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11月, 2012の投稿を表示しています

自灯明 法灯明

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=豆知識= 自灯明 法灯明 じとうみょう ほうとうみょう (涅槃経) これも、お釈迦様の遺言です 最後の言葉とされています 自らを灯明(暗闇を照らす明かり)とし、法(自然の法則など)を灯明とせよ 「なにか自分以外のものを信じろ」とか、「王様に従え」とか、言いません 「ひとに優しくせよ」とも言いません ややこしく考えなくても、我々は皆、自分がいいと思ったことをして生活してます 間違いもあれば、失敗もします いいと思ったことでも、よくなかったことなど、いくらでもあります 誰かが助けてくれることもあるし、教えてもらうこともありますが、なにを言ったところで、最後は自分でするしかないのです 自分で出来る範囲が、つまり、自分の人生です その自分を信じるのはいいのですが、傍から見ればとんでもない犯罪を、犯す人もいるのです なんでもかんでも、自分を信じていていいのか・・・ 世の中、バッラバラになるじゃないか・・・ それはそうなんですが、そうやって人は生きているのです   間違いを犯し、失敗する人間ですが、その間違いを悔い、失敗を反省するのも人間です 間違いから学び、失敗から経験を積み、振り返ってみれば、前に進んでいるのではないですか バランスをとろうとする力 正常に回復しようとする力 幸せを求めようとする力 そういう力が、欲望とか損得勘定とかとは別に、あるのではないでしょうか 人の心の底の、そのまた奥深くに、どうしようもなくある、智恵だと思います 智恵に素直になれるかどうか、これ、問題です ただしかし、自分の心の中に智恵がある それを忘れちゃいけませんよ、と その智恵を、仏教では仏性と考え、西洋哲学ではソフィアと考えると   「一切衆生 悉有仏性」と「自灯明 法灯明」が対になって、仏教の背骨になっているのです         

日本最初のパイプオルガン

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上御成門と紅葉 =豆知識= 日本最初のパイプオルガンを輸入したのが、紀州徳川家16代当主の徳川頼貞様です 東京の上野公園の片隅に残る、旧東京音楽学校奏楽堂(重文)に、今もそのパイプオルガンがあり、使われています 奏楽堂 http://chohoji.blogspot.jp/2009/07/blog-post.html 「奏楽堂の華は華麗なるパイプオルガンです。徳川頼貞侯爵が創建した南葵楽堂のために、大正3年(1914)に英国アボット・スミス社に発注されましたが、第一次世界大戦のため完成は大幅に遅れました。大正9年(1920)11月に披露演奏会が開催され、わが国初のコンサート用オルガンとして注目されましたが、その後の大正12年(1923)の関東大震災で南葵楽堂が破損し使用不能となったため、昭和3年(1928)に頼貞氏より東京音楽学校に寄贈され、同奏楽堂に移設されました。」 旧東京音楽学校奏楽堂ホームページより抜粋 http://taito-culture.jp/history/sogakudo/japanese/sogakudo_03.html 動画で解説されています http://taito-culture.jp/flv/sogakudo.html

日本仏教の流れ

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参道の紅葉 =豆知識= 日本の仏教は、「 壮大な伽藍 」から始まり、平安時代に「 山岳仏教 」になり、中世に日本的な発展を遂げつつ「 地方へ伝播 」していきました 江戸時代に「 檀家制度 」が確立し、今日では「 各家庭に仏壇 」が置かれるところまできました 中央集権的な時代には「 壮大な伽藍 」で国家の威信を示し 平安時代には「 山岳仏教 」で貴族の祈祷道場としての霊力を求められました それが鎌倉時代にはいると、「 地方へ伝播 」し、地方にも中央に拮抗するような勢力が芽生えはじめ、仏教の大衆に向けた発展が加速され、中規模な寺院が日本全国に作られました 江戸時代には封建社会を固定化するために、各村落にも寺院が作られ「 檀家制度 」が浸透し「 各家庭に仏壇 」が置かれました 寺院は国家から地方、そして小さな村落へと変化しつつ発展してきました。そして今は各家庭に仏壇が置かれるようになり、違和感無く我々の生活に溶け込んでいます。 つまり、 大⇒中⇒小 と流れてきているわけです で、次なる発展は、 国家中枢⇒上流階級⇒地方豪族⇒地域社会⇒家庭 ときて、こんどは 個人 でしょうか たとえて言えば、 大規模通信設備⇒公衆電話⇒固定電話 の次に 携帯電話 がきたように、 仏教の個人化 がくると考えられます 日本仏教は歴史的にはどうしても上意下達の権威主義とセットになっていました 権威の中心は特権階級から徐々に大衆に開放されてきたのです 寺院の性格が国家中枢(法隆寺や東大寺などの大伽藍に代表される)⇒上流貴族(比叡山や高野山など)⇒地方豪族(鎌倉期の地方の大寺院)⇒地域社会(檀家寺)⇒家庭(仏壇)ときたら次は⇒個人ということになるのですが、はて、これがどんなものになるのでしょうか?

