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平成29年2月28日 長保寺 山の様子

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けっこう風が強かったので、ノイズ除去をしています 長保寺のホームページ http://chohoji.or.jp 長保寺のBlog http://chohoji.blogspot.jp/ 長保寺住職のFacebook https://www.facebook.com/chohoji 長保寺住職のTwitter https://twitter.com/chohoji Olympus OM-D E-M5 2 Zuiko 12mm F2 Zhiyun Crane-M Tascam DR-05 v2 Clouds  YouTube Audio Library

コールドプレスジュース

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これで4人分です 毎朝飲んでます 人参臭さは皆無です スムージーに比べて、濾していますから、飲みやすいので続けられます でも、まったく繊維質が含まれない、ということでは無いです ブロッコリーの芯など入れると、オレンジ色と緑色で、薄茶色になって見た目は悪くなりますが、味は無問題です SHARP スロージューサー EJ-GP1-R 長保寺のホームページ http://chohoji.or.jp 長保寺のBlog http://chohoji.blogspot.jp/ 長保寺住職のFacebook https://www.facebook.com/chohoji 長保寺住職のTwitter https://twitter.com/chohoji Sony RX100 M3 Tascam DR-05 v2 Roddim Road  YouTube Audio Library

白木瓜

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白木瓜が咲いたら、春の準備を考えなければなりません 長保寺のホームページ http://chohoji.or.jp 長保寺のBlog http://chohoji.blogspot.jp/ 長保寺住職のFacebook https://www.facebook.com/chohoji 長保寺住職のTwitter https://twitter.com/chohoji Olympus OM-D E-M5 2 Zuiko 45mm F1.8 Zhiyun Crane-M 録音 本体直接 Clouds  YouTube Audio Library

平成29年2月25日 夕方

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だんだん日が長くなってきましたね

心経玄談 あとがき

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結局 「空」が、そんなに素晴らしいのか 心経の呪が、信じるに足りるものなのか ということでしょうか 「空」は、説明しようとすれば、それは「空」ではなく、「空の説明」でしかないわけで、どうにも扱いようがありません 「すべての苦しみと厄難が無い状態」と言う他はないのでしょう ぱっと目をつぶったら、その先は「空」なわけで、そこにあるのですが、どうしようもありません とにかく、「すべての苦しみと厄難が無い状態」なんだと、自分に言い聞かせるしかありません たしかに、素晴らしいことですが、イメージがわかないのがつらい 仏像とか、壮大な伽藍とか、いろいろ作り出されてくる理由がわかるような気がします 心経の呪が、信じるに足りるものかどうかは、現在の日本仏教の宗派に心経を読まない、あるいは否定する宗派もあるわけで、一概に言えないということになります ただ、仏教の2500年に及ぶ歴史を拒絶しないのなら、心経が極めて重要な経典であることが理解されます 仏教経典には、時代や地域によって、流行り廃れの、信仰の栄枯盛衰がありますが、その歴史の風雪に耐えて生き残った、数少ない経典が心経であることは間違いありません インドから延々と旅を続け、数多の高僧達によって守り伝え続けられ、日本に根付いたのが心経への信仰です あなたが、心経を大切にしてくださるなら、悠久の時を超えた灯が、また一つ繋がったことになります その灯が、次に繋がるかどうか、それはわかりません ただ、いまある灯は、そうやって、お釈迦様から連綿と受け伝えられてきたものであるのです その灯を、信じてもいいのではないですか 図解 般若心経 心経玄談

心経玄談 19

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隅寺心経(奈良時代) 長保寺蔵 長々と心経玄談を続けてきましたが、手短にまとめると、こうなると思います お経の要点はなにか 自在に観(観自在)ると、脳が作り出すイメージ(五蘊)は「空」だと照らし見て、すべての苦と厄難を解決できます 人は、不生不滅、不垢不浄、不増不減の空から、瑣末な個人空間を切り取って一喜一憂しています 神話的コスモロジー、生老病死、努力や頑張り、などすべて、脳内イメージです 「空」は、なにも遠くにあるわけではありません ぱっと目をつぶれば、目の前のモニターが「空」です ふっと無心になれば、今生きているこの世界すべてが「空」です その「空」を見ようとして目を開ければ、脳内イメージしかありません 「空」にある無垢な人生をとらえようとしても、自己流の解釈しかできないのです 「空」と繋がる、一筋の糸が、心経の呪なのです 精神統一しつつ呪文を唱えてください 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦  菩提薩婆訶 (ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじそわか)

