは、一切合切、すべて「空」です ですから、会社に出勤したり、学校に行ったり、買い物にいったりしている家族も、留守番をしている側から言えば「空」になっています で、脳によって結像した「色」ですね、つまり、普通に見たり聞いたりといった感覚は、脳の作り出した「顛倒夢想」です ですから、普通に生きている我々は、実際のところは、「空」のなかで時間、空間、質量のない世界で生活してることになります 時間、空間、質量が無いのですから、生きるでも死ぬでもなく、有るでも無いでもなく、一でも多でもなく、暮らしてるということです 地動説と天動説の違い、とでも言いましょうか 脳内世界が夢想で、感じる前の世界がリアルな世界、という発想をすれば、不生不滅、不垢不浄、不増不減の「空」の中で、我々は、生きるでも死ぬでもなく生活してることになります 「そんなこと言っても、人は死ぬじゃないか」 とまあ、そうなんですが、感覚器官が燃え尽きてなくなってしまっても、「空」は有るでも無いでもなく、そのまんまです ですから、時間も空間も質量も無い「空」の中で、我々は、そのまんま、ということになります 前世とか輪廻転生とか、あの世とか、言いますが 正確には、時間も空間も質量も、有るでも無いでもないのですから、まあ、「空」ですね そういうことになると、先ず何が大事かと言えば 「 なにを思うか 」ではないでしょうか 感覚器官の中での我々は、死ぬこともあれば、病気や老衰もあるのですが、「空」の中では、なんら制限がありません ですから、勝手気ままではあるのですが、そこは「空」には垣根が無いので全てと繋がってい

心を生きる

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般若心経に書かれている、不生不滅 不垢不浄 不増不減、なのですけれど 生滅 垢浄 増減、が無いという意味ですよね ありのままの世界(ここでは空)を感覚器官を通じて感じて、脳内に自分なりの世界をつくり出しているのです(五薀、十二因縁など) その、生滅 垢浄 増減、といったことは、脳内で作り出された、「顛倒した夢想」であると、般若心経には書かれているわけです 生滅が無いということは、時間が無いということになるわけです 時間も脳内の産物だと 垢浄が無いということは、まあ、美醜とか、要は形が無い 増減が無いということは、得るものも失うものも無いということになります と同時に、質量も無い 時間、空間、質量が無いのが、ありのままの世界であると でも、それを、感覚器官で感じると、時間と空間と質量になる そして、時間、空間、質量は顛倒夢想でしかない ま、理屈では、そういうことです それでは、その「ありのままの世界」である「空」とはいったいどのようなものであるのか これ、説明したら、それは「空」ではないわけなので、厄介です ヒントは、六神通ではないかと思います 天耳通 天界の声を聞く 動物と話す など 天眼通 天界を見る 他人の過去世を見る など 他心通 他人の心の動きを知る など 宿命通 自分の過去世を知る など 神足通 遠隔地にあるものに触る など 漏尽通 自分の煩悩が尽きたのを知る など つまり、時間、空間に妨げられずに物事を感じることができたり、人や動物の心の垣根にも妨げられずに、相手の思いを感じることができる能力です これをお読みのあなたも、はっきり自覚していないかもしれませんが、多かれ少なかれ、この能力を持っています さて、「空」とは絶妙な言葉で、垣根や制限、区別が一切無い心の状態ということです で、我々は、この「空」を常に感覚器官で感じて生きています 逆に言うと「生きる」という言葉の定義は、「空を感覚器官で感じる」ということになります では、死とは 感覚器官の活動が止まりますね 肉体は失われます ですが 心は時間、空間、質量の無い世界で「空」のままです 心を澄ますと「空」が感じ

高砂ユリ

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パンテオン

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今回のイタリア旅行の最大の目的は、パンテオンをこの目で見ることでした 最初のパンテオンはB.C 25、初代 ローマ皇帝 アウグストゥス の側近の アグリッパ によって建造され、一度焼失した後にA.D118にハドリアヌスによって再建されました。 ローマ国内全ての神を等しく奉るため、内部を円形にし壁のくぼみに神々を奉り、中心の空洞部分に人間が立つ構造の神殿でした 古代ローマ人の、人間中心に全ての神を敬う世界観が表現されています これは、日本人の八百万の神々を敬う世界観にも通じる、と言えるのではないですか ローマ帝国を創った古代ローマ人は、日本人と同じ多神世界を生きていたのです 「全ての神々を等しく敬い、自分を信じる」 これがローマ帝国の精神の基本です 現代の日本人は、この精神の一番近くにいると言えますね そして、この寛容の精神が、これからの世界にどうしても必要だと思われませんか? 7世紀頃に一神教のキリスト教会に改装されてしまいました 拡大すると、現在の内部の使用状況の説明が読めます 巨大な、美しいドームを、2世紀に建造しているのです 正面はキリスト教の祭壇にされてしまっていますが、キリスト教の世界観からは、この円形ドームは生まれないのです  ドームの中央の床には小さな穴が開けられて、雨水が溜まらない工夫がされています ドームの天井中央は円形に空けられていて、空が見えます 古代の明かり取りの工夫でしょう 僕など、密教の月輪観を連想してしまいますね この神殿が、古代ローマ世界にとって極めて重要だったのが、堂々とした姿から感じられますね パンテオンの中心 http://www.chohoji.or.jp/archives/200711.htm#a イデア http://www.chohoji.or.jp/houwa/tetugaku.htm#a  