一切衆生悉有仏性

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=豆知識= 一切衆生悉有仏性(涅槃経) いっさいしゅじょう しつうぶっしょう 一切の生あるものに、ことごとく仏性あり この言葉が、お釈迦様の臨終の時の遺言です 生きとし生ける者に、すべて、仏となる性質がそなわっています 虫でも魚でも、猫や犬でも、もちろん、全ての人間にも どのような人にも、心の奥底に仏性があります 仏性があるから、先ずは、自分を信じることが必要です 「仏菩薩を尊敬し 八百万の神を尊敬し イエスキリストを尊敬し アラーの神を尊敬し 自分を信じる」 世界のどこに行っても、これで誰とでも友達になれます 「信じるに値する自分」になる努力が必要だ、ということでもあります 朝起きて、誰かが代わりに便所に行ってくれるわけではありません 腹が減って、誰かが代わりに飯を食ってくれるわけでもありません 生きていくのは自分なのです 自分を信じられない人は、他になにかを信じることはできません 自分を信じられない人は、誰かを信じているようで、それは盲目的に依存する「おすがり」です    

破地獄偈

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=豆知識= お釈迦様は、特になにもしなくても、無条件に僕らのことを念じてくれています 毎自作是念、如何令衆生、得入無上道、速成就仏身(法華経、自我偈) まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん つねに自ら(お釈迦様が常に自発的に)この念をなす、如何がして衆生をして、無上道に入ることを得しめ、速やかに仏身を成就せしめんかと これを「破地獄 偈 はじごくげ」とも言います 救いを求めることも、祈ることも、念じることも忘れてしまった地獄の亡者ですら救う経文です    

梵網経

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=豆知識= 「汝是當成佛。我是已成佛。 常作如是信。戒品已具足。」 汝は、まさにこれから仏となる 我(お釈迦様は)はすでに仏となれり 常にかくのごとき信をなせば 戒はすでに具足している(梵網経) いつか仏となる、と信じていれば、全ての行いは自ずと身に備わります 誰も見ていないところでも、いいことをするようになります 「仏になる」と決意することが、一番重要です 一度決めたら、絶対に後に引いてはいけません 何回、何十回生まれ変わってでも「仏になる」と決めれば、必ずなれます 僕らは、過去を書き換えるために生まれてきたからです 細々したことは、後から整っていきます  

国宝修理報告書

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現在、国宝修理工事の報告書を編集中です この報告書は、非売品で全国の公立図書館などに配布されます 修理工事全般に言えることだとは思いますが、「どこをどこまで直すか」というのは、現場でやってみなければ結論がでません 今回の修理でも、当初の計画外のことが、様々にありました どのような仕様にするか、議論があったものもあります また、かなり思い切った修理仕様を採用した部分もあります それらのことは、全て、この報告書に書かれています 熟読して、行間を読み取っていただけば、国宝修理の現場の空気の一端に触れていただけると思います 修理に携わった者一同、「現在できる最高水準の仕事である」と自信と誇りを持って、なんら恥じることはありません 後世、批判や疑問もあろうかと思いますが、その批判の材料としていただくために、この報告書があります 日本国の文化の発展のために、お役立ていただけるものと信じています     

