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月天

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月とその光明を神格化した神です なんでもかんでも神だといえば、そうなんですが、密教では自然界の全てが何れかの神となって神格化されています 神様だらけ、にしては、この世にはくだらぬことが多すぎますね ただ、自然が我々に語りかけている、大自然から感動や教訓を与えられる、ということはあるんじゃないでしょうか あたかも、人格をもった存在のように 自然が語りかけるのを必死になって聞こうとして、美しい神の姿が心に浮かんだ、ということではないでしょうか 心を研ぎ澄まさなければ、精妙な神々を、感じることはないのです 月天  紙本著色 縦72.5 横34.0  桃山(16世紀)

尊形胎蔵曼荼羅図

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曼荼羅図には、尊形(そんぎょう)、三摩耶(さんまや)、種字(しゅじ)と三形式あって、これは尊形曼荼羅です 仏様の姿が描かれているのを尊形と言います 標識、今風にいうとアイコンが描かれているのを三摩耶 種字は仏の名のイニシャルが梵字で描かれています お寺に曼荼羅がある、と言う場合、この三種が胎蔵、金剛両部でそろっていて言えることです 長保寺には、全てそろっています このことからも、本山としての機能が果たせるようになっていたことがわかります ごらんの通り、かなり、ややこしく、細かく、描きこんであります 当然、意味を解釈しようとすると、非常に複雑で高度な知識がなければならず、理解できる専門家の数も限られています こういうものが尊いとされ残ったのは、曼荼羅そのものが美しいからではないでしょうか よくわからないけれど、美しい だから、残す、と 絹本著色 胎蔵曼荼羅図 (胎蔵界)縦105.5 横91.5 江戸中期(天明3(1783)年 )    通形の両界曼荼羅図で、長保寺第7世徳因(天明8年(1788)まで在職)が、長保寺の什物として京都の仏画師に描かせたもので、天明3年の箱書がある。 和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より

弘法大師画像、物語

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長保寺の深い歴史の一端をご紹介します 長保寺に現在みられる主要な建造物は鎌倉時代後期を中心に整備されています 国宝 本堂(1300)  国宝 多宝塔(1354) 国宝 大門(1388) 大門 仁王像 (1286) 長保寺木造金剛力士立像像内納入文書断簡 長保寺は鎌倉時代、高野山金剛心院の荘園で真言宗でした いま残されている主要建造物は、真言宗の時代のものです これには、当時、仁和寺と高野山金剛心院を共に管掌していた真言宗の禅助が深くかかわっています 長保寺には後宇多法皇宸筆と伝える弘法大師画像が伝えられていますが、禅助は後宇多法皇の密教の師です 禅助は後宇多法皇の師匠ですから、国師大僧正と呼ばれていました 弘法大師像    絹本著色 縦110.4 横61.1 上に書かれた跋文が後宇多法皇宸筆、開眼は国師大僧正禅助 後宇多法皇が活躍した時代(1267-1324)が、まさに、長保寺が整備されていった時期と重なるのです 後宇多上皇像( 宮内庁 蔵『 天子摂関御影 』より)wiki 後宇多法皇は、出家した後、自らの密教の最高位である地位を、よく言えば活用し、ひらたく言えば利用して、政治的立場を強化しようとしていました その後宇多法皇と結託していたのが禅助です 横内裕人 「仁和寺と大覚寺─御流の継承と後宇多院─」 山間に中規模な密教寺院が形成されるのは中世期の特徴ともいえることで多数の類例がありますが、地方の政治経済が充実しはじめ、同時に荘園制度が衰微していったここと無縁ではありません 全国的な規模で、在地の勢力が中央の権門の影響力から逃れ、力強く自己表現をし始めたのです 長保寺の場合は、地方の経済力と中央の権威が相まって伽藍の再建を行わせたと言うべきだと思いますが、後宇多法皇の意志がなければ、ここまでの伽藍整備はなかったと言えるでしょう 長保寺には建造物の他、中世期の仏像、仏画、教典など大量の文化財がほぼ完全な状態で残されていますが、中世密教寺院の代表的な史料として今後ますます重要性が認識されると思います

吉宗が描かせた廟所絵図

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300年前の長保寺の絵図面です お墓が4代藩主までしか書かれていませんから、5代藩主の吉宗が描かせたと考えられています この絵図面から、当時の細かな様子がいろいろわかります 山全体がどうも松山だったようです 50年ほど前までは、よく松茸が採れたそうです 大門を入ると、塔頭寺院が4軒あるのがわかります 本坊を入れて5軒のお寺があり、寺町とも呼ばれていました それぞれのお寺に30軒ほどの檀家がありました 本坊の檀家は徳川家だけです 今では、塔頭寺院の檀家は福蔵院へ統合し、徳川家はそのまま長保寺の檀家になっています 明治の時に、徳川家は負け戦ですから、おおきなリストラがあったのです 戦後は、農地解放もあって、長保寺は過去の栄光の面影もなく、丸裸になりました まあ、これは、どこのお寺でもいっしょですが 時代の荒波を越えて、長保寺は残りました 図面そのものは、畳2枚分くらいある大きなものです 今は軸装していますが、保管するだけでも大変ですよ 長 保寺絵図面(廟所絵図)    海南市指定文化財 一幅 紙本著色 縦191.7 横214.2 江戸中期  陽照院(現在の長保寺)の、伽藍および紀州徳川家の廟所・墓地を描いた資料である。近世の長保寺寺領については、慶長6年(1601)に浅野幸長が浜中上村の5石を寺領としたのち、寛文12年(1672)に徳川光貞から500石を加増されている。本図はその際に確定された、境内と墓地について描いたものである。藩主の墓が深覚院(第4代藩主頼職)までしか書かれていないことから、本図が作成されたのは吉宗もしくは宗直の藩主時代のことであると考えられる。江戸時代中期の長保寺の伽藍・廟所の状況を知る上で貴重な資料である。 和歌山県立博物館「吉宗と紀州徳川家」より

