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ほんとうの世界

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ブッダガヤ大塔 釈尊 降魔成道像 (1991年撮影 現在は撮影できません) ほんとうの世界 見えるもの、聞こえるもの、感じるもの、すべて脳の中のイメージ 各人各様、脳内イメージは必ず別々のものになる 別々だから、完全に自由で平等 記憶、信念、知識、自分という意識、など全部、脳内イメージ 国家、社会、宗教、人種、民族、習慣、家族、などは共同幻想 脳内にイメージされる前の世界が、ほんとうの世界 脳内イメージにしがみつくのをやめれば、ほんとうの世界が見える 「心」だけが、ほんとうの世界を感じることが出来る ほんとうの世界では、全ての「心」は繋がっている 繋がっているから、自分のしたことは自分に返ってくる 喜びを与えれば喜びが返り、苦しみを与えれば苦しみが返る ほんとうの世界にある、苦しみに至らない道筋を「慈悲」という 「慈悲」は 喜びを与え、苦しみを除き 喜びを与えてくれるものに感謝し、苦しみを与えるものを赦す 「慈悲」だけが、全ての「心」の共通の価値 イメージを棄て、「慈悲」を感じれば なにをすればいいかわかる「智慧」を見つける事ができる 「智慧」に導かれて「今できること」を行えば、「心」が広がっていく ほんとうの世界には「広々とした心」の先輩が沢山いる 「広々とした心」の先輩達は、未熟な「心」に「智慧」を授け、導いてくれる 死んでも「心」は無くならない 「心」は広がり続ける そして「心」は、ほんとうの世界そのものになる ソウルミラーネットワーク   我々は ソウルミラーネットワークに繋がっている 他の鏡を傷つけたつもりが、実は自分の鏡がそれを写し取り傷ついている 他の鏡を喜ばせると、それを写し取り、自分もうれしい 五感から取り入れた情報を高度に発達した脳が「自由」に解釈し、イメージを作っている イメージには間違いや妄想が含まれるので執着するべきではない イメージが作り出した世界の価値観だけで生活すると、苦痛が生じる イメージと鏡を調和させることを学んで、世界を豊饒にしている 今の人生で鏡の歴史をつくり、それぞれ永遠に続く個性ある鏡となる 「学びを終えた光」にい

金宝樹

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 名前の由来になった、黄色い花粉

ユキノシタの花

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カタバミの花

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般若心経の模式図

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般若心経 一巻 紙本墨書 縦26.0 横42.2  奈良後期(8世紀) 長保寺蔵 この経巻は、奈良時代中ごろの天平時代に書写された隅寺心経と呼ばれる一連の般若心経のうちの一巻です 隅寺 心経は現在50枚ほどが確認されていますが、世界にこれより古い般若心経は現存しません 拡大画像はこちら   隅寺心経の詳しい解説もあります 色即是空。空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき) 色(物質)はすなわちこれ空。空はすなわちこれ色(物質) 般若心経でいちばん有名なフレーズです 我々は、外界を感覚器官を通じて脳内に再構成して、再構成されたものを世界として感じています 般若心経は短いお経に、仏教の要点を書いています 色と空の関係( 色即是空。空即是 色 )   色(物質)はすなわちこれ空。空はすなわちこれ色(物質) 空の説明( 不生不滅不垢不浄不増不減) 生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず 色の説明( 五蘊・十二因縁・四聖諦は無い) 色受想行識も 色声香味触法も 無い 無明も老死も無い 苦集滅道も無い 般若心経は、要点を書いたお経ですから、結局この三つが仏教の要点だという立場です 「物の形」、「音」、「味」や「老い」や「死」、「苦しさから逃れる方法」などは、我々の脳内現象であって、感じられる前の世界には、そのようなものは無い、ということです 今、自分が死んでいなくなっても、世界が消滅するわけではありません その消滅しない世界は、我々の脳内にはないのです 色-- 見る・見られるの壁 -->空 空-- 見る・見られるの壁 -->色 これで、この般若心経の中に、自分自身が入り込みます 目の前のモニターを、今、見てますが パッと目をつぶってください 目をつぶった、その間にモニターが月に飛んでいった、などと考えてる人はいないと思います 見て無くても、モニターはそこにあります ですが 見てないんだから、どうなっているかは、本当のところ、わかりません 見てないんです それを「わかる」なんて言ったら、嘘です でも、そこに有るんです どうしても「わか