七仏通戒偈

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=豆知識= いいことをする人は、いい人 わるいことをする人は、悪い人 だから、いいことをしましょう これは、七仏通戒偈 諸悪莫作 悪い事はしない。 衆善奉行 善い事をする。 自浄其意 すると心は清らかになる。 是諸仏教 これが仏様の教えです。 なのですが 他人の悪口を言っても、偉い人にはなれない 偉い事をする人が、偉い人である という事でもあります また 生まれによって偉い人ではない 行いによって偉い人なのである(法句経) という意味でもあります  

癒される瞑想の模式図

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癒される瞑想の模式図 見える、聞こえる、感じるなど、感覚器官でとらえた印象が脳内イメージになって、世界を認識しています 脳内イメージは、各人各様、すべて独自のものになります しかし、感じる前の世界は、たった一つしかありません 生滅も垢浄も増減もない、時間と空間のない完全無欠な世界です 自分が感じた世界は、自分だけのものです 感じる前からある、ありのままの世界とは違います 自分の作り出したイメージに捉われることを、我執と言います 苦しみや悩みは、自分がいる、という我執が根本原因です 感覚器官で感じる前の、ありのままの世界そのものが、自分というフィルターが介在しない、真実の世界です 今自分が感じている、苦しみや悩みが、全くない世界です 苦しみや悩みを 救う力 は、感じる前の世界にあります その力に気づくのを、悟り、と言います わがこころ、吾心ですね 見る側の我々と、見られる側の世界との間には壁があります この壁を超えるのが「慈悲の感触」です ここでは、光と言っておきます 「慈悲の感触」だけが至高の心に繋がっています あなたが、全力で誰かのために働く時、自分自身の中にある、至高の心に出会えます 普段は感覚器官によって切り取られた、自分の脳内世界を自分自身であると思い込んでいるのですが(つまり我執)、実際の自分自身は感じられる前の「至高の心」そのものなのです(これが悟り) 心の重点を、私利私欲に置けば、迷いの世界が深まり 利他公益に置けば、「至高の世界」に直結する、と単純な理屈です 実は、「至高の世界」に気づけば、「死」の意味も変わる、ということですね 癒される瞑想の仕方  あなたが一番信頼する光に意識を集中します リラックスして 目をつぶって ほほえんで( 大事なコツです ) 無条件に全てを赦し救う心を感じながら 静かに息を吸って   無条件に全てを赦し救う気持ちで 体の力を抜きながら 息をゆったり吐きます それを繰り返して 光だけになります   疲れてきたらやめて 光に感謝を伝えます

基本構造は同じ

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皇帝ダリア =豆知識= 実は、仏教と西洋哲学と物理学は、基本構造が同じです まあ、お互い真理を説明してるのですから、そうなるわけですが 我々は、自分を取り巻く世界を感覚器官を通じて感じて(学習や経験)、脳内に自分の世界を作って生きています 時間や空間や自分がいるという意識は、脳内に作られたものです 目をつぶっても世界は無くなりません 感じる前の世界が、本当の世界です 本当の世界は、一つしかありません 般若心経では、感じる前の世界を「不生不滅不垢不浄不増不減」 「生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず」と説いています 西洋哲学では、イデアを「ものごとの真の姿」であり判子のようなもの、エイドスを「形」とか「図形」であり押された刻印のようなもの、と考えています 物理学では、量子(Quantum)は、観察される前の状態では「ここである状態と、あそこである状態」が共存して重なりあっているSuperpositionであることが実験で確認されています 観察して始めて、位置と速度を決めることができます くわしくは、こちらのリンクをごらんください Quantum Sense http://www.chohoji.or.jp/i/qs.htm

