投稿
3月, 2012の投稿を表示しています
火天
- リンクを取得
- メール
- 他のアプリ
紙に描かれた仏画です 江戸時代よりも前のものであることがわかっています 現在見られる古い仏画は絹に描かれたものが多いのですが、やはり、絹は高価ですから、紙に描いたのでしょう 約400年経っている仏画ですが、紙に描かれたにしては非常に保存状態がよいのが驚きです 僕が最初に見たときは、無造作に、箱に放り込まれていました 手が四本ありますが、まあ、平均的なところです もっと手の多い神様もいます 手に持つ持ち物は神様によって決まっていますので、能力が色々あるのを説明するために、だんだんと多くなったようです 千手観音が一番多いですね 背中に火炎を背負っていますが、火天は、読んで字のごとく火の神様ですから、火が描かれています 護摩を焚くときは、必ず、先ず火天を勧請して供養して、それから本尊を供養します なぜか、翁だということになってます 理由は・・・よくわからないのです こういう神様の姿は、最初は見える人が書いたので、それでいいのでしょう 火天 紙本著色縦72.4 横33.5桃山(16世紀) 「寄進帳」には護摩堂の什物とだけ記されているが、江戸時代の中頃にはすでに長保寺にあったことが分かり、制作年代もまた桃山時代にまで遡るものである。 和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より
地蔵菩薩立像
- リンクを取得
- メール
- 他のアプリ
木像地蔵菩薩立像 江戸初期 紀州徳川家初代藩主頼宣(よりのぶ)によって奉納された地蔵菩薩です 頼宣は特に、南龍公と呼ばれているのをご存じの方も多いと思います この像は、南龍公が亡くなったお子さんの菩提を祈る為に造った像です 特に秘仏ではありませんが、紀州徳川家の藩主ご家族様だけが礼拝供養してきた仏像です 南龍公には、6人のお子さんがありました 長男は、2代藩主、光貞(みつさだ) 茶々姫 松姫 修理 早世 萬姫 早世 頼純(よりずみ)西条徳川家初代藩主 6人のお子さんのうち、お二人が早世されています 歴代藩主の過去帳を見ると、必ず、お子さんを亡くされています 近代医学が普及するまでは、身分や富貴に関係なく、子供が亡くなっていったのです 大名も、百姓もないのです 大名家では、跡継ぎがなければ、藩が取りつぶされてしまいます まして、徳川家がなくなれば、戦国時代に後戻りしかねません 子供が無事生まれるように、健やかに育つように、願う気持ちは、人一倍強かったでしょう 紀州徳川家の、強い祈りが込められた地蔵菩薩だといえるかもしれませんね
塵も積もれば山となる
- リンクを取得
- メール
- 他のアプリ
掃除用バケツ これはお堂用、住居用は別にあります 「塵も積もれば山となる」 よくご存じのことわざですけど、実はこれ、もともとは仏教からきた言葉です 大智度論という電話帳みたいな厚さで50巻ほどあるお経がありますが、そのなかに書かれています 「掃除」については、仏教では様々に説かれ、重要な修行にもなっています 自分の心も清める、と思いながら部屋を掃除すれば 、それが、実は、仏教の修行です 掃除をしながら心を清める修行をすれば、だれでも心が清くなる、という教えです ですから、それが、お経に書いてあるわけです こういう話は、キリスト教やヒンドゥーやイスラムにはありません 掃除して悟りを開いた話は、お経にはいくつも書かれています 蓮華色比丘尼は、お堂掃除のあと、ローソクを見つめていて悟りを開きました この人は、前世で遊女でした ハンドクは、お釈迦様の十大弟子の一人ですが、なにを聞いても忘れてしまったので有名な人です 「きれいに、きれいに」と言いながら掃除をして、ついに悟りを開きました 法華経にも、自分の親の顔をしらない男が、長い間、ある長者の元で掃除係をつづけ、実はその長者の一人息子だったのが知らされる、という話が書かれています 梅が満開です ここからは、僕が以前書いたブログ 「大智度論 掃除」をGoogleで検索すると、僕のブログが最初にでてくるんでびっくりしました 釈尊の弟子にハンドクという人がいた。 