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2012/12/03

光のかけら


早朝の長保寺境内



=光のかけら=

僕らの心は 
感じあい、影響しあい 
時空の無い世界の中で繋がっている 

鏡のように照らしあい 
他の心を傷つけると、それを写し取り、自分の心が傷つく
他の心を喜ばせると、それを写し取り、自分もうれしい 

自由な心は、妄想と執着をつくり 
救いの可能性もつくりだす 

延々と終わりのない応酬が続く 

かすかな「慈愛の感触」に導かれながら、長い長い旅を続け
喜びや多くの困難を通じて「慈愛の心」を学ぶ 

そして、「次元の違う感触」に出会ったとき 
全てを理解し、全てが赦される 

いつの日か、学びを終えた光になって、光の中で生きる
 

 

2012/11/22

癒される瞑想の模式図


癒される瞑想の模式図
見える、聞こえる、感じるなど、感覚器官でとらえた印象が脳内イメージになって、世界を認識しています
脳内イメージは、各人各様、すべて独自のものになります
しかし、感じる前の世界は、たった一つしかありません
生滅も垢浄も増減もない、時間と空間のない完全無欠な世界です

自分が感じた世界は、自分だけのものです
感じる前からある、ありのままの世界とは違います
自分の作り出したイメージに捉われることを、我執と言います
苦しみや悩みは、自分がいる、という我執が根本原因です

感覚器官で感じる前の、ありのままの世界そのものが、自分というフィルターが介在しない、真実の世界です
今自分が感じている、苦しみや悩みが、全くない世界です
苦しみや悩みを救う力は、感じる前の世界にあります
その力に気づくのを、悟り、と言います
わがこころ、吾心ですね

見る側の我々と、見られる側の世界との間には壁があります
この壁を超えるのが「慈悲の感触」です
ここでは、光と言っておきます
「慈悲の感触」だけが至高の心に繋がっています
あなたが、全力で誰かのために働く時、自分自身の中にある、至高の心に出会えます


普段は感覚器官によって切り取られた、自分の脳内世界を自分自身であると思い込んでいるのですが(つまり我執)、実際の自分自身は感じられる前の「至高の心」そのものなのです(これが悟り)
心の重点を、私利私欲に置けば、迷いの世界が深まり
利他公益に置けば、「至高の世界」に直結する、と単純な理屈です
実は、「至高の世界」に気づけば、「死」の意味も変わる、ということですね



癒される瞑想の仕方 

あなたが一番信頼する光に意識を集中します
リラックスして
目をつぶって
ほほえんで(大事なコツです
無条件に全てを赦し救う心を感じながら
静かに息を吸って
 
無条件に全てを赦し救う気持ちで
体の力を抜きながら 息をゆったり吐きます
それを繰り返して
光だけになります
 
疲れてきたらやめて
光に感謝を伝えます





2012/05/31

ほんとうの世界


ブッダガヤ大塔 釈尊 降魔成道像
(1991年撮影 現在は撮影できません)







ほんとうの世界

見えるもの、聞こえるもの、感じるもの、すべて脳の中のイメージ

各人各様、脳内イメージは必ず別々のものになる

別々だから、完全に自由で平等

記憶、信念、知識、自分という意識、など全部、脳内イメージ

国家、社会、宗教、人種、民族、習慣、家族、などは共同幻想

脳内にイメージされる前の世界が、ほんとうの世界

脳内イメージにしがみつくのをやめれば、ほんとうの世界が見える

「心」だけが、ほんとうの世界を感じることが出来る

ほんとうの世界では、全ての「心」は繋がっている

繋がっているから、自分のしたことは自分に返ってくる

喜びを与えれば喜びが返り、苦しみを与えれば苦しみが返る

ほんとうの世界にある、苦しみに至らない道筋を「慈悲」という

「慈悲」は
喜びを与え、苦しみを除き
喜びを与えてくれるものに感謝し、苦しみを与えるものを赦す

「慈悲」だけが、全ての「心」の共通の価値

イメージを棄て、「慈悲」を感じれば
なにをすればいいかわかる「智慧」を見つける事ができる

「智慧」に導かれて「今できること」を行えば、「心」が広がっていく

ほんとうの世界には「広々とした心」の先輩が沢山いる

「広々とした心」の先輩達は、未熟な「心」に「智慧」を授け、導いてくれる

死んでも「心」は無くならない

「心」は広がり続ける

そして「心」は、ほんとうの世界そのものになる







ソウルミラーネットワーク 
我々は
  • ソウルミラーネットワークに繋がっている
  • 他の鏡を傷つけたつもりが、実は自分の鏡がそれを写し取り傷ついている
  • 他の鏡を喜ばせると、それを写し取り、自分もうれしい
  • 五感から取り入れた情報を高度に発達した脳が「自由」に解釈し、イメージを作っている
  • イメージには間違いや妄想が含まれるので執着するべきではない
  • イメージが作り出した世界の価値観だけで生活すると、苦痛が生じる
  • イメージと鏡を調和させることを学んで、世界を豊饒にしている
  • 今の人生で鏡の歴史をつくり、それぞれ永遠に続く個性ある鏡となる
  • 「学びを終えた光」にいつも助けられている
  • いつか「学びを終えた光」になる
  • 自分の中にあるソウルミラーネットワークを感じることが大事です