世襲批判は、差別ですよ

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色づいた紫蘭の葉 こう書くと異論もあろうかと思いますが 二世議員批判って、 差別 じゃないですか 本人の、能力、意欲、周囲の評価、を全く無視して、生まれだけを問題にして差をつける これを差別という、と習ったのですけど 親の跡をついで仕事をしている人は多いと思うが、例外なき世襲批判など、心外だと思いますよ 選挙にたいする思惑がお在りの方もあるとは思いますが、とんでもない方向に脱線してるんじゃないですか 酷さ比べをするなら、世襲でも世襲以外でも、酷い奴は酷い 酷いのを選ぶのも、どうかしてる それを「世襲だから悪い」と、いき過ぎた一般化をして、政治的に利用する勢力があるので、それを差別だと申し上げています 選挙が近づけば、もっと色々話題が提供されるのだろうけれど、政策論と国家観の、まともな論戦を期待しておきます   僕の親父は普通の商売人で、僕自身、寺で生まれ育ったわけではありません それで、坊さんになる時、周囲のほとんどが世襲坊主なので苦労した まず、話が合わない むこうは最初から自分の寺があるが、こっちは風来坊 寺にいれば生活常識でも、こっちは一から教えてもらわねばならない 寺で生まれれば、知り合い、親戚、友人に寺関係が多いが、こっちは無縁 などなど だけど、ぶっちゃけ言うけど、親父のやっていることを子供の時から見ているんだから、「本人に能力があれば」という重大な条件がつくけれど、寺で生まれ育った者のほうがセンスがある これは、僕は高野山にいた時に行者の監督をしてたから、実感として、そう断言できる まあ、ただ、やる気がなければ、どのような世界でもそうだと思いますが、ダメです 世界的に消えずに残るブランドなども、個人の名前が残っているものが多いようにも思いますね なんにでも、負の一面はあるけれど、差別はよくないよ    

般若心経の模式図

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ヤツデ =豆知識= 般若心経の模式図  http://www.chohoji.or.jp/houwa/hz.htm  

大門の比較

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長保寺 大門 1388 国宝 奈良 喜光寺 南大門 2010新築 http://www.kikouji.com/ 喜光寺の南大門は、長保寺の大門とほぼ大きさが同じなので、建てる前に長保寺に見学に来ました(テレビの「ガイアの夜明け」で紹介されました) 今回の国宝修理の施工会社は金剛組ですが、たまたま、喜光寺の施工も金剛組です 軒の張り出しを観察するとわかりますが、長保寺のほうが軒が大きく張り出しています 喜光寺の設計をしてみたら、構造上、長保寺のように軒を大きく張り出すには無理があることがわかりました そのため喜光寺の南大門の軒は、長保寺に比べれば、張り出し方が少なめに建てられました 今回の長保寺大門の修理では、重さで垂れてきている軒先をいくぶんか持ち上げましたが、長い年月で、木そのものが曲がってきているため、完全に元通りにはなっていません それでも、強度よりも美観を優先した意匠の長保寺の大門は、無理をしつつも600年以上、風雪に耐えているのですから、まあ、たいしたものなんでしょう 長保寺の大門には、鎌倉時代の、遠慮の無い、思い切った気風が感じられますね  

現代の技術の駆使

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長保寺大門(ちょうほうじ だいもん)1388 国宝 =豆知識= 軒が大きく張り出しています 構造上は、かなりの無理がありますが、美観が優先された意匠です 600年を超える年月の間に、軒が徐々に下がってきていたのを、今回の修理では、小屋組の中に鉄骨を入れて、これ以上、下がらないよう補強しました 鎌倉時代の技術だけでは、木自体が曲がってきているので、補強ができません 鉄骨の強度については、鉄材の厚み、ボルトの位置など、複雑な構造計算がされています 現代の技術を駆使して、文化財が守られているのです  

多神世界

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長保寺鎮守堂 (1295 重文) 御祭神は東照権現様 もともと八幡様でしたが紀州徳川家が長保寺を菩提寺に定めたとき、八幡様に御遷座いただきあらたに神社を建立し、こちらに東照権現様を勧請いたしました =豆知識= 「多神世界」という言葉をご存知でしょうか 多神教という言葉は聞いたことがあると思います キリスト教やイスラムのように、唯一の神を信仰するのを一神教、神道やヒンドゥーのように多数の神を信仰するのを多神教と言ったりします 一神教を信じる人は、多数の神の存在を認めない、もしくは無視します しかし、認めても認めなくても、世界各地で様々な神々が信仰されているという現実があります その信仰を力ずくで奪うことはできません 好むと好まざるとにかかわらず、我々が、今、生活している世界は、多数の神々が存在している「多神世界」なのです 自分の信じる神の都合だけ、教えだけで世界を理解することは不可能なのです 「多神世界」をどう生きるかを考えなければ、独りよがりになってしまうのではないでしょうか    