刺繍で描かれた地蔵菩薩

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手の込んだことをするものです これは、実物に近づいてよく見るとわかるのですが、刺繍です 絵の具で描くだけが仏画ではありません 制作する過程が、信仰生活なのです 紀州徳川家は、地蔵菩薩を特に信仰していました 多数の仏像、仏画が残されています 江戸時代の過去帳を見るとわかるのですが、子供が生まれて、そのうち成人するのが五人に一人くらいの割合です これは、大名も、町民、百姓も同じです 今でも、アジア、アフリカ、南米の奥地で同じことです 十分な医療と栄養がなければ、五人に四人は死んでしまうのでしょう 逆にいえば、女性は五人以上の子供を産めるようにできているということになります そうでなければ、人類は今まで生き残ってこれませんから・・・ 紀州徳川家の大奥の女性は、亡くなったお子さんを供養するために地蔵菩薩を熱心に信仰していました 経典によれば、地蔵菩薩の前世は光目女という女性でした 姑に徹底的にいじめられるのですが、自分をいじめ抜いた姑が亡くなったあと、悪業の報いで地獄に堕ちたと聞いて、「助けにいく」といって自殺して地獄にいくのです それほど、心根のやさしい人だったということです そして、地獄で姑を救い、自分は菩薩として地獄にとどまり、地獄に堕ちてくる亡者を救い続けています 人をのみ渡し渡して己が身は 岸に上がらぬ渡し守なり 地蔵菩薩像       一幀 刺繍 (絵画部分) 縦50.7 横29.8 室町中期(15世紀)  近年改装されて額装となっているが、元来は、表装部分まで含めて刺繍で表された地蔵菩薩の繍仏である。 現状は退色が著しいが、少なくとも七色以上の色糸を用いており、細部の表現も緻密である。  江戸後期の宝物目録に初出し、初代藩主・徳川頼宣あるいは寛文年中に徳川家から寄付と記されている。 和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より

鐘声

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毎日、朝6時と夕方5時に鐘をつきます 今のように、だれでも時計を持つようになる前は、お寺の鐘が時報で、生活になくてはならないものでした ほんの150年ほど前までの話です お寺の鐘の音が聞こえる範囲が、一つの生活共同体というか、文化圏だったと思います 長保寺の鐘は2キロ先くらいまでは聞こえますから、半径2キロの範囲ですね 人間の生来の感覚器官に依存する生活圏は、実際、その程度の広さでしょう それが、大きく変化したのは、やはり150年くらい前ということになります 今は、インターネットとか、普通に使いますが、そもそも歴史というか、実績は人類史の長さからみれば、無いも同然ですよ 情報革命の変化に、ついていけなくてあたりまえ、とも言えます あまり情報に振り回されずに、自分の地元とか、身近な所を、もっと意識して大事にしたいな、と思いますね 長保寺 鐘楼 鐘をつくときに偈文を唱えます 洪声振響覚群生  声遍十方無量土 含識群生普聞知 抜除有情長夜苦  

日天

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日天(にってん)画像です 太陽を神格化した神です 古来いろいろな姿のものが描かれていますが、長保寺の日天は右手で蓮華を持ち、華のうえに赤い日輪があり、その中に、三本足の黒い鳥?が描かれています 三本足の黒い鳥・・・八咫烏しか思い浮かびませんね 日本サッカー協会のエンブレムになって有名になりましたが ここにもいました なぜここに描かれているか・・・ 謎です 三足烏は東アジア全域で太陽の象徴とされてきましたから、どこかで繋がっているのでしょう wiki 三足烏 日天画像 部分  縦72.7 横34.0 「寄進帳」には護摩堂の什物とだけ記されているが、江戸時代の中頃にはすでに長保寺にあったことが分かり、制作年代もまた桃山時代にまで遡るものである。 和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より