Life of quantum sense

僕らの心は
感じあい、影響しあい
時空の無い世界の中で繋がっている

鏡のように照らしあい
他の心を傷つけると、それを写し取り、自分の心が傷つく
他の心を喜ばせると、それを写し取り、自分もうれしい

自由な心は、妄想と執着をつくり
救いの可能性もつくりだす

延々と終わりのない応酬が続く

かすかな「慈愛の感触」に導かれながら、長い長い旅を続け
喜びや多くの困難を通じて「慈愛の心」を学ぶ

そして、「次元の違う感触」に出会ったとき
全てを理解し、全てが赦される

いつの日か、学びを終えた光になって、光の中で生きる






心を開いて

目に見える前の光を見てごらん 
耳に聞こえる前の音を聞いてごらん
皮膚に感じる前の感触を感じてごらん


そこにあるのは

時間も空間もない

完全な自由



そこにあるのは

全てを受け入れ

全てを許し

全てを理解する
広大な心



そこに行けば

全てが見え

全てが聞こえ

全てが感じられる



そこに行けば

全ての苦しみ

全ての嘆き

全ての喜び
全ての至福
全ての想いが感じられる



そこには

輝く者達がいる

あなたを見守る者達がいる



あなたを待っている者達がいる












人は過去世の業を背負い生まれてくる
過去の全ての結果が、「今」に凝縮している
過去の全ての責任を、今とらされている
今ある絶望と苦悩は、過去の集大成だ
「今」は過去の結末なのだ 
だけど
「今」は未来の始まりだ
「今」心を変えれば、「今」から未来は変わり始める
過去は過ぎ去ってしまい、未来はまだ来ていない
あるのは「今」だけだ
変えることができるのは「今」だけだ
生きることができるのは「今」だけなんだ
今、絶望・恨み・怒り・愚痴・無力感にひたるのか
今、感謝・希望・夢・目標を持つのか
今を大切にしよう
今を真剣に生きよう

今だけでいい
出来る限りのことをしよう



2012/05/25

般若心経の模式図


般若心経 一巻
紙本墨書 縦26.0 横42.2  奈良後期(8世紀) 長保寺蔵

この経巻は、奈良時代中ごろの天平時代に書写された隅寺心経と呼ばれる一連の般若心経のうちの一巻です
隅寺心経は現在50枚ほどが確認されていますが、世界にこれより古い般若心経は現存しません
拡大画像はこちら 隅寺心経の詳しい解説もあります



色即是空。空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)
色(物質)はすなわちこれ空。空はすなわちこれ色(物質)

般若心経でいちばん有名なフレーズです

我々は、外界を感覚器官を通じて脳内に再構成して、再構成されたものを世界として感じています



般若心経は短いお経に、仏教の要点を書いています

色と空の関係( 色即是空。空即是 
色(物質)はすなわちこれ空。空はすなわちこれ色(物質)

空の説明(不生不滅不垢不浄不増不減)
生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず

色の説明(五蘊・十二因縁・四聖諦は無い)
色受想行識も色声香味触法も無い
無明も老死も無い
苦集滅道も無い

般若心経は、要点を書いたお経ですから、結局この三つが仏教の要点だという立場です


「物の形」、「音」、「味」や「老い」や「死」、「苦しさから逃れる方法」などは、我々の脳内現象であって、感じられる前の世界には、そのようなものは無い、ということです

今、自分が死んでいなくなっても、世界が消滅するわけではありません
その消滅しない世界は、我々の脳内にはないのです



色--見る・見られるの壁-->空
空--
見る・見られるの壁-->色
これで、この般若心経の中に、自分自身が入り込みます

目の前のモニターを、今、見てますが
パッと目をつぶってください

目をつぶった、その間にモニターが月に飛んでいった、などと考えてる人はいないと思います
見て無くても、モニターはそこにあります
ですが
見てないんだから、どうなっているかは、本当のところ、わかりません


見てないんです
それを「わかる」なんて言ったら、嘘です
でも、そこに有るんです

どうしても「わからない」、でも、そこに有る
それが空です






赤枠が効能書き
緑枠が空と色の説明
青枠は呪です

般若心経で、呪は2種類説かれています
般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)の(精神統一の意味)、と
呪を説いていわく、の(呪文の意味)

向こう岸に至る智慧(呪)は、よく一切の苦を除く(説明です)

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソウギャーテー、ボージソワカ
(呪をとなえる、実践方法です)


これは、お経によって定義されたルールですから、茫漠とした空の中から「向こう岸に至る智慧」が呪によって選択されて現前します



自分の眼でとらえた影像としてのモニターは「顛倒した夢想」です
本当のモニターは「空の中」にあります

壁は無くなりませんが、実は、「影像」と「本当の姿」は繋がっています
なぜなら、「影像」も「本当の姿」の一部だからです
「空の中」に住む観自在菩薩によって説かれる呪によって「影像」と「本当の姿」は繋がっています
呪が見る見られるを繋いでいます
繋がっていますから、一気に、スッキリ、全てが解決します



参考リンク
般若心経は、空について説かれています
哲学的な空についての説明もありますが、実際は、哲学が知りたくて般若心経を読む人はほとんどいないでしょう
読誦して功徳がある、霊験がある、ということを目的に唱えられています

なんにもなければ、とっくに廃れてます
その霊験の引き金が呪です
空ということを言えば、たとえば、地球の裏側の人たちから見れば、我々の存在は空の中です

見る、聞こえる以前の世界の総称が空ですから、漠然と、広すぎる概念です
で、その空には整然とした秩序があり、ルールに従えば、空の中から実際的な力を取り出せる、というのが密教です