心経玄談 18

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人間、頑張れば大抵のことはできます 努力してどうにかなることなら、努力すればいいのです しかしながら、親しい人との別れ、不治の病、老いの衰え、など、努力ではどうしようもないこともあります 心経が想定している苦厄は、そういった、普通の努力では解決できない問題ではないでしょうか 普通に努力しても、ほとんど無力なことがあるから、普通の努力以外の方法として、 精神統一しつつ呪文を唱える ことを説いているのではないでしょうか 心経には「考え方を改めましょう」とか、「立場を変えて考えてみましょう」とか、常識的にはもっともな説教はありません 心経に書いてある問題解決の方法は 精神統一しつつ呪文を唱える ことだけです 心経の呪は人生の無力、限界、無常の中を堂々巡りしている時の、一縷の望みです なんとかなりそうなら、なんとかしてみればいい どうしようもないから、一縷の望みに賭けるのです 心経の呪は、この世のものではなく、お釈迦様が霊鷲山で説いた「空」からの呼びかけです 無垢な「空」と繋がる一縷の望みです 考える、工夫する、がんばる、など自分の意志による努力は、感覚器官がとらえたイメージを、自分の感覚器官の世界のなかで解決しようとする、いわば、堂々巡りです 解決したように見えて、また、同じような問題が再来します 感じる前の世界(空)には、脚色されない、無垢で、純粋な、心経の言うところの、不生不滅不垢不浄不増不減な世界があります なにも遠くにあるわけではありません ぱっと目をつぶれば、目の前のモニターが「空」です ふっと無心になれば、今生きているこの世界すべてが「空」です その「空」を見ようとして目を開ければ、脳内イメージしかありません 「空」にある無垢な人生をとらえようとしても、自己流の解釈しかできないのです 「空」と繋がる、一筋の糸が、心経の呪なのです

心経玄談 17

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自在に観る ことさえできれば、悲劇は回避できるのです 自在に観る ことができれば、自分というちっぽけな殻を打ち破って、大きな生命力に触れることができるのです ですから 自在に観るには、どうしたらいいのか 、というのが最も重要な問題になるわけです 心経は、それを、 呪 と説いているわけです 故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪 般若波羅蜜多(智慧の方便)は、大神呪、大明呪、無上呪、無等等呪であると知る つまり 智慧は呪である と言ってるわけで、呪の定義が問題になるわけです 呪をサンスクリットで言うとdharaniですけど陀羅尼ですね 呪文、真言、まじないの言葉、などの意味に使われることが多いわけですが、もともとは精神統一の意味で、それが、だんだんと精神統一する時に使う呪文そのものをさすようになりました 呪=精神統一   ですから 般若波羅蜜多(智慧の方便)は 大いなる神のごとき(精神統一)であり 大いなる明らかなる(精神統一)であり この上なき(精神統一)であり 比べるもの無き(精神統一)である という意味になります 続いて最後の部分がですね 故説般若波羅蜜多呪 ゆえに般若波羅蜜多(向こう岸に至る智慧)の呪を説く 即説呪曰 すなわち、呪を説いていわく 呪が2種類あるんです 精神統一 の意味の呪、と、 呪文 の意味の呪 般若波羅蜜多(智慧の方便)の呪( 精神統一 )、と 呪を説いていわく、の呪( 呪文 ) 同じ文字でも、意味の違う呪があるのです 実際問題としては、 精神統一しつつ呪文を唱える 、のが心経の言う 「自在に観(観自在)ると、脳が作り出すイメージ(五蘊)は「空」だと照らし見て、すべての苦と厄難を解決できる」 方法である、ということになるかと思います 心経には、 自在に観る ために「考え方を改めましょう」とか、「立場を変えて考えてみましょう」とか、もっともな説教はありません もちろん、そんなことしちゃいかん、と否定しているわけではありませんが、どうやら、重視していないようです 考え方を変えようにも、「自分自身の考え方の盲点」を自覚することはできないし、「自分の凝り固まった固定観念」を理屈で解消するこ