黄水仙と千両

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今咲いている花

平清盛の時代の経典

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この経巻は、今NHKの大河ドラマで放送している平清盛の、まさに同時代に書写されたものです だから、おおよそ1000年前の経典ということですね 1000年前に書かれたものであっても、美しいものは美しいのです 神韻として、気迫がみなぎり、それでいて、優雅です 書いてある字の意味がわからなくても、すごいことが書いてあるのがわかりますね 法華経 紙本墨書 縦25.7~ 25.9 横813.5~1141.1 平安後期(12世紀)    妙法蓮華経すなわち法華経は、数ある経典の中でも、釈迦如来の教えの精髄が説かれているとされ、今日まで幅広く信仰を集めてきた。  本品は、雁皮紙に銀泥で界線を引き、銀の切箔を天地と紙背にちらし、雲母を全面にほどこした装飾経である。光明皇后筆と伝えられるが、奈良写経をテキストにして平安時代後期に端正に書写された上代様の代表的作品である。文中の加筆訂正は、書写時とそう隔たらない時期のものと思われるが、文の区切りを示す朱点や部分的にみられる朱の仮名書きは、鎌倉時代にほどこされたものと思われる。各巻末には、願主として片岡橘兵衛尉信隆の名がみられるが、平安時代末期に伊予守・修理大夫などを歴任した藤原信隆(1126~1179、母は橘家光女)であるかどうかは疑問であり、むしろ室町時代の人物と考えられる。  長保寺には数多くの法華経が奉納されているが、本品はその中でも年代的に最古のものである。明治の宝物目録によると、明治5年に徳川茂承が長保寺に寄付したものであるが、八巻のうち巻五および巻八は、明治18年に新調・増補されている。 和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より

自分を信じるということ

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仏教的な意味で「自分を信じる」ということについて、少しお話しします お釈迦様は80年の伝導生活をして、クシナガラで涅槃に入られたのですが、その遺言、最後の言葉が 「自灯明 法灯明」  じとうみょう、ほうとうみょう。です 自らをよりどころせよ、自然の法則をよりどころとせよ という意味になります 全然、ノーベル賞をもらった科学者が言ってもいいような言葉です なにかを信じろ、とか、王様に従え、とか、言いません ひとに優しくせよ、とも言いません 今の仏教は、阿弥陀様や法華経や観音様や御大師様など、タレントがたくさんいますが、もう、2500年もやってますからね だんだんと、増えてきてます ですが、もともとは、「自灯明 法灯明」です ややこしく考えなくても、我々は皆、自分がいいと思ったことをして生活してます 間違いもあれば、失敗もします いいと思ったことでも、よくなかったことなど、いくらでもあります 誰かが助けてくれることもあるし、教えてもらうこともありますが、なにを言ったところで、最後は自分でするしかないのです 自分で出来る範囲が、つまり、自分の人生です その自分を信じるのはいいのですが、傍から見ればとんでもない犯罪を、犯す人もいるのです なんでもかんでも、自分を信じていていいのか・・・ 世の中、バッラバラになるじゃないか・・・ それはそうなんですが、そうやって人は生きているのです 胎蔵曼荼羅図 中台八葉部分 鎌倉時代 長保寺蔵 曼荼羅は、心の展開図です 間違いを犯し、失敗する人間ですが、その間違いを悔い、失敗を反省するのも人間です 間違いから学び、失敗から経験を積み、振り返ってみれば、前に進んでいるのではないですか バランスをとろうとする力 正常に回復しようとする力 幸せを求めようとする力 そういう力が、欲望とか損得勘定とかとは別に、あるのではないでしょうか 人の心の底の、そのまた奥深くに、どうしようもなくある、智恵だと思います 智恵に素直になれるかどうか、これ、問題です ただしかし、 自分の心の中に智恵がある それを忘れちゃいけませんよ、と それが、仏教が言う

愛染明王像

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この画像も、長保寺が紀州徳川家の菩提寺になる前からある仏画です 地域の本山として機能するよう、曼荼羅に始まり、一通りの種類の仏画が長保寺にはそろえられていました 塔のある寺は「世界の中心を据える」位の意気込みをもって建立されました 中世の日本では、どこの土地が中心地になるか、混沌としていました どこにも、チャンスがあったのです 群雄割拠ですね 長保寺の今の伽藍は、中世世界特有の「世界の中心を決める」意気込みで整備されました 今なら、笑い話のようなことですが、その意気込みがわからなければ、紀伊半島の歴史はわからないのです 愛染明王像 絹本著色 縦90.1 横42.9 桃山(16世紀) 赤身一面三目六臂で、獅子冠を被り日輪を背に宝瓶の上に載る通形の愛染明王像である。密教においては五秘密菩薩の中尊・金剛サッタの所変として広く信仰された。また、敬愛・調伏を祈る愛染明王法の本尊として、独尊の画像が描かれ、類例も多い。 本図も典型的な愛染明王像で、「寄進帳」によれば、やはり和歌浦雲蓋院住職憲海が修復を奉納しており、長保寺古来の画像であったことが分かる。 和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より