主たる方法が、呪です
般若心経によれば、呪には2種類あり、それは「精神集中」と「呪文」です
それで、般若心経を読誦すれば、「精神集中」と「呪文」により、霊験がある、と
呪が仏によって定義され示されたから、間違いなく空の中から約束された力を取り出すことができます
それで、もう2500年にわたって読誦され続けているということですね
 









2012/05/22

癒される瞑想の模式図



癒される瞑想の仕方 

あなたが一番信頼する光に意識を集中します
リラックスして
目をつぶって
ほほえんで(大事なコツです)
無条件に全てを赦し救う心を感じながら
静かに息を吸って
無条件に全てを赦し救う気持ちで
体の力を抜きながら 息をゆったり吐きます
それを繰り返して
光だけになります
疲れてきたらやめて
光に感謝を伝えます


かすかに微笑む  とても大事です
インドに残されている仏像はどれもかすかに微笑んでいます。仏頂面という言葉がありますが、口をへの字に曲げてしかめ面をするのは瞑想の時の面構えではありません。奈良の大仏さんの顔は、威厳のあるちょっと怖い顔ですが、あれは国家の威信を示すためあんな顔をつくったのだと思います。
皆さんは、安らかな微笑みを浮かべて瞑想してください。



初転法輪の釈尊 サールナート博物館

姿勢
仏教では一般的には座って瞑想することになっていますが、これは釈尊が悟りを開いた姿が源泉になっています。しかしながら、仏教の長い歴史をひもとくと、行住座臥いろいろな姿で過去の高僧方は悟りを開いています。
阿難尊者は仏滅後の第一結集の時にまだ悟りが開けず、仲間に入れてもらえそうになっかたので、もうだめだとガックリとうなだれたところで忽然と悟りを開いたといいます。弘法大師は求聞持法を修行したとき明星が口に入ったといいますから、おそらく首を明星を見る角度まで上げています。白隠禅師は托鉢をして門前に立っていた時、無信心な婆さんに水をぶっ掛けられて、悟りを開きました。この白隠禅師の「軟蘇の法」は寝てします。キリストは荒野をさ迷い歩いて、これは座ったというのはないらしい。
悟りがひらける瞬間は、あまり姿勢とは関係ないと思いますが、長いこと瞑想しつづけるには、やはり負担の少ない方法ということで有史以前から、座って瞑想という姿に自然となったのでしょう。これが、だから、背筋を伸ばした優雅な姿勢であることが望ましいですが、姿勢が悟らせてくれるのではありません。
座る場合、右が上か左が上かで諸説あります。どうもインドの仏像、ビルマ、タイなども右が上のようです。左が上は中国に来てからかもしれません。宗派の伝統に従えばいいとしておきます。
ただこの瞑想は座るのなら加持を得るため密教式に右を上にしてください。



見える、聞こえる、感じるなど、感覚器官でとらえた印象が脳内イメージになって、世界を認識しています


脳内イメージは、各人各様、すべて独自のものになります



しかし、感じる前の世界は、たった一つしかありません

滅も垢浄も増減もない、時間と空間のない完全無欠な世界です




感じる前の世界には、生じることも滅することも、垢つき汚れることも清浄なることも、増すことも減ることも無く、一でも異でも常でも断でも去でも来でも無く、「完全な秩序」があります


しかし、自分の感覚器官を通じて、脳内にイメージを構成する時、「歪み」が生じます

妄想、誤解、間違い、思い込み、見落とし、などが生まれます




瞑想によって、歪みのない世界に触れ、バランスを取り戻し、素直で冷静な気持ちになります

悩みを解決し、窮地を救い、行き詰まりを打開する「慈悲と智恵」が自分の中から生まれます


自分が感じた世界は、自分だけのものです


じる前からある、ありのままの世界とは違います



自分の作り出したイメージに捉われることを、我執と言います



苦しみや悩みは、自分がいる、という我執が根本原因です






感覚器官で感じる前の、ありのままの世界そのものが、自分というフィルターが介在しない、真実の世界です


自分が感じている、苦しみや悩みが、全くない世界です



苦しみや悩みを救う力は、感じる前の世界にあります



の力に気づくのを、悟り、と言います

わがこころ、吾心ですね





見る側の我々と、見られる側の世界との間には壁があります


この壁を超えるのが「慈悲の感触」です

ここでは、光と言っておきます



慈悲の感触」だけが至高の心に繋がっていま



あなたが、全力で誰かのために働く時、自分自身の中にある、至高の心に出会えます




身近な表現で言えば、理想だけ追求してもダメで、現実だけ重視してもダメなんです

理想と現実、両方あるのが人生です




理想だけ求めて他人を非難し、欠点を探しても、なにも解決しません

現実の利害得失だけ求めても、出口のない堂々巡りが続くだけです



理想でもない、現実でもない、なにが重要なのかというと、慈悲ではないです



誰かのために働く時、本当の力が湧き上がります



それを仏教では「慈悲」と言っていま




2012/05/20

Quantum Sense


仏教的な生活の図解です
自分を信じて、生きる道です



我々は、世界を感覚器官を通じて感じて(学習や経験)、脳内に自分の世界を作って生きています
時間や空間や自分がいるという意識は、脳内に作られたものです

目をつぶっても世界は無くなりません
感じる前の世界が、本当の世界です
本当の世界は、一つしかありません


般若心経では、感じる前の世界を「不生不滅不垢不浄不増不減」
「生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず」と説いています