心経玄談 16

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自在に観(観自在)ると、脳が作り出すイメージ(五蘊)は「空」だと照らし見て、すべての苦と厄難を解決でき 見方を変えさえすれば、「空」から自分の望むものをなんでも、取り出すことができるから 人が仏と成る、成仏が可能となります 見方を変えることで、苦と厄難を解決する可能性を獲得するわけです なんだ簡単だ、と思われるかもしれませんが、これが簡単なら、人生の不幸は深刻でも重圧でもないのです 黄水仙 ここで、どうしてもスコトーマ(盲点)に触れなければならないのですが 人は、自分の考え方の盲点を、自分でなかなか修正できないのです スコトーマについて詳しくは、苫米地英人先生の著書なり、最近ではYoutubeに動画をアップしていただいてるので( 苫米地メソッド009「スコトーマの原理」 ) 参照してください (余談ですが、苫米地先生は、天台宗ハワイ別院の荒了寛師の弟子で、僧籍をお持ちです。天台宗は、今東光師、瀬戸内寂聴師など、人材の幅が広いといえば広いですね) 人は、強い感情をともなって形成された固定観念からは、なかなか離れることができないのです ご承知の方も、いらっしゃると思いますが、これが現代コーチング理論の基本です 具体的には 「自分はだめな人間だ」という思い込みが、学校や会社で失敗が続いたことによって形成されたとします これは、失敗が続いて「すごく落ち込んで悲しい」という強い感情をともなった経験に基づいた考えなのですが、人間の「怖い」「悲しい」「寂しい」といった本能的な恐怖心に近い経験であるほど、強い固定観念になります そうなると「自分はだめな人間だ」というのを基準にしてしか物事を考えることができなくなります 理性的に、「そんなことないから、がんばりましょう」と励ましても、なかなか、感情を伴った固定観念はなくなりません むしろ、聞く耳を持たず 「いや、そんなことはない。わかったようなことを言うな」 「どうせ自分はだめな人間だ」 となりかねません 脳幹は爬虫類にもある、原始的な部分なのですが、すべての情報は、この脳幹を経由して集まります 脳幹は、生命維持への危険に対して最も強く反応します だから、理性や理論で脳幹の反応(強い感情)を変えることが難しいのです

心経玄談 15

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キリスト教とかイスラムでは、人は絶対に、神様にはなりません 仏教は、成仏を目指しています 人は、いずれ仏か、仏と成ることができるがこの世に留まって世を救い続ける菩薩になります 長保寺 国宝多宝塔 金剛界大日如来(平安時代 長保寺で最も古い仏像) つまり 人が神にならないのなら、いつまでも、迷える子羊でいればいいのですが 仏教では 自在に観(観自在)ると、脳が作り出すイメージ(五蘊)は「空」だと照らし見て、すべての苦と厄難を解決でき 見方を変えさえすれば、「空」から自分の望むものをなんでも、取り出すことができるから 人が仏と成る、成仏が可能となります 「空」から望むものを取り出すことができないなら、とてもじゃありませんが、仏となることなんてできません いちおう理屈を言っときますが 自分勝手に、ダースベイダーや大魔王にでもなれるかというと、そこはそうはならないのです 自分勝手な、我執にとらわれていると、「空」を歪めて、新たな不幸の原因になる「色」を作るだけです 観自在の「自在に観る」の「自在」とは、自分のちっぽけな我執からも解放されているということになると思います だから、忍耐や修行や学習が、どうしても必要だということになって、そんなにうまい話はないのです 「空」から望むものを取り出すには なぜ、どうしたら、そうなるのか、具体的な道筋は横に置いておいて、夢が実現した状態を、(なるべく、皆が笑顔になるような夢がよろしいかと)強くイメージする これが、コツですね