天台大師像

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長保寺にある天台大師画像です 長保寺は天台宗ですから、開祖の天台大師の絵があって別段おかしくはありません しかし、長保寺はもともと天台宗としてはじまりましたが、鎌倉時代には真言宗になり、今ある本堂(国宝)・多宝塔(国宝)・大門(国宝)・鎮守堂(重文)は真言宗の時代に建てられた建造物です 江戸時代に紀州徳川家の菩提寺になるにあたり、天台に復しました 正確にいつから真言になったかは、わかっていません この絵が室町時代のものであるという和歌山県立博物館の鑑定を信頼するならば、どうも、真言宗の時代のものになってしまいます あるいは、室町よりもっと古い、鎌倉初期かそれ以前の、長保寺が元々の天台宗だった時代の絵かもしれません おなじような構図の絵が日本にもう一枚だけあるようですが、天台宗でもこの長保寺の画像が貴重で、NHKテキストの表紙になったり、天台宗典編纂所で紹介されたりしています http://www.biwa.ne.jp/~namu007/dais/dais.htm 長保寺は、もともと一条天皇の勅願寺ですから、紀州徳川家の菩提寺になる以前からの、多数の仏像と仏画が残されているのです 天台大師像   一幅   絹本著色 縦97.6 横52.4 桃山(16世紀) 天台大師智ギ(538~597)は『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』の天台三大部などを講述し、中国天台の実質的開祖として尊崇されている。  天台大師の画像の多くは、禅鎮を乗せた頭巾を被り、禅定印を結んで瞑目する姿であるが、長保寺伝来のこの画像は、脇息を前にして左手を乗せ、右手に如意を執る、説法相の大師である。  「寄進帳」に和歌浦雲蓋院第4代住職憲海(寛文12年まで在職)が修復を奉納したとあり、やはり長保寺が紀州徳川家の菩提寺となる以前から什物として釈迦堂に備えられていた画像である。 和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より

霊能力考

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感覚とか感性を大事にしてると、脳の古い部分にアクセスするようになります 動物的というか、よく言えば普遍的な部分、悪く言えば原始的部分 野生動物に人間から見れば不思議な感覚があるのに似て、人間の脳の深層に不思議な感覚を司る部分があるのかもしれないと考えています なんだかんだ言っても、どんな能力でもあるにこしたことはありませんが、つまり「霊能力」は原始的な感覚なのかもしれないということ これが顕在化して、脳の表面的な意識でコントロールされたのが「霊感」と総称されているのではないかと思います でもって、「霊能力」だけを追求しているってことになると、 原始的部分だけとのアクセスが肥大化して、つまり、人間性が動物的になります 極端に言えば 僕は、拝み屋さんがよく「キツネ」「ヘビ」を拝むのは、そのへんのことがあるんじゃないかと思ってます 「キツネ」「ヘビ」はまっとうな神様の使いなんですけど、どうも、伝統的に、神様に頼むってアプローチでなく直に眷属である彼らとコンタクトするようになるんですね で、自分も欲まみれ、眷属さんも欲まみれになっていくってパターン 業界では「仕事は速いが後は野となれ山となれだよ」とか言います 「キツネ」が大脳辺縁系、「ヘビ」が脳幹系かな まあ、 決定的に、「智慧」が欠如してる つまり、動物的 日経BP社より引用 こちら 人間の脳の内部には今でも恐竜時代と同じ部分が隠されている 爬虫類時代の脳幹の上に旧哺乳類時代の大脳辺縁系が,その上に人間特有の大脳新皮質が増築する形で巨大化してきた これは、現代のスピリチュアリズム全般に言えることですけど、その対象とする、いわゆるマーケットがですね、 「願望成就」「現世利益」 なのですよ ヒーリング、パワーストーン、前世療法、占いetc 手っ取り早く追えば、 欲望を満たすための 、従来の常識を越えたスパーツール として期待されてるわけです あるいは、従来の方法で解決できない問題の、解決への「抜け道」ですね それで、スピリチュアリズムは、現実逃避の傾向もあるんです だから悪いってことでもないんですけど、そこに、社会性というか共同体意識がですね欠如してくると、また、どうしても、欠如しやすい宿命をもってるんですけど、どうもうまくない 自分さえよけれ

ある洗脳の実話

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ある芸能人の実話です もう一昔前の話なのですが、今だにこういうことが、おおっぴらに行われておりますのでね、ご注意ください 青字は僕のコメントです 素朴に、心霊現象が無いというお立場であれば、この先は読む価値がないです 霊はいる、という立場で書いてますから ただ、だから、紳士淑女がだまされるのですよ 霊はいないはずが、心霊現象があるのですから その、心霊現象を利用した、良いここと、悪いことがある、ということを 心の片隅にお持ちいただきたいと思います カトマンズ上空から見たヒマラヤ遠望 ■心に生まれた隙 昭和5X年、B夫との9年間の結婚生活にピリオドを打ったY子。長男と長女の2人の子供を引き取り育てることとなった。 2人の子供と両親を養うため、芸能界に復帰したY子。しかし舞い込んでくる仕事といえば、キャバレーのどさ回り。そのとき偶然耳にした自分への悪口。それを聞いたY子は周囲の人すべてが自分の悪口を言っているという妄想にかられるようになる。気の進まないつらい仕事に、精神的に疲弊したY子は、酒に溺れていく。 (ネガティブな時にネガティブなものを呼び込む。誰かにすがりたいという気持ちが、悪意のある者に利用されます) ■謎の『拝み屋』との出会い 離婚から7年後。Y子のマネージャーが、神様が降りてくるという神田という不思議な女性の存在を聞かされる。彼女はなんとY子の体調を気遣う発言をしていたというのだ。 (つまり、このままではあと3ヶ月で死ぬ、などと予言に見せかけた根拠のない脅迫) 実際、当時のY子は異様な疲れ方をしており、Y子の体調を言い当てた彼女に会ってみることにした。 実はその女性、彼女は悩みのある人に、霊視や祈祷を施すことで、その悩みを解決する『拝み屋』と呼ばれる職業の人間だった。 (細々とやってたのが、思わぬ大物のカモが飛びこんだってとこでしょう) ■マインドコントロール 昭和63年Y子は、その神田という女性と初めて顔を合わせる。するとその女性は、当時Y子が抱えていた悩みや心の状態を驚くほど的確に言い当てたのだ。 (こんなことならテレビでもやってるよね) 彼女の不思議な力に次第に引き込まれていくY子。 (拝み屋さんは霊感はあるのです。だからと言って、いい人とは限らないのです) そんなあ