西洋哲学では、イデアを「ものごとの真の姿」であり判子のようなもの、エイドスを「形」とか「図形」であり押された刻印のようなもの、と考えています


量子(Quantum)は、観察される前の状態では「ここである状態と、あそこである状態」が共存して重なりあっているSuperpositionであることが実験で確認されています
観察して始めて、位置と速度を決めることができます


仏教、西洋哲学、量子論、それぞれの基本構造を図示すると、極めて似通った構造であることがわかります


一つの物事であっても、感じる人の立場が違えば、違って見えます
地球の北側から見ている人は、南側から見ている人とは見えるものが違うのです
しかし、地球は一つしかありません


我々は、自分にとって安全で利益のある物事に、特に関心をもちます
自分の生存に関わるからです
もともと一つの世界を、それぞれ自分なりに解釈して生きているのです


自己中心の感じ方をすることで、様々な問題が派生することになります


しかし、人間は、そうやって生きていくしかないのです


感じる前の世界を「感じる」ことができれば、癒しがもたらされます

瞑想の仕方 

あなたが一番信頼する光に意識を集中します
リラックスして
目をつぶって
ほほえんで(大事なコツです)
無条件に全てを赦し救う心を感じながら
静かに息を吸って
無条件に全てを赦し救う気持ちで
体の力を抜きながら 息をゆったり吐きます
それを繰り返して
光だけになります
疲れてきたらやめて
光に感謝を伝えます




理想を語ることも大事です
現実を無視することもできません

理想や空理空論を追うのでもなく、利害得失だけを考えるのでもありません
誰かのために働く時、本当の力が湧き上がります

それを仏教では「慈悲」と言っています

2012/01/16

癒される瞑想

「光の瞑想」を「癒される瞑想」と、名称変更しました


「光の瞑想」だと、どうもこの、瞑想と自分との関係性が、人ごとのようで、それはそれで、全然間違っていないし、説明としては十分なのですが、語りかけてこない
ただ、「癒される瞑想」と名付けてしまうと、単なる、健康法の一部のような意味の限界が出来てしまう
それはそうなのですが

先ず、健康になって、それから先は、それから先のことで進めばいいじゃないかと、幅広く考えることにしました

それと、一番の理由は、癒される働きかけがある、という感触がない瞑想は、どこに連れて行かれるかわからない瞑想になりかねないからです
僕は「慈悲の感触」ということをずっと言っているのですが、はっきり言って、慈悲の無い神様もいるからね
一筋の糸のように、切れ目無く、慈悲の感触がなければいけません

自然霊などには、人間の生死に無頓着なのもいらっしゃいますから
どんなに位の高い自然霊であっても、やさしくないと、だめじゃん

神秘体験とか、心霊現象とか引き起こす瞑想もありますが、慈悲の感触を無視するなら、慈悲の無い世界にいけるかもしれませんので、心の準備をしたほうがいいですよ

また、禅でいう、無、とかは非常に高い境地なのですが、ターゲットをつくっちゃいかんという世界ですので、とっつきにくいのです

間口広く、奥深く
「癒される瞑想」は、健康法にもなりますが、それ以上の境地にもいけますので、とりあえず、参考にしてみてください

2012/01/06

トンレン


トンレン
チベット仏教の瞑想法のことです

具体的にどんな物かご興味がある方は、wikiなどでお調べください
別名、慈悲の瞑想

他者の苦しみを、自分自身のこととして「引き受ける」系の瞑想です
ダライラマは毎日してるそうです

全く、なんの前提も準備もなく、してはいけませんね
修行の完成した、徳の高い高僧がする瞑想ですね

密教に三平等観があって
「我とホトケと平等
ホトケと衆生と平等
故に、我とホトケと衆生と平等平等なり
故に、真言行者座を立たずして一切の仏事を成す」
と、おおざっぱに言うとこうなるんですが

実際は
「我はこれ、本不生不可得なり
仏はこれ、本不生不可得なり 」と
本不生不可得を間にはさみます
ぶっちゃけ言いますと、どっちにしても、常人にすぐできる瞑想ではありません

知識として三平等観というものがある、と知っていただければいいのです
実際、日本でこの観法をしてるのは、高野山の、あるところの責任者だけです(言っちゃいけなかったと思う)
経験的に、徳が高くなければ出来ないことがわかっていますから、秘密にされています

おまけに言いますと、チベット仏教の瞑想を始めたら、チベットの霊界とつながりますから、もう帰ってこれなくなる可能性が高いですよ
チベット仏教については、世界的に最高の評価が与えられているのですが、中国共産党には負けたわけで、お忘れ無く
玉石混交で、本物もありますが、トンデモもかなり混じってます
ヒンドゥーのブラックが混じっているのです
ダライラマは、そこのところは解っていると思いますが、まあ、立場上言えないでしょう
それと、政教一致思想ですので、宗教上の質問をしたら、外務省に聞いてくれなんてのは、実際あります
チベット人がひどい目にあっているというのと、チベット仏教と、ごちゃごちゃにしたらいけない、ということです

僕の後輩に、ある、その道では有名なチベット専門家がいるのですが、日本人にない、宗教への真摯さに惹かれるんでしょうね
チベット人は、祈りで敵に勝つと、まっすぐに信じて、軍事力など全く顧みないなんてことを本気でします
結果、共産党に国を盗られましたが

そういえば、僕は大学で、リンポチェにチベット語を少し習いました
リンポチェというのは転生ラマのことで、坊さんとして転生を続けている高僧のことです
チベットには、実際、たくさんいます
僕の習った先生は、チベット語、ヒンドゥー語、英語、日本語がぺらぺらで、やっぱり、神秘的に頭が良い方でした

