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12月, 2015の投稿を表示しています

金剛界大日如来坐像(平安時代)

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長保寺の国宝多宝塔(1375)の本尊です 長保寺で一番古い仏像で、現在の多宝塔よりも古く、創建当時(長保寺代、西暦1000年ごろ)のものです 台座、宝冠、光背は江戸時代のものです 長保寺 金剛界大日如来坐像(平安時代) 須弥壇は、国宝の付帯指定になっています 鎌倉時代の禅宗様を代表する須弥壇です 巴紋透牡丹唐草黒漆塗須弥壇(鎌倉時代)

蝋梅

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今年は蝋梅がよく咲いています 例年よりだいぶ早いです 蝋のような透き通った花びらで、梅のような姿なので、蝋梅(ろうばい)と呼ばれます 水仙

NHK大河ドラマ 真田丸

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「真田幸村と戦国わかやま物語」でご紹介いただきました NHK大河ドラマ「真田丸」に関連したリーフレットです 真田幸村と和歌山について紹介されています 元和元年(1615)大坂夏の陣がおこった時、14才の後の紀州初代藩主頼宣(よりのぶ)は初陣であったが合戦に間にあわず手柄をたてられなかったことを残念がる。 その姿をみた松平正綱が、「今日の合戦に間に合わなかったからといって、そんなに口惜しがらなくとも、殿はお若いから今後幾度も機会があります。その時いくらでも手柄をたてることが出来ましょう。」と慰めたところ、頼宣は正綱をにらみ、「わしに14才が2度くるか。」と言って父家康を感激させた。こうして家康の寵愛を一身にうけたと伝えられる。  藩祖 徳川頼宣 木国文化財協会・会長  西本正治 より 縹糸威胴丸具足(はなだいとおどしどうまるぐそく) 頼宣が初陣である大坂の陣で14歳の時に着用したとされるもの   紀州東照宮所蔵   「和歌山市の文化財」より 兜についている角のような飾りを「立物 たてもの」といいますが、この兜は、後ろについています 後ろに従う武将に見えるようにすることで、一番先頭を走る大将である、ということを強調した立物といえます もちろん、前から見た者は、みな打ち取られるということです

安上がりの2灯照明

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ハクバ サンクリップⅢ KCL-3 クリップの内側には0.5mmくらいの薄いゴムがはってあり、はさんだものに傷がつきにくい工夫がされています クリップは電球と大きさを比べるとわかりますが、けっこう大きいです 電球ソケットの付け根はグルグルと可動式です 電源コードの中ほどにスイッチがついています 日本製のようです ハクバの製品ページ http://www.hakubaphoto.jp/products/detail/0101930061-4H-00-00 パナソニック LED電球色 60w 好みもあると思いますが、人肌を血色よく写すのに電球色にしてみました アルミホイルとかトレッシングペーパーとかも、LEDで比較的熱くならないですから、ちょっとした撮影なら、適当に巻いて使うこともできると思います これを2灯左右で光らせます

吉宗寄進の香炉(2)

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銅鋳香炉朱漆香台  享保10年(1725) 吉宗寄進の香炉(1) 御霊殿の調度 長保寺の美術工芸品

吉宗寄進の香炉(1)