典型的拝み屋さん

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最近またテレビで芸能人が洗脳された話をしてる 聞いたことのあるような手口で、コロッと信じ込んでしまうのです 信じる人には、整然とした、信じるべき理由と必然性があるのです ここのところを忘れちゃいけません だから、まともな説得は、余計なお世話にしか聞こえません ここに、7年前にBlogで書いた、拝み屋の手口の一端をご紹介しときます 洗脳というほど上等なものじゃありません 大画面のテレビを大音量で見るほうが、よっぽど手の込んだ洗脳になってますよ お気をつけてください・・・ デリー国立博物館蔵 釈尊立像 「あー、あなた、なんか悩み事があるでしょ」 これを、会う人すべてに言う タクシー乗ったら運転手に、町内会にいったら隣の人に、新年会では向かいの人に、てあたりしだいに声をかける [よけいなお世話ですよ] 100人に声をかけて、話に乗ってくるのが50人です [そうなんですよ。なんでわかったの] 「私にはそういう力があるんです。人助けが使命なんです」 「家相がよくない」「墓相がよくない」 「あなたの宗派じゃだめだ。先祖が浮かばれていない」 「天の声がきこえるんです」 「人相にでているんです」 「オーラが見えます」    いろんな得意分野があります    ここのところで50人中、40人が[あほくさ]で終わります [ええっ!そうなんですか! 実はこれこれで] 「そうでしょう。もう手遅れかもしれないけど、まだ、方法があります」 [それはどんな方法ですか] 「この仏さんを拝みなさい」 ここで、残った10人のうち2人が残ります ここでは、まだ金をとりません このへんで、専門用語で言うポータルを作ります つまり、信頼関係 拝み屋さんを、信じ込ませます ちょっとしたことを言い当てたりします 前もって身辺調査をしとく、なんて単純な手口もあります [拝んだけれど、なにも変わりません] (当然です、なにもしてないんですから) 「あなたは信心が足りない。最後の手段だが、このありがたい御仏の掛け軸を買いなさい(100万円)」 これで、2人のうち、おかしな話に気がついた1人が抜けて、1人になります。100人てあたりしだいに声をかけて1人がカモになってくれるわけです 残った一人の人に対

涅槃

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今日は、お釈迦様の涅槃の日です 涅槃には、二種類あります「有余涅槃 うよねはん」と「無余涅槃 むよねはん」です 肉体を持っている状態で悟りを開くと、余すところがあって、まだ完ぺきな状態でないということになって「有余涅槃」だということになります 肉体を捨てる(つまり死んで灰になる)と「無余涅槃」で、余すところなく、悟りの状態だと 肉体があるうちは、生きることにまつわる煩悩から完全に解放されないと考えるからです 死後の世界と考えることも出来ますが、仏教では、煩悩が完全に消滅した世界を「涅槃」と考えています 普通に死んだら、煩悩に束縛された死後の世界があるのであって、「涅槃」ではありません 煩悩に束縛されている間は、輪廻転生を続けると考えられています やり残したことがあって、また生まれてきたいと思える間は、大丈夫です、生まれ変わってきますから それが、苦痛に感じるようになってくる、というのが仏教の教えです 娑婆世界は、我々の脳が作り出す世界です 各個人別々で、衝突や誤解が避けられません 感じる前の世界が涅槃の世界です お釈迦様は、クシナガラで涅槃に入られました 今では、インドの人達の憩いの場になっています 有余涅槃とポジショントーク

梵天

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お釈迦様が悟りを開いた時、あまりに難解で精妙な教えを人々に説いても理解されないだろうと考え、このまま涅槃にはいろうと(つまり死んでしまおうと)思案していました それだけ、この世を生きるのはつらく、涅槃は楽しいということです そのとき、万物の根源の神である梵天が現れ、多くの人々のなかには、教えを全く理解できない者もいるが、よく理解する者が必ずいるから、是非教えを説いて欲しいと説得します これを、「梵天の勧請」と言うのですが、この勧請のおかげで、今、我々は仏教に触れることができるのです 長保寺に伝わる梵天画像は、上のほうが黒ずんでいますが、もとは護摩堂にまつられていて、護摩の炎の煙で煤けたものです 紙に書かれていますので、だいぶ痛んでいます 今でも、行者が、法を説かずに静かに暮らそうと考えていると、梵天が現れ、行者を督励するのです 紙本著色 梵天  縦72.3 横34.0 16世紀