仏伝には、立派な坊さんばかり登場するように思いがちだが、このハンドクという人は物覚えが悪くて有名になった坊さんである。 とにかく何を聞いてもすぐ忘れる、どんな短い言葉も覚えられなかったらしい。 それでも釈尊を信じ、立派な坊さんになりたいとがんばっていた。しかし、皆にいつも、物覚えが悪くて馬鹿にされていた。何を聞いても忘れてしまうのだから、まともな修行ができるわけがない。いったい何をしてウロウロしていたのか知らないが、本人は坊さん達といっしょにいるのが好きだったのだろう。だが遂に、自分の馬鹿さ加減が自分で嫌になり、釈尊の元を去ろうと決意する。 「あー、俺はなんて物覚えが悪いんだろう。こんな馬鹿な俺では皆といっしょにおれない。」 そして、誰にも知られず一人でひっそり精舎を出て、寂しく泣き
四臂十一面観音像
- リンクを取得
- メール
- 他のアプリ
18日は観音様の縁日です これは、知っている方も多いと思います ほかにも縁日があります 下記は主要な縁日です 1 11 21 弘法大師 2 12 22 3 13 虚空蔵菩薩 23 4 14 普賢菩薩 24 地蔵菩薩 5 弥勒菩薩 15 阿弥陀如来 25 文殊菩薩 6 16 26 7 千手観音 17 27 8 薬師如来 18 観世音菩薩 28 不動明王 9 19 29 10 20 30 釈迦如来 十一面観音菩薩像 一幅 絹本著色 縦24.5 横16.8 江戸前期(17世紀) 比較的珍しい四臂の十一面観音像の小幅である。伝来などは不詳であるが、描写は丁寧で、江戸時代前期のものと考えられる。 和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より
金華鬘の由来
- リンクを取得
- メール
- 他のアプリ
源氏物語絵巻(東屋)徳川美術館蔵wiki 戸帳(とばり) 中央部の布製衝立 平安時代、宮中の日常生活で使われていました 元三大師画像 長保寺 江戸後期 紐で結んでたくし上げます 御簾(みす)と戸帳は、必ずセットで使います これ、知らん人多し ですから、糸華鬘や金華鬘は、下の写真のように、御簾、戸帳とあって、そこで使うのが本来です 糸華鬘(いとけまん) 長保寺御霊殿 その紐が、仏前で装飾的に使われるようになりました 華の飾りという解釈が多いのですが、飾り結びは、広く宮中、大奥で行われていましたから、「華のような飾り結び」でいいと思います (インドでは花を紐でつなげた、とか、見てきたようなことを言う人がいますが、あれは首飾りで、部屋の間仕切りは見たこと無いです) 金華鬘(かねけまん) 長保寺本堂 中央部に紐が装飾的に描かれていますね 古式を踏襲した意匠です 奈良時代には、すでにこの形まで進化していました この華鬘だけ見てたら、なんで紐なのかわからんです 右の梵字は多宝如来、左の梵字は釈迦如来 下に五色宝玉の瓔珞 改めてご覧になると、また違った感興が沸くと思います
ロジスティック曲線
- リンクを取得
- メール
- 他のアプリ
カンブリア紀に、生物の弱肉強食が始まり、弱い者は食われぬよう、強い者はより強くなろうとし、多様性と試行錯誤が爆発的に始まって、現在に至っています そして今、日本など先進国には、「文明の行き詰まり」とでもいう閉塞感があります 神戸市須磨水族館で マネーゲームは吹っ飛んだ 原発依存は欲呆けだったのか 戦争はリモコンとミサイルとゲリラてか 人件費が十分の一の国でなんでも作れば、日本で働く場所はなくなる理屈 日本じゃ毎年3万人自殺してるんだし、数だけ比べたら騒ぐこともないのか 批判だけして選択肢を示さないのを、モンクタレというと教わったぞ 先進国といわれる国々が築いてきた文明が、転換点を迎えているのかもしれません 日本人は、明治維新からずっと「西洋に追いつき追い越せ」でやってきたし、大成功したのですが、終わりがきたようです 「坂の上に雲は無い」のです 中庭の池 江戸時代そのままの風情を残している ここからは、引用です 世界のエネルギー消費量の変化を見ると、産業革命以降増え続け、20世紀後半にはその曲線が垂直に近い勢いで急上昇し、エネルギーを食いつぶした。