心経玄談 14

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我々は、隣に座ってる人であっても、今考えていることが、さっぱりわかりません 憶測や、推測はいちおうできますし、教えてもらう、という手もありますが、ほんとのところはわからないのです また、きちんとした信頼関係がなければ、なにを考えているか教えてもらったとしても、無意味です 別々の人間なんだから、当然といえば当然です 同じ一つの地球に住んでいても、住む場所が違えば、当然、見えるものも違うし、考えることも違います 同じ物を見ても、見る角度が違えば、見えるものが違います でも、地球は一つです 地球上には、ありとあらゆることが、日々途切れることなく起こっています その、なにもかもを知るのは、かぎりなく困難ですけれど 目の前のことなら、見てわかります 地球そのものが何を考えているか こりゃわかりません 自分が見た範囲で考えるわけです これは、すべてのことに、あてはまります 退屈な話だと思いますが、実はここから興味深いことが導き出されます たとえば 地球上の日本に住んでいると、日本のことは、比較的よく知っています では アメリカのことを、詳しく知りたいとしたら、どうしますか てっとり早いのは、アメリカに行くことです 詳しく知りたいと思った国に、自由に行ければ、その国のことを知ることができます となると 人の一生を考えた時 「栄枯盛衰、老病死」は避けがたいなぁ、と感じているとします ところが その、同じ人の一生を、別の角度から考えてみると 「楽しい冒険に満ちた、興味が尽きない旅」に感じるかもしれません 自分の望む考え方を、自由にすることができれば、全く別の世界観で物事を感じることができるようになります いやいや、屁理屈ではありません 憂鬱国に住むと(憂鬱な世界観でみれば)すべては憂鬱になり 喜楽国に住むと(前向きな世界観でみれば)すべては前向きに見えます 立場を変え、視点を変えれば、解決不能にみえる問題も、解決の可能性が発見されます これを心経では 「度一切苦厄」 すべての苦と厄難を解決した と言います 心経の最初の二行ですが 「観自在菩薩」というのが、のっけに書いてあります ふつうに読めば 観自在菩薩が、深く智慧の方便(般若波羅蜜)を行う とい

心経玄談 13

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来世がある、死後の世界がある、というのは仏教にかぎらず、世界中のすべての宗教が言っていることです 「ああそうか、全員一致だから間違いない」と、単純に結論を出してもいいのですが、皆さん、それでは納得いかないのではないですか 宗教と、一般的な倫理道徳の最大の違いは、死後の世界を含めた世界観があるかどうかでしょうか 「生きがいの創造」の飯田史彦先生 などは輪廻転生を説きながら、宗教ではないと自分で宣言されてるわけですが、本の中には神様や仏様も出てくるものもあって、ボーダーライン上の人かな 「アウト・オン・ア・リム」 を翻訳した山川紘矢先生も、自分の考え方は宗教じゃないと言ってたと思います 飯田先生や山川先生のようなニューエイジ系の方たちは、宗教というと、ステレオタイプの教義に固執し、権威主義で、凝り固まった世界観だと考えているようですが、僕に言わせれば、そういう宗教に対する断定的な見解も、凝り固まった世界観なのですね まあ、これも、神話的コスモロジーで説明がつくのですが 我々は外界を感覚器官で認識し、脳内にイメージを作って生きている おなじ事物であっても、見方が違えば、人それぞれイメージも違ってくる 飯田先生や、山川先生の言い分が成立するなら、仏教は宗教じゃないと言うこともできそうです お釈迦様は死後の世界について語らなかったので、むしろ、より宗教らしくはないのですが 初期仏教には仏像がなかったことがわかっています お釈迦様が仏像を礼拝して悟りを開いたというわけではありません 仏滅後600年間(2世紀頃まで)は仏像のない時代があったわけで、現代の仏教をお釈迦様がご覧になったら、さぞかしびっくりすることでしょう 偶像崇拝を禁止するイスラムも、仏像の無い初期仏教と比較するならば、似たところが多いかもしれません スーフィーは、けっこう密教と考え方が近いですよ お地蔵様 どう頑張っても、結局、一人ひとり別々の脳内イメージを持つわけです 勝手な脳内イメージを持つな、と言ったって、別に、自分勝手なことをしたくてしてるわけじゃない 貧弱だろうが歪んでいようが、それで壁にぶち当たって、修正しながら生きていくしかない 死んでしまったら、生まれ変わってその続きを生き

国別ページビュー

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Googleで作っているBloggerの、2017/02/14 19:00 – 2017/02/15 18:00、の一日分のアクセス解析です Googleのサーバーのカウントですから、比較的信頼がおけると思っています 以前、毎日新聞で紹介されたとき には、アメリカ、日本、ロシアの順だとお答えしたのですが、順位が入れ替わって、ロシア、アメリカ、日本になりました なんと、日本は3番目です 海外からのアクセスが、日本の4倍以上あります ご覧いただいている皆様、ありがとうとうございます 多数の海外の方にご興味をもっていただいているのですが、基本、暇なときに作っている趣味的なブログですので、これからもマイペースで書いていくつもりです 中国は0です 僕のページはブロックされていて、中国では見れません これは、実際中国に行ったとき確認しました インドは時々アクセスがあります 韓国はほぼアクセスがないです オーストラリアは全く無い スロバキアは最近多くなってきました、なぜかは謎 台湾は、たまにアクセスがあります アメリカでは日系人の方に見ていただいてるのかなぁと思いますが、ロシアのアクセス数が、こんなに多い理由は全く分かりません ご覧のとおりの日本語だけのページですから もう19年ブログを書いていますが、ネットは謎だらけですね 和歌山県の片田舎のお寺に、海外の方が興味を持つとは思えないので、仏教の話そのものに興味があるのかなぁ、とも思い、仏教全般の話題を増やしてきたつもりです 仏教国の日本では、常識的な話でも、海外から見れば新鮮かもしれないので、日本の方からみれば退屈でも、なるべく詳しく解説してみたいとも思っています