VILLA DEL SOL

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紀州徳川家の事跡は、今では、知る人が少なくなった これは、実は、明治政府の徳川潰し政策のためであり、薩長閥の多い旧自民党政権でも、それは受け継がれました このBlogでも書けないような話も多い・・・ 明治新政府は、徳川家と戦争をしたわけで、憎しみこそあれ親しみは感じなかったであろうから、無理からぬことです 明治になって、新政府が最も恐れたのは、徳川とその係累の復活だったと言ってよいでしょう 徳川時代の土台があればこその日本国、なのですから ま、今では、昔話になりました 長保寺は、西暦1000年、一条天皇の勅願で始まりましたら、徳川家が建立した寺というわけではありません それでも、背面の山を利用した1万坪の紀州家の御廟所があり、位牌をお預かりし、菩提寺となりましたから、徳川の栄枯盛衰と運命をともにすることになりました 明治維新からもう150年になろうとしているわけで、そろそろ、次の時代の話題に切り替わる時でしょう さて 紀州家は、明治になってから、その蔵書を南葵文庫 という図書館を建てて保管しておりましたが、その蔵書をすべて東京大学に寄贈し、建物は、今は熱海の瀟洒なホテルとして生まれ変わっています 南葵文庫 震災の翌月18日、いち早く侯爵徳川頼倫から古在総長に寄贈の申出がなされた南葵文庫蔵書 25330部、96101冊。質量ともに本館蔵書の根幹をなすもの。 VILLA DELL SOL 玄関の上で、紀州徳川家初代藩主の南龍公の馬印である三鍬形文が迎える 紀州徳川侯爵家が明治32年に東京・麻布飯倉に、日本で初の西洋式個人図書館「南葵文庫」として建てたもの。その後、取り壊される運命だったのを、伊豆山の旅館『蓬莱』がこの地へ移築。当時の雰囲気をそのまま守りながら、約7年もの歳月をかけて完全なかたちで復元した高級リゾートホテル。 現在は、星野リゾートが経営しています。 VILLA DEL SOL

心経

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般若心経です 「隅寺心経」と言われる、一連の世界最古の般若心経のうちの一枚です 奈良の海龍王寺は、都の隅にお寺があったので、隅寺と言われていました その海龍王寺で書写された般若心経を「隅寺心経」と言って、50枚ほどが現存することが確認されていますが、その全てが重要文化財に指定されています 仏教はインドで始まった世界宗教ですが、「隅寺心経」が現存する世界最古の般若心経です 唯一、一連の「隅寺心経」で重要文化財に指定されていないのが、長保寺の「心経」です 申請すれば、重文でしょうかねぇ・・・ まあ、いまさら、なんのメリットもないし・・・ だいたい1300年前のものです 江戸時代に長保寺に寄進されました 凛とした天平の息吹を感じてください 般若心経   一巻 紙本墨書 縦26.0 横42.2 奈良後期(8世紀) 般若心経とは、般若経典群の精髄を説いた経典である。本品は褐麻紙に書かれており、淡墨で界線をめぐらしている。慈覚大師(円仁)筆という伝承があるが、「隅寺心経」と呼ばれる奈良・海竜王寺で奈良時代後期初めに書写された一連の般若心経(弘法大師筆という伝承も存在する)である可能性が強い。本文中に二箇所三文字について切貼の修正が施されているが、これは書写時期をそう降らない時期のものであろう。 なお、表紙や見返しの装飾・本紙裏打ちなどは江戸時代に行われたものである。宝物目録などによれば、貞享2年(1685)に、和歌山の林道拙なる人物が、長保寺に寄進したということである。 和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より

昭和初期の行事の写真

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昭和初期、おそらく昭和20年代の写真です 後ろの建物は長保寺の本堂です 長保寺には、このような写真が多数残されています 当時は記念写真として撮影したのでしょうが、今では貴重な歴史写真ですね 行事の主催者は徳川頼貞さん 当時は、農地解放前で徳川家は安泰でした 貴族院議員を務め、戦後は日本がユネスコに加盟するのに尽力しました 頼貞随想 http://www.chohoji.or.jp/tokugawa/raitei.htm 日本にパイプオルガンを初めてもたらしたのも徳川頼貞さんです 旧東京音楽学校奏楽堂 この奏楽堂も紀州徳川家が建てたものです 今は、重要文化財になっている建造物ですが、演奏会も開かれています http://chohoji.blogspot.com/2009/07/blog-post.html 紀州徳川家は南葵育英会という日本最初の奨学金制度の組織もつくっています これは、返す必要のない奨学金です

雲竜図

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このBlogの右上にある龍の原画です 10代藩主治宝は表千家のお茶をなさっている方はよくご存じのとおり、一位様と呼ばれ親しまれています 一位様の時代は、江戸も後期となり、生活にゆとりも生まれ、また、貧富の格差の拡大した時代でもあります 一位様は、自ら茶道に精通し、別邸を建てて詩歌管弦を振興しました 茶道具も多数残されていて、お茶席で実際ごらんになった方もあるでしょう 書画も自筆の極めて高水準のものが残されています 雲竜図 一幅 絹本墨画 縦110.4 横39.5 江戸後期   10代藩主治宝は、藩の文芸・学問の発展に力をそそいだ藩主であったが、自らも画筆を取ることがあり、いくつかの作品が残されている。治宝自筆と伝えられるものである。  和歌山県立博物館「紀州徳川家と八代将軍吉宗」より