ロジスティック曲線でいうと、人類は今まさにステージ2(大爆発期)の最後のところからステージ3に至る曲がり角にいるんです。 でも次のステージ3に対応する生き方や価値観はまだ見つかっていない。少なくとも皆が共有できるものはない。それでいろんな混迷があり、見晴らしのない状態が続いているんですね。 ロジスティック曲線でいえば、すでにリアルな限界に達しているのに成長を続けようとすると、情報の力で「フィクショナルなマーケット」をつくるしかなくなる。しかしそうした虚構の成長も、結局はリアリティの限界にぶつかって破綻したという ステージ2が終わりに差しかかっているのに、人間はまだ成長段階を引き延ばそうとし、フィクショナルな時代を続けている。そして若者たちは、 フィクションの中で生きながら強くリアリティに飢えている 。今はそんな状況なんだと思います。 結論だけ言えば、アート、愛、友情だと思います。 非常に贅沢な欲望でありながら資源を大量消費しないし環境も破壊しない。 見田宗介 「人間はようやく地上に〝天国〟を実現する段階に達した感じがしま
不動明王と二大童子
- リンクを取得
- メール
- 他のアプリ
極めて良好な保存状態です 長保寺には、他に多数、不動明王の木像や画像がありますから、長保寺の法要で必要とされた物ではないと思います おそらく、和歌山城内で法要に使われていたものが、長保寺に寄進されたと思われます ちなみに 左手に持っている縄で、不信心者を捕まえて、縛り上げます 言うことを聞かないと、右手の両刃の剣で真っ二つに切られます そうしたら まっさらになって、仏の御前に生まれ変わります ですから お不動様を、別に信じていただけなくてもけっこうです お不動様が、あなたの所に行きますから 右の白い矜迦羅童子(こんがらどうじ)は、従順を表し 左の赤い制叱迦童子(せいたかどうじ)は、奉仕を表します 基本、お不動様は我々に、従順に奉仕してくださるのですが、怒らせないほうがよさそうです 不動明王二大童子画像 部分 絹本著色 縦167.6 横73.2 江戸後期(寛政9(1797)年) 落款によると、「老比丘法金剛大雲」が寛政9年(1797)に描いたものである。 和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より
仏教の未来
- リンクを取得
- メール
- 他のアプリ
下の写真は天台、真言で使う密教法具です 密教寺院には、必ずあります もともとはインドだと思いますが、もうインドには無いのです チベットには、似たものがありますね ざっくり端折って説明すると、集中力を高める為の道具です なくても間に合うのですが、あったほうが簡単に仏の世界に入れます 臨死体験の研究、トランスパーソナル心理学、アメリカ輸入のニューエイジやヒプノ、などなど、現今の精神世界には色々な切り口がありますが、つまりは宗教の個人化の流れの中で必然的に起こるべくして起こってきた試行錯誤の一端ということにも感じられます 一過性のブームのようなものに終わるとは思えません 仏教は2500年以上、過酷な運命を乗り越えて、時代的要請に答えながら伝統をつないできました 結果論ですが、これが事実です 今ある様々な精神世界の試みもいずれ吸収してしまうのではないでしょうか 大乗仏教の発展は異文化の消化吸収の歴史でもあります 超感覚的な預言者による宗教であるキリスト教やイスラム教のようなトップダウン式の一神教と違い、仏教は瞑想によって検証されながら常に変容してきました それでも、 瞑想によって仏となる 、という基本的なコンセプトは表現のしかた、強調する部分が違っても変化はありませんでした 精神世界の試みの成果は新鮮ではありますが、仏教の骨組みを粉砕するほどの説得力は感じられません むしろ、一神教の独善を戒め、瞑想の技術を深め、生命に宿る仏性を際立たせることで、結果的に仏教の洗練に寄与するのではないかとさえ思います 今の坊さん達が、自分達に磐石の既得権があるなどど思い込んでいなければ、仏教にはまだまだ未来はあると思うのですが、いかがでしょうか