心経玄談 12

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十二縁起(十二因縁とも言いますがこれば鳩摩羅什訳で、心経を訳した玄奘訳では十二縁起です)では、人間のもっとも代表的な苦である老死を、「無明が尽きればなくなるんだ」という論理で解決しようとしています 普通に考えれば、「無明が尽きる」とは、つまり「空」を体得することだ、ということになりそうなのですが その、十二縁起で説かれている「無明の尽きることによって・・・老死も尽きる」という、仏教的な救いのセオリーをも心経は否定しているわけです 否定(老死は無い)の否定(老死は尽きる)の否定(老死の尽きることは無い)で肯定と、矛盾してくるわですが まあ、十二縁起という整理のしかたそのものを、神話的コスモロジーととらえているのでしょう 理屈を積みかさねていくと、どうも、微妙に論理がずれてくるから、長い仏教の歴史で様々な学派が生まれた原因にもなるのですが、精密な理論を構築しようという努力は必要ではありますが、とどのつまりは、神話的コスモロジーの範疇であるということです 2500年におよぶ仏教の歴史で、「空」は様々に定義され、議論され、求め続けられました うまいこと説明したと思うと、それは、神話的コスモジーになってしまっているわけです これを、「 果分不可説  かぶんふかせつ」というのですが 果分というのは、ここでは「空」ですが、うまいテクニカルタームを考え付くもんです こういうことがあるので、仏教用語は便利なんです ただ、弘法大師だけは果分可説です 世界の仏教史で、弘法大師だけだと思います、果分可説は(チベットにもしかしたら果分可説を説いた人がいるかもしれません) 仏教的な常識では、法身(つまり空)は説明することができません(説明すれば、神話的コスモロジーになってしまう) 弘法大師は「法身は説法する」と説き、大日如来が直接説法しているのが真言だとしています まあ、これ、新義真言宗の覚鑁が「加持身説法」といって、「法身が、大日如来としてイメージされ構築された存在を加持して、語らせている」といって否定して、結局、高野山を追われることになったわけですが、仏教史的には覚鑁が主流派に属することになると思われます 平成29年2月15日の境内 延々と、ややこしいことを書きましたが つまりは ぱっと目をつぶった時に目の前にあるモ

精進料理

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精進料理各種  長芋のガーリックオリーブ焼きカレー風味 名古屋麩のお好み焼き 生麩と野菜の炒め煮 ニンジンと野菜のジュース 五目厚揚と長芋の煮物 がんもどき 出汁はこちらを使っています 純植物性です オーサワの野菜ブイヨン(徳用)

心経玄談 11

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無無明亦無無明尽 乃至 無老死亦無老死尽 無明は無い、また、無明の尽きることは無い 老死は無い、また、老死の尽きることは無い これは十二縁起のすべてにおいて、「無い、また尽きることは無い」と言っているわけです 十二縁起の説明は、ざっくりと省略します 必要のある方は、検索するなどしてお調べください 心経は、呪を説くための経典ですから、理論を徹底究明するのが最重要ということではありませんから 大事なところは、色即是空と照らし見ても、 老死は無い、また、老死の尽きることは無い と、 「老死は無い」としているのに、「老死の尽きることは無い」と言ってるわけで これは十二縁起で、「無明の尽きることによって・・・老死も尽きる」という、仏教的な救いのセオリーをも否定しているわけです 否定( 老死は無い) の否定( 老死は尽きる) の否定( 老死の尽きることは無い) で肯定と、矛盾してくるわですが 神話的コスモロジーの説明 にもありましたが 深層意識でのイメージはコスモロジーがあらかじめなければ、体験とならず、他者とも共有できない。宗教体験の核心には、 神話的コスモロジーが必要である 。 生きているかぎりは、神話的コスモロジーを作り続けるしかないのですが この、神話的コスモロジーは、真実そのものではありません 神話的コスモロジーは、文化的背景に導かれて脳内に作り出された印象にすぎません ですが、この印象がなければ、世界は認識されないのです 肉体が衰えるから「老い」で、いずれ「死ぬ」のだ というのは、自明の理ではありますが、脳内に作り出された印象ではあるのです 我々は、自分自身が作り出したコスモロジーに閉じ込められて、生きているのです 仏教的には、だから、瞑想が必要で、悲劇的コスモロジーから目覚めて、「空」を体得してください、ということになるんですねぇ

