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3月, 2010の投稿を表示しています

日本寺 ブッダガヤ

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ブッダガヤには,世界中の仏教国の寺院がありますが、もちろん、日本のお寺もあります 最近では、新興宗教などが盛んに寺院を建設していて、インド各地に日本の建てたお寺があります 日本寺は全日本仏教会が建てたお寺で、住職は各宗派回り持ちで、今年の当番は天台宗です 92歳になる半田座主も、ここまで来て普山式をしました 建物の中は薄暗く、日本式ですな 申し訳ないけど、壁画が不気味です インドの人は日本仏教に、どんな印象を持ちますかね どうも、侘寂(わびさび)は日本人だけです 世界中どこでも、宗教建築はギンギラが多いです キリスト教の教会はステンドグラスなど光を取り入れる設計が特徴ですが、仏教は、それは無いんですよ キリスト教は「仏性が全ての人にある」、とは言いません 神は一人で、我々は「迷える子羊」です で、神のイメージが、建物に差し込む太陽の光です 仏教は、各自の心に「仏性」があって、各自の知恵で自分の「仏性」に気づく、というのが基本コンセプトです まあ、密教は、そこに仏の助けがある、となってきますが、基本は同じです で、自省する、坐禅する、といった自助努力が重視され、外光を取り込むよりも、薄暗い瞑想的な空間が作られていると 僕的には、せっかくのブッダガヤですから、大塔にお参りに行けばお寺を建てる必要はないと思えるのですが、どうでしょうか 立派なお寺ですが、半分以上、意地の張り合いのような気がしますね  

ブッダガヤ

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釈尊が悟りを開いた地、ブッダガヤ ブッダガヤには世界中の仏教国のお寺があり、管理委員会があって、管理されています 他の仏跡と違い、遺跡として保存されているのではなく、お寺になっています 大きな塔がありますが、イスラムの侵入の時、当時の仏教徒が埋めて逃げたのを、イギリス人のカニンガムによって発掘されました だから、周りは小高い丘になっていて(埋めた土が山になっている)、階段を下りてお参りします これも、イスラムの傷跡ですね どうなんでしょうね、今のイスラムの方は、こういう状況を知ったら、誇りに思うんでしょうかね インドではイスラムの人口も多く、ヒンドゥーやイスラムの原理主義者を刺激しないよう、隔離するようにしているみたいです ヒンドゥーの大きなお寺の前には警察官がいて、検問しています イスラム寺院は、イスラム教徒以外は中に入れないのが建前です 観光客は大人しくしていれば入れてもらえますが、地元の人はどうなんでしょうね 仏教徒は、このブッダガヤでも、各人各様にお参りしていて、多様性と言えばそうだし、まとまりが無いと言うこともできます それが、世界に広がった要因でもあるのでしょう 塔の中には、立派な釈尊の像があります タイ式の仏像ですね これは降魔成道の像と言って、右手を触地印(手を伏せて指先で地に触れる)にしていますが、この塔の裏側に悟りを開いた場所である金剛宝座があって、そこにも降魔成道像があります 金剛宝座は、15年前はその横に座ってお参りでき、降魔成道像も間近で拝見できましたが、オウムの麻原が、その金剛宝座に上り、釈尊の生まれかわりだ、とやったもんだから、今では厳重に柵をして近寄れなくなってしまいました 金剛宝座の横に、仏足石があって、10年前には各自ここで拓本を自分で取ることができましたが、なにかあったんでしょうね、今はガラスケースで覆われています だから、この拓本も、お手元にあるなら、貴重品でしょうね

有余涅槃とポジショントーク

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クシナガラ 涅槃堂 肉体を持っている状態で悟りを開くと、まだ完ぺきな状態でないということになって有余涅槃だということになります 肉体を捨てる(つまり死んで灰になる)と無余涅槃で、余すところなく、悟りの状態だと 肉体があるうちは、生きることにまつわる煩悩から完全に解放されないと考えるからです 釈尊は、ブッダガヤーで悟りを開いて、もうそのまま涅槃に入ろうとしたと伝えられています それを、梵天が現れて、ぜひ衆生に説法してほしいと頼んで、長い伝道の道に入りました 無余涅槃にすぐ入ろうとしたのを、引きとめられて、有余涅槃を続けたわけです 株式相場の用語らしいですが、 ポジショントーク という言葉があります 株が上がるか下がるかよくわからない時、自分が株を買って持っていると、「株は今後上がるでしょう」ともっともらしく解説し、自分が売っていると、「株はもう駄目です。下がります」と解説します 自分が買っているか売っているか(これをポジションを持つ、と言う)で、自分に都合のいい話をするのです そういうことがあるので、たとえば、日経新聞の記者は自分で株をすることは禁じられています 勝手に、自分に都合のいい記事を書かないためです それと、自分が買って持っていると、どうしても、上がる材料のほうを評価してしまうのです 不利な材料が出ても、正しく分析できなくなってしまいます たとえば、同じようなことは、戦争報道にもあります 誰でも自国の軍隊が有利なような話を好みます 負けて敗走しても、転進などと無意識に言い換えてしまったりします 身内のことや、自分の子供でも同じです どうしても身びいきします それが、むしろ自然です 客観的に考える、などと言えば、「冷たい奴」ということになります それで、肉体がある、というのは、つまり、ポジションを持っているということです 自分に都合のいい話をどうしても過大に評価します 肉体を維持するためには手段を選ばぬ、ということにもなります 古神道では、肉体のない自然霊のほうが格が上と考えるらしいですが、まあ、一理あります では、なぜ、釈尊は有余涅槃を選んだのか 梵天に頼まれたというのもあるでしょうが、すぐに無余涅槃に入ってしまえば、人々が真実に触れることができず、闇のなかに取り残されるからです 説法