中世の寺の代表

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=豆知識= 和歌山県には、国宝建造物が7棟あります そのうち3棟が長保寺です 金剛三昧院多宝塔(高野山) 伽藍不動堂(高野山) 根本大塔(根来寺) 釈迦堂(海南市善福院) *本堂(長保寺) *多宝塔(長保寺) *大門(長保寺) ちなみに、本堂、塔、門とお寺の三役がそろって国宝の寺は、奈良の法隆寺(金堂、五重塔、南大門)と長保寺だけです 法隆寺が古代国家の寺の代表なら、長保寺は地方文化の誇示が始まった中世の寺の代表です    

一条天皇の勅願寺

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=豆知識= 長保寺は、紀州徳川家の菩提寺ですが、徳川家がつくったお寺ではありません 長保二年(1000)にできたから、その年号をいただいて、寺の名前にしています 長保という年号をくださったのは、その時の天皇である一条天皇です 一条天皇のお后である定子皇后のお付きの女官が「枕草子」を書いた清少納言、彰子皇后のお付きの女官が「源氏物語」を書いた紫式部です 本堂(国宝)、多宝塔(国宝)、大門(国宝)、鎮守堂(重文)といった主要なお堂が完全にできあがっている寺を、紀州徳川家がご自分の菩提寺として定めました

「お経」という言葉の「経」の意味

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=豆知識= 仏教には、法華経、阿弥陀経、般若心経、理趣経など、いろいろな経典があります いわゆる、「お経」です その「お経」という言葉の「経」に、どのような意味があるのかご存知ですか 「経」とは、織物の「たて糸」、という意味です 織物は、たて糸と横糸で織り合せていきますが、先ず、たて糸を張っておいて、横糸を交互に通し、布を織ります 地球の緯度と経度の経度は縦線ですね では、横糸は仏教にはないのか 仏教の考える横糸は、今のあなたの、「行い、言葉、思い」です たて糸と横糸で、人生が織り成されていきます たて糸も大事なことは大事ですが、横糸の、あなたの「行い、言葉、思い」も、とても大事なのです  

長保寺鎮守堂

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祭神 東照権現  1295 国指定重要文化財  

鎮守堂に白砂を入れました

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砂を入れ終わった鎮守堂(1295 国指定重要文化財) 早朝に三重県から砂が届きました 全部で約5tあります 駐車場で積み替え作業をしました 京都の白川砂は採取禁止です どこの寺院も白川砂に似た砂を探すのに苦労しています 白くて綺麗な砂が、なかなか無いのです これは、袋に新白川砂と書いてありますが、三重県で採取されたものです 本物の白川砂をいつも見ている人でなければ見分けがつかないと思います 綺麗に洗って袋詰めされて、極めて品質がいいです これからは、安心して使えます 鎮守堂の周囲に敷き詰めます  白さが自然で、綺麗です

仏教の「仏」という言葉

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=豆知識= 仏教の「仏」という言葉は、サンスクリット語のbudhという言葉の音を漢字にしたものです budhは「目覚める」という意味です 自分が自分に目覚めるのが「悟り」で、これは文字を分解すると「吾が心」となります ですから、「自分を信じ、すべての神仏を尊敬する」のが仏教の基本ということになります  

ヤマガラ

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お堂の中にヤマガラが飛び込んできました 照葉樹林(常緑広葉樹林)でよく見かける小鳥です 昔は、芸を覚えさせて、おみくじ引きなどをやらせたそうです しばらくお堂の中を飛び回っていましたが、山に帰りました  

十夜会(じゅうやえ)が行われました

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本日、長保寺御霊屋で、884年続く念仏法要の十夜会がおこなわれました 御霊屋の様子 焼香台 江戸時代から使われています 廊下の様子 廊下から玄関側を見た様子  

中外日報でLEDが紹介されました

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中外日報 平成24年10月27日

ツワブキが咲いています

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今が、ツワブキの花の最盛期です  

六代藩主前の倒木を片付けました

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紀州徳川家六代藩主の廟所です この玉垣(たまがき、石で出来た柵)の前庭に倒木がありました やや細い木ですが、道をふさいで倒れています 石灯篭がなぎ倒されています 倒木を撤去した後の様子 石灯籠はご覧のとおり、ばらばらになって倒れています 左にあるのが、倒れてきた木 石灯篭は大きいので、ちょっと立て直す目処がつきませんね