胎蔵曼荼羅図

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胎蔵曼荼羅図   縦105.2 横88.2 鎌倉時代後期(十四世紀) 曼荼羅(まんだら)ですね 仏教は紀元前500頃始まりました、このような大がかりで立派な曼荼羅が整備されたのが紀元500頃 それが、中国にもたらされたのが紀元700年すぎ 弘法大師と伝教大師が日本に将来したのがそれから100年後くらい ですから、曼荼羅は、お釈迦様生誕後1300年ほどしてから、日本に来たことになります インドでは、金剛界曼荼羅は南インド、 胎蔵曼荼羅は北インドで信仰されていて、中国でも別々に信仰されていました また、インドに行くとわかりますが、実に様々な得体の知れない曼荼羅が、今でも作られ続けています まあ、仏さんを並べて描けば、それで曼荼羅の一丁上がりです その、一種混沌とした状況を、神僧達の運命的な出会いと天才的な洞察力で、整理整頓して、エッセンスのような洗練された曼荼羅だけが残されていきました

金剛界曼荼羅図

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長保寺は、西暦ちょうど1000年(長保2年)に始まりましたから、今年で1012年目の寺ということになります  それだけ長く継続していますので、仏像・仏画など非常に多数の文化財が残されています ホームページですでにご紹介しているものを含め、このBlogでも、ご紹介していこうと思います 仏画類は、現在は和歌山県立博物館に寄託され、厳重に管理されています 数百年前の古い物は、実際に出してお寺のお堂で礼拝するのは事故の恐れがあり、困難です 普段は、巻かれて博物館の収蔵庫に収蔵されていますが、広げてまた巻くだけで、古い絵画は痛むのです 実物をご覧いただくのは難しい、というのが現実ですね 古い物は、見るだけでもなかなかチャンスがありませんから、博物館で展示されることがあれば、是非見ておいてください これから、ますます、本物を見る機会が少なくなると思います この曼荼羅の上の方が、やや黒ずんで見えるのは、礼拝する時使う、ロウソクの煤のせいです 実際に、煤で黒ずむほど長時間拝まれていたということですね 金剛界曼荼羅図    縦105.2 横88.2  絹本著色 鎌食後期(十四世紀) 両界曼荼羅図は、密教寺院の堂塔内に左右一対で置かれるのが通例で、真言密教の根本経典である両部大経(金剛項経・大日経)の説くところを図化したものである。 これは、弘法大師空海の師・恵果が八世紀に金剛界法・胎蔵法の両部を受法し、初めて描かせたものと言われる。延暦二十三年(804)入唐した空海は、恵果に師事しての帰国にあたって唐の画工李真ら描くところの両界曼荼羅を授けられ、我が国に初めて請来している。この空海請来の両界曼羅図の原本(現図曼茶羅)は早くに損傷して失われたが、真言宗の根本曼荼羅として転写され、平安時代初期のものは極めてまれであるが、各時代の作品が数多く伝世している。 長保寺に伝来する両界曼荼羅は四対であるが、この双幅が最も古く、真言系の曼荼羅と考えられ、描線が幾分か太く単調になり画絹の目も粗いことから、鎌倉時代後期(十四世紀)に位置づけられる。 「寄進帳」によると、和歌浦雲蓋院の第四代住職憲海(寛文十二年まで在職)が修復を加えており、同様の由緒を持つ数件の仏画とともに紀州徳川家菩提寺となる以前から長保

ネットの使い分け

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僕は今、ホームページと http://www.chohoji.or.jp/ Blogと http://chohoji.blogspot.com/ Face bookと https://www.facebook.com/chohoji Twitterを一人でやってます https://twitter.com/ chohoji ホームページは、全て、僕の手作りです、1996年からやってますから、インターネットが日本で始まった時からです 中学校の義務教育でインターネットを教えるようになった時、僕は2年間、先生方に教えに行きました 僕より前にやっている人はいなかったのです そのときに、中学生だった僕の長男が、もう社会人になりました (だから、20代なかば以下の世代は、必ずネットができます) 画像は、フィルムスキャナでネガから起こして、コダックのフォトCDに焼きました それを、大阪まで電話して、最初はNECがやっているMESHしかなくて、そこにモデムで接続して、PCバンで作ったのです ホームページの背景は、ある大会社の大がかりなスキャナで特別にお経の字をスキャンしてもらって、いまでもそれを使い続けています 最初は、オタクの趣味だったのですよ ネットがどうなるか、いろいろ言う人はありましたが、はっきり言って、誇大妄想か、営業トーク位にしか思っていませんでした 100万人の人が使えば新聞の見出しに出ると言われていて、それがニュースになったりした時代ですよ 今、ネットがどうなっているかは、むしろ皆さんの方が詳しいでしょう さて、それで、今僕がやっている四つのページを、使い分けられるんじゃないかと考えてるわけです ホームページは、年間20万人の人が訪れる、隠れた人気ページですw 検索された言葉は上位に来ますが、とにかく、最初からやってるんですから、自動的に上位の検索ワードになりますよね それで、いつまでも人気が保たれています 僕としては、レオナルドダビンチがモナリザを手元に置いて、いつまでも筆を入れ続けたように、ちょこちょこと手を入れて、これは、ライフワークですね 天台宗の本山よりも奥深いですよ なにせ、1500ペー