本当のことを言いますと、日本人でも、大きなお寺や、由緒あるお寺には、いるんですよ
わからんかな



これは、ブッダガヤの近くで撮った写真ですけど
チベット仏教の小僧さんの遠足ですかね
こうやって、小僧さんから初めて、教育を受け、生涯独身を通し、修行を続け、お坊さんになります

日本の葬式しかしない坊さんは、勝てないと思うよ

で、ま、だから、チベットがいつも正しいか、というと、どうなんでしょうと
得体のしれないタンカなど、身近に飾っておかないほうがいいと思うよ

2012/01/05

隻手の声を聞け


隻手の声を聞け
せきしゅのこえをきけ、と読みます
白隠禅師の有名な公案です
両手でパンと手を打ったら音がしますが、片手の音を聞け、というお題ですね

だからこれ、僕の図で説明すれば


感覚器官で捉える前の、音になる前の音を聞けといっても聞けないから、まあ、解れと

いまでも、この公案で坐禅が修行されてます
隻手の声を聞く境地になったら、それは、悟りの境地です

僕は「光の瞑想」で、具体的な光をイメージしてくださいと言ってるのですが、だから、禅ではこれはやりません

白隠禅師で、全然まにあっていて、それで間違いないんですが、むっずかしいんですよ
常人では無理、と言っていい
無ーーーー。むーーーーーっと坐って、坐り続けて、延々と禅堂で修行しなければなりません
もう限界だと思えてきたら、それが、やっと入り口です
忍耐というか、申しわけないけど、今時、はやらないです


子供がテレビゲームをやっているのを見ていると、5回くらい同じボスにやられると意欲を無くします
自分でゲームをやってても、延々と単純作業を続けて、やっとこラスボスにたどり着いて、何回も同じところでやられたら嫌になりますよね
ヒットしているロールプレインゲームは、そこのところはうまく考えられていて、小さな成功を積み重ねて、達成感を味わいつつ先に進めるようになっています


それでですね、絶対的な体験の側からの語りかけというか、啓示なのですが、こちら側への働きかけを感じたら、接点が持てるのではないかと考えました
初めはかすかでも、だんだん強く
最後は、圧倒的な強さで
繋がりに切れ目無く、感じ続けます



この光が、慈悲の感触、です

よく、この、超能力がほしいとか、魔力を身につけるとか、幸運を呼び寄せるとか、願望成就することか、精力絶倫になるとか、超人的な能力を目的に瞑想する人がいるのですが、この瞑想は趣旨が違いますからね
どうか他の所でお願いします

図で見ておわかりのように、感覚器官や脳で自分勝手なイメージをつくることから解放されて、感じられる前の(実相と専門用語で言います)世界とつながることを目指しています

この実相が、慈悲の極みであり、悟りであり、仏心であり、甘露の法味であり、曼荼羅であり、法界であり、Superpositionであるのですが、氷のように冷たいというんじゃなくて、圧倒的な慈悲の感触です
で、慈悲の感触を、一筋の蜘蛛の糸のように頼りにして、瞑想を続けたらどうかということなんですね


ちょっと端折った話をしますと、いずれ、ニューロフィードバックで、慈悲の感触を感じている時の脳の状態が解明されて、科学的な評価の対象になるんじゃなかろうかと思ってます

瞑想するとき「ほほえむ」というのを、僕は言っているんですが、これも仏教では一切言ってこなかったんです
修行の結果「ほほえむ」んじゃなくて、ま、作り笑いであってもいいから「ほほえむ」のです
どこか書いてある儀軌があれば教えてください、無いと思うよ

で、「ほほえむ」時には、エンドルフィン系がでていることが予想されますね
華厳経の修行の階梯で最初に「歓喜地」というのがありますが、喜び溢れる境地です
これですね、僕は、歓喜地の人を知ってますから
当然、五神通があります、他にもいろいろ超常的なことが起こせます
その経験からね、ま、いろいろ感じるところがありまして
瞑想するときに、ほほえんじゃえ、と

ちょっと、理屈だけで言っているのでもないのです

2012/01/03

瞑想のコツ

「光の瞑想」をちょっと手直ししました

どうも、この瞑想のやりかただけ読んだのでは、成果が上がらない
というか、性根が入らない

そんな感じにずっととらわれていて、ややこしいことを言うならいくらでもできるのですが、シンプルに、単刀直入に説明するのはどうするか、考え続けていました

強く決意する、という表現にしましたが、これ、元ネタは大乗起信論です
「信をもって能入とする」という有名な言葉があるのですが、信じられない人が多いから、今の世相になっているわけで、あまり参考にならないと言ってしまえば終わりなわけで、まあ、参考にしつつ、別の表現にしました

まさに、決意こそがαにしてΩなのであって、重要度で言えば、決意が90%で、微笑むのが8%で、あとのテクニックが2%というところでしょう

決意して、微笑んで、背筋を伸ばし、静かに呼吸すれば、「光の瞑想」の一丁上がりです

「光とはなにか」ですけれど
僕の立場から言えば「慈悲の極み」のことです

「己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり  伝教大師」


瞑想の準備


執着はほどほどにし
神仏を信仰し
死んでも心はなくならないとわきまえて
因果はめぐりめぐって自分にかえってくると覚悟して
慈悲をこころがけ
智慧を深める
朝日を浴びてください
両手をいっぱいに広げて、「太陽の力と優しさが体に降り注ぐーー」とイメージしてください
まぶしいですが、目を細めて、太陽を見てください
太陽の姿を記憶してください
瞑想するとき、ふりそそぐ太陽の光を思い出してください