癒される瞑想の模式図

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癒される瞑想の仕方  あなたが一番信頼する光に意識を集中します リラックスして 目をつぶって ほほえんで(大事なコツです) 無条件に全てを赦し救う心を感じながら 静かに息を吸って 無条件に全てを赦し救う気持ちで 体の力を抜きながら 息をゆったり吐きます それを繰り返して 光だけになります 疲れてきたらやめて 光に感謝を伝えます かすかに微笑む     とても大事です インドに残されている仏像はどれもかすかに微笑んでいます。仏頂面という言葉がありますが、口をへの字に曲げてしかめ面をするのは瞑想の時の面構えではありません。奈良の大仏さんの顔は、威厳のあるちょっと怖い顔ですが、あれは国家の威信を示すためあんな顔をつくったのだと思います。 皆さんは、安らかな微笑みを浮かべて瞑想してください。 初転法輪の釈尊 サールナート博物館 姿勢 仏教では一般的には座って瞑想することになっていますが、これは釈尊が悟りを開いた姿が源泉になっています。しかしながら、仏教の長い歴史をひもとくと、行住座臥いろいろな姿で過去の高僧方は悟りを開いています。 阿難尊者は仏滅後の第一結集の時にまだ悟りが開けず、仲間に入れてもらえそうになっかたので、もうだめだとガックリとうなだれたところで忽然と悟りを開いたといいます。弘法大師は求聞持法を修行したとき明星が口に入ったといいますから、おそらく首を明星を見る角度まで上げています。白隠禅師は托鉢をして門前に立っていた時、無信心な婆さんに水をぶっ掛けられて、悟りを開きました。この白隠禅師の「軟蘇の法」は寝てします。キリストは荒野をさ迷い歩いて、これは座ったというのはないらしい。 悟りがひらける瞬間は、あまり姿勢とは関係ないと思いますが、長いこと瞑想しつづけるには、やはり負担の少ない方法ということで有史以前から、座って瞑想という姿に自然となったのでしょう。これが、だから、背筋を伸ばした優雅な姿勢であることが望ましいですが、姿勢が悟らせてくれるのではありません。 座る場合、右が上か左が上かで諸説あります。どうもインドの仏像、ビルマ、タイなども右が上のようです。左が上は中国に来てからかもしれません。宗派の伝統に従えばいいとし

作務

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今日も剪定作業 ツツジの剪定もしました

金環日食の動画

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金環日食を観測しました 美里天文台で、以前もらった太陽観察用に加工されたフィルムを使って観測してみました 光のリングがゆっくりと動いているのがわかります 下記のリンクで拡大してご覧いただけます http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=ikUFP3uUVb4 金環日食の時にちょうど7時半の時報が鳴りました

Quantum Sense

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詳しい説明は、「 癒される瞑想 」「 仏教の基礎知識 」「 あなたは仏教を知っているか 」「 Quantum Sense 」「 図解 般若心経 」にあります 仏教的な生活の図解です 自分を信じて、生きる道です 我々は、世界を感覚器官を通じて感じて(学習や経験)、脳内に自分の世界を作って生きています 時間や空間や自分がいるという意識は、脳内に作られたものです 目をつぶっても世界は無くなりません 感じる前の世界が、本当の世界です 本当の世界は、一つしかありません 般若心経では、感じる前の世界を「不生不滅不垢不浄不増不減」 「生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず」と説いています 西洋哲学では、 イデアを 「ものごとの真の姿」であり 判子のようなもの、エイドスを 「形」とか「図形」であり 押された刻印のようなもの、と考えています 量子(Quantum)は、 観察される前の状態では「ここである状態と、あそこである状態」が共存して重なりあっている Superposition であることが実験で確認されています 観察して始めて、位置と速度を決めることができます 仏教、西洋哲学、量子論、それぞれの基本構造を図示すると、極めて似通った構造であることがわかります 一つの物事であっても、感じる人の立場が違えば、違って見えます 地球の北側から見ている人は、南側から見ている人とは見えるものが違うのです しかし、地球は一つしかありません 我々は、自分にとって安全で利益のある物事に、特に関心をもちます 自分の生存に関わるからです もともと一つの世界を、それぞれ自分なりに解釈して生きているのです 自己中心の感じ方をすることで、様々な問題が派生することになります しかし、人間は、そうやって生きていくしかないのです 感じる前の世界を「感じる」ことができれば、癒しがもたらされます 瞑想の仕方  あなたが一番信頼する光に意識を集中します リラックスして 目をつぶって ほほえんで(大事なコツです) 無条件に全てを赦し救う心を感じながら 静かに息を吸っ