プラス思考

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よく聞く言葉です いまさら、説明される必要はないです ただ、これ、なるほどと思ったのは Youtubeについている、このボタン 「いいね」と「だめだ」と両方ついているのです まあ、これが評価というものです しかし、考えてみると、これこそ、荒らしや炎上の理由なのではないでしょうか Face bookはご承知のとおり この「いいね」ボタンとコメント欄があります 「だめだ」ボタンは、ないのです それで、Face bookを見ていると、「いいね」ボタンを押すところを探すようになります 自動誘導されているのかもしれません 「だめだ」ボタンがないので、だめなら、コメントを考えて書かなければなりません これ、なんでもないことのようですが、実は、Face bookが大成功した理由なんじゃないでしょうか 長所を指摘するのは簡単で、つまらなければ、スルー 深く考えることもないようなのですが、日本人に、なかなかこういう発想はないんじゃないかと思います

広目天

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広目天立像(江戸時代) 長保寺本堂(国宝)の厨子の左側にまつられています こういう仏像は、文化財指定されると、文化財法で収蔵庫に入れるよう勧告されます 拝めなくなるということで、わざわざ指定をうけずにいる仏像が全国に多数あります この像は未指定ですが、まあ、国宝のお堂の仏像ですからね、それなりの価値があると言っていいと思います 座高が150cmくらいかなぁ 玉眼といって、眼は玻璃(はり、今の言葉でクリスタルガラスですね)でできていて、ギラギラ光って、迫力があります 広目天の右手は巻物を持っていますが、この巻物は、我々のしている、善悪こもごもの行いを全て書いて、記録しています あなたが、きのうの晩御飯なにを食べたかも、ちゃんと書かれていますw この写真もIphone4sで撮ったんですよ 撮ってきて、Iphone4sをパソコンの横に置いとくと、クラウドで、ちゃんとパソコンのフォルダーに入ってます デジカメ、いらんとは言いませんが、時代は超スピードで変わりますね

Face book

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Face book初めました、と言いたいところですが アカウントがあったのを発見しました 新しく登録するつもりが、どうしてもうまくいかないので、調べて見たら、持っていました https://www.facebook.com/chohoji 2011年の2月に登録したものです 最初の頃は、やってる人が全然いなくて、ほったらかしになって、忘れていました 地元の方達を中心に友達登録させていただこうと思っています AmazonもYahooもGoogleもTwitterも、始まったころは、こんなに盛り上がるとは、全然思っていませんでした アメリカのやることは、なんなんでしょう 戦略性があるというか、ワールドワイドになっていくというか、日本のサービス産業と全然違いますね 本堂の毘沙門天 Iphone4sで撮影しました よく撮れますね

那智で豆まき

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今日は一日、那智で節分の祈祷をしました 那智ではソフトバンクがつながりにくく、自宅に戻ってから投稿しています この写真は朝5時からの勤行の準備をしているところです 一般の信者さんは、朝7時から祈祷が始まりますが、僕らは5時には勤行をします 前夜からの雪で屋根が白くなっています 温暖な那智では珍しいことです

ホモサピエンスの教え

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お釈迦様は、人間です ホモサピエンスであったことは間違いありません お父さんはシュッドーダナ、お母さんはマヤ 奥さんがいて、ヤショーダラ、息子がラーフラ 亡くなったあと荼毘にふされ、遺骨は仏舎利として、インドのデリー国立博物館で拝観できます 僕は、もう何回も拝観させていただきました 仏舎利 お釈迦様は、人間として、世の無常を苦悩し、出家し、悟りを開き、問題を解決しました イエスキリストは、マリア様が処女で受胎したのですよね だから、厳密な意味でホモサピエンスの範疇に入るか微妙です むしろ、神と人とは、画然とした違いがあるというのがキリスト教の立場であって、ホモサピエンスだと言われちゃ困るのかもしれません イスラムのアラーとは、アが呼びかけで、ラーが神で、「神よ」という意味だそうです ムハンマドが大天使ガブリエルから啓示をうけて、それを人々に説いたのが、今のイスラムです 神が直接しゃべったんじゃありません だから、神は、最初から、人間じゃありません ですから、人間でない存在が説いた一神教的な神という存在の理解からすれば、仏教は宗教じゃありません 哲学です 序列的に言えば、ソクラテス、プラトン、孔子、釈迦、は偉大な人間 という並びになりますね で、ローマのパンテオンですけど パンテオン平面図 紀元126年 http://en.wikipedia.org/wiki/Pantheon%2C_Rome 周りの壁面にローマ帝国の神々が並び、真中は空洞でした (現在は、キリスト教の教会になっちゃいました) ローマ帝国の時代、すべての神々は平等に処遇されていました そして、真中の人間の、ソフィア、智慧を信じていたのです 仏教的に言えば、そのまた人間の智慧の根底にある仏性を信じるのです これ、専門的に学術的にいうと、かなり高度な問題になります 仏性は、つまり、つまんで持てるような物体じゃありませんので、根拠を出すとなると、おおごとなのです で、とにかく、壁に並ぶのは、人間じゃないそれ以上の存在 真中に人間がいて、それらを崇めると じゃ、お釈迦様をあてはめるとしたら、どこに来るのか うーむ、難しい問題になってきます どうも、壁に並べてもらえ

スライドショー

Quantum senseのスライドショーを作成しました Ipadで説明するときに使えるようにするためです こちらでもご覧になれます https://show.zoho.com/embed?id=1288553000000004015&SLIDE=1&P_STIME=0