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銅鋳香炉朱漆香台   (香炉)縦21.9 横46.0 高48.5              (香台)縦45.9 横64.3 高60.3               享保10年(1725)  香炉は、鋳銅製で葵紋の金板を蓋と身の側面に貼りつけている。蓋のつまみと四脚にそれぞれ獅子の意匠を用いる。 朱漆塗の香台とともに、黒漆塗の箱に収納するようになっているが、その箱の蓋裏書によれば、将軍吉宗が享保10年に長保寺内の南竜院(徳川頼宣)の霊前に寄進した旨が記されている。吉宗は将軍に就任したため、紀州藩廟所である長保寺ではなく江戸の上野・寛永寺に葬られることになるが、この資料は将軍就任後も相変わらず吉宗が長保寺との関わりを保っていたことを示している。なお古文書によれば、この香炉は江戸から直接運ばれてきたものである。 将軍吉宗が享保10年(1725)に長保寺内の南竜院(初代藩主徳川頼宣)の霊前に寄進したものです。質素倹約をすすめる吉宗が、将軍になってから寺院になにか物を寄進したのは、この香呂だけです。吉宗にとって格別の意義のあることがわかります。 吉宗が将軍になって10年目の享保10年頃に、大赤字で引き継いだ江戸幕府の財政が享保の改革によって黒字に転換していきました。南竜院は吉宗から見て祖父にあたります。危機に瀕した幕府を立て直すめどがついたことを、尊敬する祖父に報告したのでしょう。 南竜院が紀州藩主となったのは、気性の激しさから、江戸のそばに置いておいてはいけない、という判断もあったとされています。戦国時代が終わり、手柄を立てる場を失い浪人となった武士達が起こした「由井正雪の乱」の黒幕と疑われたのも、最後の戦国大名と言われた胆力が恐れられてのことでしょう。長保寺には南竜院の墓参の時の衣服が伝わりますが、丈164.6 桁101.5 袖丈78.8とかなりの大男であったことが偲ばれます。 南竜院は徳川家康の第10子にあたりますが、家康59歳の時の子で、最も可愛がられたと言われています。関ヶ原の合戦の次の年、家康が相次ぐ合戦から解放され、家族とともに過ごすことができるようになった時に生まれました。18歳の時まで家康の手元で養育され、その生誕から成人まで、家康が晩年の持てる全てを注ぎ込ん

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長保寺寂光庭の三尊石中尊上の苔 逆光の紅葉 木蓮の越冬中の花芽 石蕗の種 睡蓮の池に写り込んだ石楠花 高砂百合の種の鞘 ヤナギトウワタ 根をアメリカ先住民が胸部疾患の薬にしたという 紅葉の木漏れ日 石蕗の種

屋根の形式

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長保寺の建造物には、代表的な屋根の形式がそろっています

雨の本堂

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二軒飛燕繁垂木(ふたのきひえんしげたるき)

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多宝塔の紅葉

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メイスンキタニさんからお歳暮

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来年の干支の猿の置物です

上御成門(うえおなりもん)の紅葉

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遠くに声が聞こえるのは、地元の有線放送です

紀伊徳川家藩主廟所

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紀州徳川家歴代藩主の御廟が、長保寺本堂裏手の山腹に、約1万坪の広さで展開しています 藩主廟所としては全国一の規模です 紀伊徳川家 初代藩主 徳川頼宣(とくがわよりのぶ)御廟(1602-1671) 和歌山藩主徳川家墓所    国指定 昭和56年5月28日  長保寺は一条天皇(986~1010)の勅願によって長保2年(1000)二品性空上人が七堂伽藍を創造し、長保の年号を賜り寺号にしたといわれている。  現存する国宝建造物の建立年代からみて、鎌倉末期には現在の伽藍は完成していたとみられる。  宗派の異動はたびたび行われていたが、寛文6年(1666)徳川頼宣の菩提所となるとともに天台宗に改め現在に至っている。   史跡和歌山藩主徳川家墓所は、このように長保寺が11世紀以来の地方有数の名刹であり、加えて紀州藩主歴代の墓所としてその規模が大きく墓碑や石燈篭とともに墓所を造成する石垣等壮麗豪華な石造遺構は全国的にも近世大名墓所の代表的なものであり、江戸時代の墓制葬制を知る上から貴重な遺跡としてその価値が認められたものである。  歴代藩主のうち、五代吉宗と十三代慶福は将軍となったため墓碑がない。  墓所の参詣堂は大門からすぐ東の小高い処に御成門があって御廟所門まで200メートルばかり坂を登り、長保寺本坊に付属する御霊殿の後方に墓所を築いている。 山の東南傾斜面一帯に点在する墓碑は28基で、そのうち12基が藩主の墓碑で、他は藩主の夫人や子息等のものである。 傾斜を切り取り石垣を築いて墓所を造成し、玉垣で囲い、石門を建て、330基に及ぶ石燈篭などすべて石材は花崗岩を使用している。12基の石碑の型式は5つの型に分類できる。 塔身の無銘の石塔は一朝有事の際の処置として墓の後方に井戸を掘り、これに石碑を埋めるしかけになっていたと伝えられる。  下津町は、この境内に歴史民俗資料館を建設し、この由緒深い名刹の文化財とともに地域の文化財保存に努めている。 この史跡徳川家墓所も歴史の散歩道として広く一般に紹介したいものである。 清文堂「和歌山県の文化財 第2巻」から 長保寺絵図面(廟所絵図)  海南市指定文化財 一幅 紙本著色 縦191.7 横214.2   江戸中期 陽照院(現在