必ず「光になる」と強く決意してください (この決意で、光と繋がります)瞑想の成果が乏しいのは、この決意が十分でないからです
的の真ん中をはっきり意識してください


「光とはなにか」とか、「どうしたら光になれるのか」とか、考えるのは、後回しにしてください
時間をかけて考え続けるのが、瞑想的生活です

2011/12/20

Superpositionの仏教的意味

すいません
これからの話は、かなり、わかりにくいです




量子論的には、観測されるまでは物質は粒子として場所を特定することができません
それをSuperpositionと言って、(最近になってようやくネットなどでこの言葉が見かけられるようになってきました)波動として、あそこと、ここと、重ね合わさって同時に存在している状態としています

仏教で言えば、唯識で言うところの所観で、つまり、感覚器官で感じる前の観察対象のことで
たとえて言うと

今、パソコンのモニターを見て、字を読んでますよね
ぱっと、眼をつぶります
その、眼をつぶっている間に、モニターは月まで飛んでいってます・・・

なわけはないのですが・・見てないんだから、わかりません
でも、そこにあったということも、見てないんだから、わかりません

で、そのモニターは、どうなっていたか、有るでも無いでもない、ま、見てないんだからわからない
それを、「空、くう」と仏教では言うわけです

観察によって、時間や空間が生じるのです
つまり、生や死も

考えようによっては、広大な「空」のなかにぽっかりと、あなたの意識が浮かんでいるようなものです


あなたは、今、見たり聞いたりして、生きているという素朴な実感を感じていますが、見ていない、聞いていない、広大な未知領域に囲まれているとも言えます
広大と言いましたが、時間も空間も無い(有ると断定できない)領域です

今、ぱっと眼をつぶってしまえば、眼の前のモニターも、あなたの左右の手も、Superpositionになります


記憶を例にとって話をします
印象深い瞬間というものは、昨日のことであっても、一ヶ月前のことであっても、ありありと思い出すことができます
古いことほど曖昧にはなりますが、きっかけさえあれば、ほぼ同時に思いだすことができます
これは脳の機能だと言う説明が、一応の科学的な説明なのですが、脳を解剖しても過去がでてくるわけではありません
富士山を思い出しても、解剖したら富士山がでてくるわけではありません
積年の恨みとか、秘めたる決意とか、頭蓋骨を割っても、発掘されることはありません
あたりまえですが

「記憶はSuperpositionに蓄積され、脳によって呼び出される」という仮説を立てても、それはそれで、説明がつきそうな気もします
仏教で言うと、カルマですね
過去の行い全て、それと、前世からの影響も受ける、という思想ですけど、成り立ってきます
過去にしたことすべて、消されずにSuperpositionの中に有り続けます(時間が無いんですから)
で、宿命や業からは逃れられないという思想にもなってきますが、逆に言うと、そこをなんとかするための仏教であるのです
(ちょっと脱線した話をしますが、「死」ですけど、今こうして生きてBlogを読んでいるあなたはSuperpositionの中では時空をこえて存在してます
つまり、死んでも消えることなく、時間を超えて今のまま存在し続けます
感覚的には全く理解不能ですが)


さて、では未来はどうなるのか

過去がSuperpositionなら、実は、未来もSuperpositionです
Superpositionでは時間と空間を特定できないのですから
過去と未来は同時に、Superpositionの中で重なり合って存在しています(ま、理論的には)

人間には自由意思がありますから、明日何をするか、これから自由に決めることができます
ですから、いかにSuperpositionであっても、そこに決まった未来があるわけではありません

でも、ワンピースのルフィーのように「俺は海賊王になる」と決めたらどうでしょうか
生まれ変わり、死に変わり、3000年後にはなるかもしれません
ところがですね、あなたのSuperpositionの中には、3000年後の海賊王がいるのです
「俺は海賊王になる」と決めた瞬間に、あなたの本当の心であるSuperpositionは海賊王になってしまうのです

ここのところを仏教では

「汝是當成佛。我是已成佛。 常作如是信。戒品已具足。」
汝は、まさにこれから仏となる
我はすでに仏となれり
常にかくのごとき信をなせば
戒はすでに具足している(梵網経)

平たく言えば、
「俺は仏になる」と決めれば、仏としての行いが出来る、と説いています

Superpositionに仏となった自分がいると、過去の失敗や間違いもすべて意味が修正され、仏となるための修業期間として再評価され、再生します
「俺は仏になる」と決めればですけど

もう少し具体的に言うと
ルフィーみたいにいつも「俺は仏になる」と言ってるってことでしょうか

実は、ほぼ全ての宗派で、毎日言っているのです
お経を読んだ最後に、必ず唱えます

「願以此功徳。普及於一切。我等與衆生。皆共成佛道
ねがわくばこのくどくをもって、あまねくいっさいにおよぼし、われらとしゅじょうと、みなともにぶつどうをじょうぜん

ですから、あなたが3万年後に仏と等しくなったとして、Superpositionには時間はありませんから、今、Superpositionには仏になったあなたが存在してます
極めてわかりにくい話ですが