バーナーラシー

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サールナートはガンジス川の近くで、バーナラシーの近くです バーナラシーはインド人にとっては、火葬した灰を流す聖地です 川縁で火葬するだけでなく、各地で火葬しても灰はこちらで流します インドは広いですから、どうしてもバーナラシーにこれない人は、近くのガンジスにつながる川に灰を流すそうです どうしてもバーナラシーにこだわるので、全国から人が集まり、川の近くは朝からたいへんな雑踏です インドの人はガンジスの水を聖水として、お土産にもって帰りますから、水の入れ物も各種売っています まあ、かなりの量の人骨と火葬の灰が川底にはあると思われますが、焼いているわけで、清潔といえば清潔ですね インドの仏跡を巡拝すると、サールナートの近くということもあって必ず立ち寄る所ですが、仏教とは直接関係はないですね

サールナート

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サールナートは、釈尊が悟りを開いた後、5人の修行者を相手に初めて説法した場所です 立派なストゥーパがありますが、ここは発掘調査され、てっぺんから下に向かってトンネルを掘ってみて、結局、仏舎利が無いことが確認されています 18世紀にサールナートにある他のストゥーパ跡で仏舎利が発見されましたが、その時は値打がわからず、近くのガンジス川に流してしまったそうです ちなみにイスラムの王様です ガンジスは、より清くなったことでしょう この白い服の集団のいるあたりが、仏舎利が見つかったとされる場所です この人たちは、タイから集団でお参りに来た人達で、右端の黄色い衣の人が引率のお坊さんです 現在、タイからの団参は、仏跡地で、ある種有名です この人達は、他の参拝客にお構いなく、ハンドマイクで延々2時間位説教し続けます 陣取ったら、動きません 人が拝んでいる前を平気で横切ります 熱心なのですが、つまり、自分の都合しか考えていません テーラワーダ仏教の本質はどうあれ、「小乗仏教で自分の救いしか考えていない」と言われてもしかたないですね お参りの姿勢に現れてます ガイドのシャルマさんも 「あー、またタイ人だよーー。タイ人が来てるよーー。」と叫びます けっこう、あちこちの仏跡で出会います サールナートには、博物館があって、非常に貴重な仏像や彫刻などが展示されていますが、今は全く撮影が許可されていません その博物館に初転法輪の釈尊像があります 全く別格で展示されています 博物館の中ですが、皆が礼拝しています この写真は、まだ撮影が許可されていた10年以上前のものです 貴重な写真になりましたね 微笑んでいます 僕はこの仏像を見て、日本にある、いかつい顔をした仏像はローカルルールであって、微笑んでいるのが本当だと確信しました 仏像を初めて作ったガンダーラでも、仏像は皆、微笑んでいるのです ストゥーパの横にテーラワーダ式の寺院があり、日本人画家の壁画があります 戦前の絵だそうで、なんとなく仏様の顔が怖いですね

