檜扇

江戸後期の檜扇です
御所人形と一具のものです
檜の薄板に岩絵の具で極彩色の絵を描いています

紐は、絹糸に草木染め
かなり色あせしていますが絹の艶は消えていません
それがまた風合いとなっています

お人形を出すときに、いっしょに飾られたようです
日常生活で実用品として使われた様子はありません

こういうものは、藩主の奥様(御簾中様、ごれんちゅうさま)、側室(御部屋様、おへやさま)、あるいは、老女(字のまんま年寄りという意味ではありません、大奥の役職名です)や、お付きの奥女中様の所持品だったものが、「形見分け」という形で長保寺に寄進されました



奥様、側室、というと、今風には2号、3号と考えがちですが、違うんです

御簾中様は、京都の宮様からお輿入れします
江戸の紀州藩邸の大奥に入り、子供は作りません
皇室と徳川家の結縁のための政略結婚といえば、そういうことになります
子供を作らなかったのは、もし、間に子供が生まれたら、大変な権力を持つことになるから、それを避けるためでしょう
身分社会を維持するため、凍り付くような家庭生活を送っていたと思いますね
お墓は長保寺の山内に建てられています

御部屋様は藩主のお子さんを生んだ方です
生まなければ、単なるお手つきということでしょう
奥女中様(上級武士の娘や、町医者の娘など、多彩です)には、ある種、チャンスが平等にあったともいえます
で、紀州徳川の藩主は全員、御部屋様のお子さんです
御部屋様は、藩主が亡くなる前に、自分が亡くなれば、丁重に弔ってもらえますが、自分の子である藩主が先に亡くなったりすると、里に返される場合もありました
徳川家は、男系社会だったということですね
御部屋様のお墓は、長保寺の山内ではなく、山裾にあります
藩主の母上であっても、身分違い、という扱いをうけました

ひどいじゃないか・・・ああ・・・はい、聞こえてますよ

なぜ、このような仕組みかといえば
絶対確実に子供を残すためです
徳川家は、子供が絶えてしまえば、滅亡です
滅亡してしまうと、戦乱の世に後戻りします
戦国時代、親子、親族も殺しあったのです
それよりも、大奥を維持するほうが、なんぼかまし、ということだったのでしょう

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