長保寺 参道の紅葉

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平成27年12月8日の長保寺参道の紅葉の様子

大門 夕景

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長保寺 本堂内陣

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長保寺 国宝 本堂(1311) 本尊 釈迦如来 右脇侍 普賢菩薩 像座 左脇侍 文殊菩薩 獅子座 右前立 毘沙門天 左前立 広目天 長保寺の本堂は 一般の参拝者が座る前側外陣(げじん) 特別な参拝者が座る左右の外陣 僧侶と法要出仕者が座る内陣 本尊の裏側の裏堂 に仕切られています 鎌倉時代の密教式建築では一般的な間仕切り方法です 本尊は特注のLEDライトで照らしています 光の色温度を蝋燭の光に近づけてあります 厨子の中の仏像が明るく見えることは、いままでありませんでした 内陣の照明もすべてLEDライトです LEDライトは、紫外線が出ず、熱を持たず、省電力なので、これからお堂で広く使われるようになると思います

長保寺 国宝 大門

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長保寺には、本堂、多宝塔、大門と三棟の国宝建造物があります 本堂・塔・大門とそろって国宝である寺は奈良の法隆寺と長保寺だけです この大門よりも仁王像のほうが古いことが確認されています 慶徳山 長保寺 紀州徳川家の菩提寺になってから藩祖頼宣が李梅渓に命じて模写させた扁額が架けられている 付帯指定の扁額(1417)は収蔵庫に収められている 長保寺大門  附 扁額   国宝 明治33年4月7日指定  三間一戸の楼門で屋根は入母屋造、本瓦葺である。  大門は寺蔵の棟札写に記される「再営由来」によって、嘉慶2年(1388)に後小松天皇の勅宣をうけ、寺僧の実然が同年に建立したことが知られる。 縁起にはこの造営の大工が、藤原有次と記されているが、記録抜書では本堂造営の大工も同人の名が記されており、同一人とすると年代が異なり不審である。  現在、門には扁額が掲げられているが、この扁額は紀州侯の菩提寺になってから藩祖頼宣が李梅渓に命じて模写させたものであり、当初の扁額は宝蔵に収納されている。記録によれば扁額は、妙法院二品親王尭仁の真筆と伝え、裏書に応永廿四年六月一日の刻銘がある。  額には慶徳山長保寺と二行に分ち書されているが、当初は長保寺の三字のみ同様の書体で記されていたような痕跡が認められる。額面には鋲止めの痕があり、旧文字も風蝕差からどうにか辿り得る。  大門は元和7年(1621)に塔頭最勝院の恵尊が修覆、さらに天和3年(1683)2代藩主徳川光貞が修理を加えている。それ以来紀州徳川家によって、明治まで維持修理が行われていたようである。  この大門は形態のよく整った点においては代表的な楼門の一つである。  組物はもっとも正規な三手先で、3番目の斗 は尾 の上にのり、軒を受け、丸桁下に軒支輪をかけ小天井を造っている。  建物は和様を基調とした形でその細部も本堂、多宝塔に及ばないが、室町時代初期の特徴をよくあらわしている。  長保寺の入口に立つ姿はよく整い楼門中の傑作の一つである。  明治43年に解体修理が行われており、記録の不備から修理関係の詳細は明らかでないが、現状をみると、組物、軒廻りに当時の補修材が多数認められる。  清文堂「和歌山県の文化財 第2巻」より 長保寺の大門について 和中光次

室井滋さんからお歳暮

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例年のお歳暮です 今回も、作りこまれた珍しいものです 箱が2つあったので、なにかなと思いました 雲シリーズと花シリーズをお送りいただきました 手漉き和紙に型押しです 栞つきで、表紙を挟んでカバーを被せられるように、手の込んだ作りです いつも、ありがとうございます