僕は、仏教の基礎知識で軽く

「仏菩薩を尊敬し
八百万の神を尊敬し
イエスキリストを尊敬し
アラーの神を尊敬し
自分を信じる」

と書いてますが、自分を信じていいんですよ
「俺は仏になる」と決めていれば



「俺は仏になる」と決めてしまえば、どんなに時間がかかろうとも、あなたはいずれ仏となります
未来に仏となったあなたは、Superpositionには時間がありませんから、過去も未来も現在も仏として存在することになります
つまり、今Superpositionで、仏となったあなたが微笑んでいます
現在どういう境遇であっても、これは仏にいたる必要不可欠のステップです
過去の行いはすべて、仏となったあなたに生かされます
細かいことをクヨクヨ心配するのは無駄なことです


仏教では、これを円頓というのです
円、かんぜんで
頓、すばやい


ああ、仏となると決めるからには、仏としての振舞いを目指してくださいね

 

2011/12/15

量子論と心

量子論をamazonで検索すると1500冊位の本があるのがわかります
マンガや絵解きもあって、これはこれで興味深いです

で、僕は、量子論と仏教哲学と接点があるんじゃないかと思っているわけですが・・・

端的に言って、お釈迦様は量子論を研究したから悟りを開いたんじゃありません
ま、関係無いと言えばそれでお終いですが、無くても間に合います



それでも、量子力学は案外身近なんですよね
たとえばパソコンのCPUで使われている半導体

この半導体ですが、電気を通したり通さなかったりするから半、導体ですね
なぜそうなるか、きちんと理解するには量子力学で説明しなければなりません
たとえば、今でも使われている江崎博士がノーベル賞を取ったトンネルダイオードは、まさに量子の不確定性原理によるトンネル効果(Quantum tunneling)を応用しています


平たく考えて、量子レベルで不確定性原理が成り立っているわけですから、結論的に言って、脳も例外では有り得ないわけです

これ、文章で書くと
「量子は観測されるまでは、霧状の存在(superposition)であって、観測された瞬間、収束して粒子になる」
つまり、あなたの知り合いのA氏は、面会するまでは、霧であって、面会した瞬間にA氏となる、てことらしいです

変ですが、この理論でダイオードや電子顕微鏡などが実際使われているんだから、しかたありません

現在のコンピュータの原理を発明したノイマンは、「原子の位置は心の中で決まる」と説いていたわけで、それを完全に否定することもなく今も研究は続行しています
いずれ、もっと研究が進めば、華厳とか唯識、空、といった仏教理論も理解が深まることでしょう

今のところは、仏教は空理空論ではない、とだけ言っておきます

2011/12/13

時空を超えた相関状態

僕はQuantum Senseですでに書いていますが
http://www.chohoji.or.jp/archives/quantumsense.htm

量子論のsuperpositionが、仏教で言うところの「空」と非常に近い概念なのです

実はこのsuperpositionが成り立つと、「自分を変えることで世界を変える」という理論も成り立つのです

それがentanglementsです
密教的に言えば三平等観ですかね

「我とホトケと平等
ホトケと衆生と平等
故に、我とホトケと衆生と平等平等なり
故に、真言行者座を立たずして一切の仏事を成す」

ま、一気にここまで言うと飛躍しすぎと言われそうですが、entanglementsで量子コンピューターを作るつもりらしいですから、笑っていられませんよ

まあ、電波とか電気も、霊的世界と近いと言えば近いしね


 Si半導体中で量子もつれの生成と検知に成功 


「重ね合わせ(superposition)という概念は、何らかの物体が同時に2つの状態で存在できる現象を意味しています
これはとても妙なことで、私たちの日常生活では経験できないことです
当然、量子力学を創り出した物理学者さえも理解に苦しむ大難問でした
たとえば私がここに座っている状態と向こうの方に座っている状態は想像できます
でも、同時に両方に座っている状態は想像できません
しかし、量子力学では、まさに重ね合わせ(superposition)の原理によりこれが可能です
このように原子、電子、分子などは同時に2つの状態で存在することができ、この概念が量子技術を強力なものにします
重ね合わせ(superposition)のさらに延長上にエンタングルメント(entanglements)があります
これには2つの量子的物体が必要です
この2つが絡み合う(エンタングルメントentanglements)と、個々の物体を分けて考えることはできません
エンタングル(entanglements)した2つの物体を宇宙の両端まで引き離したとしても、片方の状態はもう片方の状態に影響を及ぼすという時空を超えた相関をもちます」

2011/12/04

光の瞑想 バージョンアップ


<>光の瞑想を、ちょっと手直ししました
光という表現もどうしようかと思いましたが「慈悲」とか「愛」とかね、今風の表現はどうかととも思案しましたが、ロゴもつくちゃったし、まあ、いいかと

瞑想の方法については、書いていることは原則論であって、個人個人、効果の有る方法は違ってきます
時期もあるし、階梯もあります
ま、一般論ということで

(なんかGoogleでつくるとhtmlにゴミがつくのよね・・・・アメリカが全て正義でもないよ)


見える、聞こえる、感じるなど、感覚器官でとらえた印象が脳内イメージになって、世界を認識しています
脳内イメージは、各人各様、すべて独自のものになります
しかし、感じる前の世界は、たった一つしかありません
生滅も垢浄も増減もない、時間と空間のない完全無欠な世界です
自分が感じた世界は、自分だけのものです
感じる前からある、ありのままの世界とは違います
自分の作り出したイメージに捉われることを、我執と言います
苦しみや悩みは、自分がいる、という我執が根本原因です
感覚器官で感じる前の、ありのままの世界そのものが、自分というフィルターが介在しない、真実の世界です
今自分が感じている、苦しみや悩みが、全くない世界です
苦しみや悩みを救う力は、感じる前の世界にあります
その力に気づくのを、悟り、と言います
わがこころ、吾心ですね
見る側の我々と、見られる側の世界との間には壁があります
この壁を超えるのが「慈悲の感触」です
ここでは、光と言っておきます