ローマ

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修復中の凱旋門 トレビの泉 スペイン広場 フォロロマーノ ベネチア広場の警察官 路地 野良猫 道路清掃車   

バチカン

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バチカン市国のスイス人衛兵  ミケランジェロのデザインです 広場 右の四角い建物が教皇の住まい  中央ドーム キリスト教建築は光の使い方が上手です 大聖堂は歴代教皇の廟所でもあります 地下に歴代教皇が眠っています  こちらは、イノケンティウス11世  ミイラ状にしてあるようです 仏教では、廟所は廟所で、お堂はお堂ですね どういう考え方だと、こういうことになるのか、考えさせられますね いちばん奥にあるのが聖ペテロの椅子 広場を出た所の土産物屋 写真を撮るなと言われましたが、聖堂内の撮影がいいんですからね 店員の愛想は、イタリアはどこでもこんな調子です  

イタリア ピサの斜塔

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ピサは城壁で囲まれています 13世紀になるまで、ジェノバやベネチアと覇権争いをしていた名残です イタリア統一は1861年ですから、それまでは一つの国だったのですね ピサといえば斜塔ですが、立派な洗礼堂と聖堂があります 洗礼堂 これが、微妙に傾いているんです 一帯の地盤がゆるいのです 聖堂と斜塔 この塔が、傾いていなかったら、世界的に有名になったかどうかは、わからないわけです 聖堂の内部   じつに立派なのです 見にくいですが、中央部に釣り下がっているのが、ガリレオが「振り子の等時性」を発見したと「言われている」灯篭です 聖堂正面 洗礼堂内部 「聖堂」「洗礼堂」「鐘楼」の配置 大きな地図で見る ここでも「聖堂」「洗礼堂」「鐘楼」で3点セットになっています 教会建築の3役ですね お寺の場合は、3役といえば「本堂」「大門」「仏塔」となります キリスト教との違いで特徴的なのは、「大門」に扉がないことですかね 長保寺 大門 キリスト教は洗礼をうけることが信仰の必要条件になりますが、仏教は門が開かれています 唯一の神を信じる立場と、諸仏諸菩薩を信じる立場の違いが、はっきりと建築様式に表現されています ピサのジェラードの屋台 イタリアでは、どこでも、やや愛想が悪いです 東洋的な微笑みは、無いですね    

フィレンツェ ウフィッツィ美術館

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ウフィッツィ美術館は内部の撮影禁止ですから、ご紹介できる画像がありません フィレンツェはルネサンス発祥の地で、レオナルド・ダビンチもフィレンツェ出身ですから、土地の雰囲気が自由だったのだろうと想像されます ウフィッツィ美術館の入り口 ミュージアムショップで買ったコップ ミュージアムショップで日本語の図録があったので買ったのですが、10カ国語くらいあったと思います とにかく図録売り場が本屋のように大規模で、笑ってしまいました それだけ収蔵品が凄いということですね ウフィッツィ美術館から眺めたベッキオ橋 フィレンツェの夕景(午後9時ごろです) 街の美しさ、という尺度を日本人は忘れてしまっていますね それがなんぼのもんじゃ、と言われそうですが、「観光」はもちろんですが、「生活の質」と結びついているように思いますね 美術館前の広場には 物乞い    観光馬車  広場のど真ん中に、なぜかゴミ収集車 のどかです  

イタリア土産

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フィレンツェのスーパーで買い物をしてみました スーパーの入り口 ホテルの向かいがスーパーです イタリアは、店舗の入り口が、日本に比べれば地味です 町の美観には、このほうがよろしいかと思いますけどね 入り口の右に坐っているのは物乞いの人です どこでもよく見かけます 中はこんな感じ スナック菓子の主流は甘いチョコレート系です 夏場、日本にもって帰れませんので、クッキー系を買ってみました どれも、けっこう固いです オリーブオイルは、棚から減っているのを選んでみました 村々で独自のブランドを作っていて、村の数だけオリーブオイルがあるといった感じです 作り方にも徹底的なこだわりがあるらしく、ワインの製造に似ていますね 棚から比較的減っていましたので、たぶん、売れ筋だと思います どれも5ユーロ位です