心経玄談 10

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ただ参道を歩くだけの動画です 編集で手ぶれ補正をかけていますので、かなりグニャグニャです ある、不思議な体験をしたとします 深層意識でのイメージ、と言ってもいいのですが これを、今は、「変性意識状態」と言います 通常の意識の経験の範囲に収まらなければ、なんでも、このカテゴリーに放り込みます たとえば 臨死体験をした 神の声を聞いた 幽霊を見た 悟りを開いた(これも「変性意識状態」に分類されてしまいます) こういう経験をすると、人に話したくなるわけですが、どのように話せばわかってもらえるのか 「えーと、雲のようなものが見えて・・・」 「川みたいなところに出て・・・」 「声が頭の中に響くような・・・」 「人の形のような・・・」 「とてつもなく痛快で・・・」 など 既知の、一般的な事象に例えるほかありません これを、専門的には、「変性意識状態を、神話的コスモロジーで説明する」あるいは「深層意識と神話的コスモロジーの一体化」と言います 「宗教クライシス」上田紀行著 岩波書店  神話的コスモロジーと深層意識のイメージとの一体化は、共同体が保持しているコスモロジーと深層意識の一体化であるから、「絶対的な私」の感覚を強烈に持ちながら、共同体とも絶対的なつながりを持っているという感覚へわれわれを開いていく。しかし、コスモロジーの行き先はあらかじめ決められているため、盲信へ閉じていく性格を持っている。  深層意識でのイメージはコスモロジーがあらかじめなければ、体験とならず、他者とも共有できない。 宗教体験の核心には、神話的コスモロジーが必要である。コスモロジーが宗教体験を可能にし、人間どうしの根元的なつながりを生み出すが、ひとつの限定された物語に収束されてしまうが故に、他の宗教や文化における根元的なつながりを理解できないのである。 神話的コスモロジーは、たとえば、同じ様な変性意識状態の絶対的存在感を、仏教文化圏なら「大日如来」、キリスト教文化圏なら「天の父」、イスラム文化圏なら「アラー」とか、その文化圏特有の既存のイメージと物語で、合理的に説明しようとして作り出される世界観です 説明は人間社会で人為的に創作されますから、千差万別、各種ある、ということになって

心経玄談 9

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最先端の脳科学や量子論が仏教と似ている、というのは大変に興味深いのですが 僕としては、あまり深入りする気にはなりません というのは、例えば、仏教の唯識論は、釈尊在世当時はなくて、仏滅後900年くらい後に、アサンガとかバスバンドゥ(4~5世紀頃)が体系的にまとめたものです この前後に大量の唯識関係の論書が作成されたようで、ナーランダーを中心に盛んに研究されました ナーランダー僧院跡 2010年2月 玄奘もおとずれた、巨大な古代仏教大学です 6世紀、イスラムによって完全に破壊されました それで、唯識と一口に言っても、長い歴史があるわけで様々な学説があります 唯識三年倶舎八年とも言って、専門家が習得するのもたいへんな時間がかかる膨大な研究がなされていて、しかも、時代や学派によって、考え方が違ったりします それが、瞑想と思索だけによって積み重ねられていますから、言葉のつながりはもっともらしくても、理屈のための理屈や、妄想に近いものもふくまれてきます 説法していると宙に浮かんだ、とか、普通に書いてあります 本当か嘘かはわかりませんが ですから、実験と観察によって得られた科学的知見と、仏教論書に書かれている概念とを照合しても、「似ている」という以上のことは言えないのです 仏教の長い歴史の中で、ありとあらゆる思考実験がなされていますから、科学者が自分の考え方に似ている学説を探せば、たいてい見つかるんじゃないでしょうか 僕も、こうやって偉そうに色々書いていますが 分野としては、「文学」だろうな、と思って書いています また、学問としての仏教文献学は、近代的な手順ではあるのですが、その内容は、「文学研究」のジャンルだと思いますよ まあ、それはそうなのですが なぜか 最先端科学と仏教は、似ているのです これは、どうしようもありません キリスト教とかイスラムでは、ありえないことだと思います 「神はこう言った、だから神が正しく、あなたは間違っている」 などといった思考回路は仏教にはありません 仏教が、神からの啓示とか、超越的な権威とかに基づかずに、自分自身の瞑想と思索に基づいて組み立てられているからだと思います 言ってみれば、「自己の観察」ですから、その部分については分析的で科学的であるとも言えま