アナグマを捕獲しました

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アナグマを捕獲しました 工事現場や受付の周囲で頻繁に目撃されていました 植木鉢を掘り返したり、畑に穴を掘ったりしているのが確認されています 暗渠にかくれていたのを追い出されて、カゴで捕獲されました とりあえず、ご近所さんに公開 アナグマは人の声がしても怖がりません ネコと歩く道が似ているらしく、飼いネコと喧嘩をしているのが目撃されています あちこち掘り返すのは、ミミズをさがしているらしいのですが、作物などに悪影響を与えます 保健所では引き取ってくれませんので、どこかの山奥に放すことになります

飛行機雲

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久々の快晴ですね  

畑に苗を植えました

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海南の南方という苗屋で買ってきた苗 ナス、きゅうり、甘長トウガラシ、ピーマン、マッカ、ミニトマト2種類 こんな感じで植えていきます 奥に立ててあるのは、キュウリの支柱 ここに、あと、インゲン、オクラ、小芋、枝豆、カボチャ、トウモロコシを作ります これはマッカ(マクワウリ) ウリバエを避ける囲いを被せます これは、必ずウリバエ対策をしないとマッカは作れません やりかたは、いろいろありますが、今年はプラ製のフードを試してみます

和歌山城天守閣の設計図面

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長保寺に寄進されている非常に貴重な資料のうちの一つがやっと公開されました 和歌山城天守閣の設計図面です 存在そのものは知られていましたが、内容の仔細な検討がなされていませんでした 松岡利郎さんは、もう3年くらい前だったと思いますけれど、お尋ねくださり、資料をご自身でデジカメに撮り、ほんの数ページの論文のために、渾身のご研究をしてくださいました 資料そのものも貴重ですが、公開された論文も極めて貴重なものです ここに、記して、感謝のしるしといたします ありがとうございました 再建和歌山城天守の建築構成 松岡利郎  和歌山城郭研究第11号掲載 2012/04/01 リンクは このページ からもたどれます   頼貞隨想 和歌山城の記述があります   私は東京目黒の邸で城楼炎上を聞いて暗然とした。戦後高垣和歌山市長等心ある人々によって城楼再建の計画があることを聞かされて大いによろこんだものの、私の今の境遇ではどうともできないのが何よりも悲しかった。しかし何んとか協力する術がないものかと、いろいろ思案したあげく、先祖代々の菩提所、 和歌山県海草郡下津町の長保寺に寺内山林から伐りだした多量の戦時献木が未進のままに積まれているのを知り、これに不足分を伐りたして、城楼再建の用材にした らと思いつき、早速市県に寄附を申し込んだ、これが私のなしうるせめてもの心づくしであった。

畑に堆肥を入れました

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バークミンを25袋入れます 一面に撒きます 半分ほど耕したところ こちら側が耕し終えた部分です 終了  クボタの耕運機は途中で止まったりしないので仕事が速い  実働40分くらいです 土がホクホクになります これを、畝立して夏野菜の苗を植えます

「保元、平治の乱」の時代の念仏法要

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不断念仏式(ふだんねんぶつしき) 「保元、平治の乱」の時代に長保寺で行われていた念仏法要の記録です 最初にこの法要が行われたのは大治三年(1128)ですが、これは、法然上人がお生まれ(1133)になる5年前です 法然上人、親鸞聖人がお生まれになる前から、長保寺では念仏が唱えられていました 貴族社会が終わりを迎え、武士の武力衝突が社会を動かしていく時代になっていくわけですが、長保寺のような地方寺院は、平穏な宗教活動をしていたことが伺えます 「保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。 wiki 」 不断念仏式       一巻 紙本墨書 縦27.4 横195.8 鎌倉後期(14世紀)  長保寺における不断念仏の式次第を記したものである。  不断念仏とは円仁(慈覚大師)が五台山から比叡山にもたらしたもので、一定の期間中、僧侶が絶えることなく、阿弥陀仏を念ずる修法である。敬白文によると、長保寺においては大治3年(1128)に不断念仏が始まり延慶2年(1309)まで毎年10月に行われていたことが判明する。また、それ以降もこの修法を再整備して継続していくことが述べられている。その中で、道俗を限らず阿弥陀仏と慈覚大師に結縁して往生極楽を願っている点は、この時期の長保寺とその周辺地域における信仰を物語っており、貴重な史料と言うことができる。  なお、巻末の部分には長保寺においてこの不断念仏が大治3年に10月1日一夜の形で始まり、 保元3年(1158)には10月16日からの七日七夜に改められ 、さらに正応2年(1289)には10月11日からの七日七夜、五昼夜に改められたことが記されている。 和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より