「慈悲の感触」だけが至高の心に繋がっています
あなたが、全力で誰かのために働く時、自分自身の中にある、至高の心に出会えます


普段は感覚器官によって切り取られた、自分の脳内世界を自分自身であると思い込んでいるのですが(つまり我執)、実際の自分自身は感じられる前の「至高の心」そのものなのです(これが悟り)

心の重点を、私利私欲に置けば、迷いの世界が深まり
利他公益に置けば、「至高の世界」に直結する、と単純な理屈です

実は、「至高の世界」に気づけば、「死」の意味も変わる、ということですね


光の瞑想の模式図

http://www.chohoji.or.jp/shousei/saloon.htm

2011/02/09

仏教は自由がいい、とは言わないんです

不動明王像 絹本著色 室町後期 長保寺蔵

自由の女神
自由、平等、博愛
自由主義
言論、表現の自由
自由民主党

など

「自由」は「正義」と同格か、それ以上の値打ちが与えられていると言っていいと思う

でもこれ、書くのもめんどくさいが、勝手気まま、自分勝手、自己中、傍若無人とは違うわけで、自ずから制限が加えられる
自由だからなにをやってもいい、というわけではないのです

仏教では、自由をつかさどるのは大自在天ですけど、これ、大魔王です

どうしようもなく自分勝手な悪さをするので、最後に不動明王に殺されます
それから、転生して生まれ変わって、仏教の守護者になります
大日如来が憤怒の姿を表したのが不動明王で、つまり、ホトケの最大級の怒りでなければ調伏できない位難敵なのが大自在天です

ヒンドゥーでは大自在天はシヴァ神のことです
ブラフマン(梵天)が創造、ヴィシュヌ(毘沙門天)が維持で、シヴァ(大自在天)が担当するのは破壊です
まあ、インド神話的には、自由が世界を破壊する、と

シヴァ神像 インド デリー国立博物館蔵

人間の脳に、自由な発想をする力があるのですが、つまり、これが諸悪の根源にもなるわけで、手前勝手な妄想や、自己中心的世界や、お花畑的思い込みなど、無責任に作り出し続けます

なにをどうしても浮かばれない幽霊は、これからも登場し続けるということですね

それで僕は、「自由」は注釈を必要とする罪作りな言葉でありますので、「創意工夫」という言葉を使うようにしています



自由の力によって、歪みが生じるということになります

人間の感覚器官の不完全さ、あるいは、脳の未熟さもあるかもしれませんが、むしろ、脳の進化によって大脳新皮質が発達し、より大きな自由が獲得されたとも言えるわけで、「人間的な自由」と「人間の根源的錯誤または原罪」はワンセットだと言えます

いずれにせよ、僕らは、自分自身の自由と付き合っていくしかないわけで、「私利私欲を捨てて、まっさらな気持ちで考える」という意味の「瞑想」がどうしても必要になるということじゃないかと思いますね


親が子の将来を思うような純粋な気持ちで、国の将来を考えたら、また、新たな発想もあるんじゃないでしょうか



で、話が飛びますが
過激な自由貿易、TPPのことですけど

中野剛志氏「TPPで日本が滅ぶ」
http://www.choujintairiku.com/nakano1.html

これは動画です


この動画の中に図がありますので引用させていただきます


リーマンショック前は、中国が急成長してアメリカとEUが買い手になっていたのですが、その中国の成長は日本からの資本財の輸入によってなされたということです
で、アメリカとEUはバブルが弾けて買い手になることができなくなるので、この矢印を逆転させなければならない



では日本は、輸出先がなくなって困るかというと、そうでもない
日本は貿易立国で、輸出で稼がなければ食っていけないというのは過去の話で、発展途上国には当てはまっても、もはや日本の貿易依存度は17%で世界で下から3番目です
ここにはありませんが、日本より低い国は、アメリカとバチカンだけです
今の日本は内需立国です
これからは、輸出先が今までのように調子よく買ってくれなくなりますから、益々内需拡大が必要になります


TPPで開国せよ、というのは真っ赤な嘘です
すでに日本の関税は充分に低いです 

TPP参加国のGDP比率で言えば、アメリカと日本で90%になります
日本は、TPP内ではアメリカと商売するしかないのです
で、アメリカに買う力はない
むしろ、アメリカが金融、サービスなどの得意分野をボーダーレスに売り込んでくるしかけです、その相手は日本しかない

日本はアメリカ以外の国に売ろうにも、経済規模が小さすぎる
逆に、ベトナムやメキシコなど低賃金の労働力が日本になだれ込んで、日本の派遣村の炊き出しが繁盛し、経済苦の自殺も増えると



結論は
自由には善し悪しがある、ということです




仏道を歩む 多神世界をどう生きるか 動画要約

多神教の世界 : 演者は、すべての人を一つの宗教に改宗させようとするのではなく、多様な宗教や無神論者が共存する多神教の世界でどのように生きるかに焦点を当てるべきです。 仏教とキリスト教 : キリスト教のような「啓示宗教」とは対照的に、仏教は個人的な実践と理解を通じて自身の苦しみを...