心経玄談 8

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今日NHKの、こころの時代で、禅僧の 藤田一照師と 脳外科医の浅野孝雄先生の対談を放送していました こころの時代~宗教・人生~「心はいかにして生まれるのか―脳科学と仏教の共鳴」 最新の脳科学と仏教には共通性がある、という話で、大変興味深いものでした 大脳の各部位と、仏教の「色受想行識」は対応しているようだ、ということが分かってきたということです 「大局的アトラクター」というらしいですが、0.5秒間ぐるっと脳を一周して神経回路が働いて(色受想行識に相当する大脳辺縁部が働く)、0.1秒の隙間があって、また継続して神経回路が働く(諸行無常)のが心の発生の瞬間らしいです 0.1秒の隙間に、風が集まって竜巻になるように、小さな火が集まって大きな炎になるように(複雑系理論)選択的意思が生まれるようです 心の発見―複雑系理論に基づく先端的意識理論と仏教教義の共通性 興味深い本なので読んでみようかと思いましたが、Amazonで品切れですね けっこう高い本です フリーマン理論による唯識(vijñapti-mātratā; mind-only)の解釈 浅野孝雄   PDF こちらに、本の元になっている原稿がありますので、ご興味あればどうぞ なぜか、仏教と最新科学は、共通する部分があるのですねぇ 僕は、仏教の「空」と量子論にも接点があると指摘しているわけですが 量子( Quantum )は、観察される前の状態では「ここである状態と、あそこである状態」が共存して重なりあっている Superposition であることが実験で確認されています 観察して始めて、位置と速度を決めることができます 僕は5年くらい前にこの図を作ったのですが、最近ようやく、いろいろなところでSuperpositionが紹介されるようになってきました スーパーわかりにくいSuperpositionですが、比較的わかりやすく、興味深く説明している動画です 「重ね合わせ( superposition )という概念は、何らかの物体が同時に2つの状態で存在できる現象を意味しています これはとても妙なことで、私たちの日常生活では経験できないことです 当然、量子力学を創り出した物理学者さえも理解に苦しむ大難問でした たとえば私がここに座

心経玄談 7

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Googleで、 般若心経 と検索すると、結構上位に僕のページが出てきます 実は、密教でよく使う 円頓章 (これは天台だけ)、 本覚讃 (天台と、一部真言)、 舎利礼 (天台と真言)や 一心三観 (天台の根本思想)も、Googleで検索すると上位に僕のページがあります Google様々です 理由は簡単で、一番古くからページを作っているので、検索すると上位にあるので、どうしてもクリックしやすくなり、それで、また表示順位が上がる、という循環になるからです これからも、しばらくは、僕のページは上位に表示され続けると思われます だからなに、なんですが 僕のページにはある特徴があります それは、経典の図解です 般若心経 解説    模式図解説 円頓章 解説 本覚讃 解説 舎利礼 解説 一心三観 解説 こうして並べてみると、似たような図です 同じ仏教ですから、似たような図になって当たり前と言えば当たり前なんですが 唯識観と空観 仏教が、「唯識観と空観」を基礎に成り立っているから、経典を図解してみると、みな似たような図になるのです 心経も、ですから、図解してみても、仏教の伝統を踏襲した構造になっていることがよくわかります 図示してみるもんです そして、仏教と、プラトン哲学と、量子論は、図示してみると同じような形になるのです Quantum Sense 宗教や哲学が真実を説明しているなら、現代の物理学とどこか接点が有るはずです それが量子論なんですねぇ リンクをたどれば、過去に書いたことに行けますので、ご興味あればご覧ください ですから 宗教的な祈りとか、哲学的な深い洞察などが、物理的世界と繋がっていて、なんらかの作用を及ぼす という考え方も 妄想とか思い込みではなくて、探求してみる価値のある分野ということになるのではないでしょうか