涅槃堂 クシナガラ

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2010年2月15日にお参りいたしました 涅槃堂は釈尊が涅槃に入られた場所に建てられています 沙羅双樹の間で涅槃に入ったとお経に書かれているので、日本人が公園に沙羅の木を植えました その木の間で涅槃に入ったので、双樹と言うのです 内部は10年前と変わらず、昔のままです 涅槃像は、グプタ時代(5世紀頃)のものです かなり大きな像ですが、タイに行くともっと大きくなります なぜか涅槃像は大きいのです 涅槃という概念を表そうということでしょうか 仏教では、悟りを開いた釈尊を 有余涅槃(うよねはん)、入滅後を無余涅槃(むよねはん)と言って、肉体のあるうちは完全な悟りの状態ではなく、肉体が消滅した後を完全無欠な悟りの状態と考えています そう考えれば、クシナガラが仏教最高の聖地ということにもなります 肉体は移ろいゆく限界がありますが、肉体を捨てた後も意識が存在するなら、死による限界はありません キリストの復活も、キリスト教にとって、どうしても必要な事跡ということになりますね 仏教では、仏性が全ての生物にあるとしていますから、涅槃の世界は、誰にでもあります 釈尊のクシナガラにおける最後の説法は「 一切衆生悉有仏性 」です 「今の僕らの意識は空から肉体が借りてきたものだ」、と考えてみると、死は意識をまた空に返すだけということになります 葬式、法事、お墓、仏壇など、すべて、意識の不滅が前提に成り立っています 輪廻転生も意識の不滅があれば成り立ちます 妄想を抱いたまま死んでしまうと・・・・妄想世界に行きます 悟りを開いてから死ぬと・・・・・涅槃です 仏教は、普通の我々が死ぬと、生きていた時してきたことに従って、輪廻転生すると考えています 実は、ここのところはヒンドゥー教といっしょです ヒンドゥー教では、貧乏に生まれたのは前世の報いだから、死ぬまで貧乏階級でいなければなりませんが、仏教は、生まれが悪くても生きているうちに挽回することもできると考えています(これが画期的な考え方なのですねぇ) 仏教の考え方を延長すると、神様も悪いことをすると地獄に行く、ということになります もちろん善いことをすれば、善い神様のままですけど お堂は綺麗に塗り直してあります 丸いドームは涅槃に立ち会ったアーナンダのストゥーパです アーナンダは川の真ん

クシナガラ

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お釈迦様の涅槃の地です 公園として綺麗に整備されて、地元の人たちがたくさんピクニックに来ています これも10年前には考えられなかったことです サリーが綺麗です 田舎のほうがサリーが多い印象ですね 畑仕事も普通にサリーでします クシナガラには、新しいホテルも続々と出来ていて、各国のお寺も建ち並んでいます 全く様変わりしてしまいました ほんとに、なんにもない所でしたからね 新しくできた、ロイヤルレジデンシーホテル 法華ホテルと同じ系列です ガイドのシャルマさんは、このグループの社員です 切れている電球はないし、水洗トイレの水はちゃんと流れるし、世界標準のまともなホテルです

般若心経の霊験

昨日、テレビをみていたら、カンブリア宮殿で亀田製菓が柿ピーを10年間絶えず改良し続けている話をやっていました だから、ベストセラーなんだと そうかー で、僕も、 般若心経のページ にちょっと手を加えました これから少しずつ、あちこちのページも同じように手を加えようと思います 手を加えたのは、赤字の部分などです 「それで、結論的に言うと 羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶を唱えると、「向こう岸に至る智慧」に集中できる、ということですね これは、お経によって定義されたルールですから、茫漠とした空の中から「向こう岸に至る智慧」が呪によって選択されて現前します 」 般若心経は、空について説かれています 哲学的な空についての説明もありますが、実際は、哲学が知りたくて般若心経を読む人はほとんどいないでしょう 読誦して功徳がある、霊験がある、ということを目的に唱えられています なんにもなければ、とっくに廃れてます その霊験の引き金が呪です 空ということを言えば、たとえば、地球の裏側の人たちから見れば、我々の存在は空の中です 見る、聞こえる以前の世界の総称が空ですから、漠然と、広すぎる概念です で、その空には整然とした秩序があり、ルールに従えば、空の中から実際的な力を取り出せる、というのが密教です 主たる方法が、呪です 般若心経によれば、呪には2種類あり、それは「精神集中」と「呪文」です それで、般若心経を読誦すれば、「精神集中」と「呪文」により、霊験がある、と 呪が仏によって定義され示されたから、間違いなく空の中から約束された力を取り出すことができます それで、もう2500年にわたって読誦され続けているということですね  

ルンビニー園

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ルンビニー園は広大ですから、車から降りても1kmくらい歩かないとマヤ堂遺跡までいけません ごらんのとおりのリキシャー(日本語の人力車が語源)で移動します 往復で100ルピー、お参りの間待たせたので20ルピーチップを追加 「あなたはリッチマン、おいらはプアーだ」とか言うから、「ノープロブレム」と言ったら、笑ってた どのみち、ネパール社会をどうこうすることなど一介の巡礼にはできません せいぜい皆さんもルンビニーにお参りして、リキシャーに乗ってあげてください 参道の一角にお土産物屋が連なっています こういうことは、日本人が教えるらしいです チベット式の仏具とヒンドゥー式の道具ですね 数珠は、日本に帰ってから作り直さないと、具合がわるいです ぼろバラックですが、延々と、こんなもんです これが普通ですよ 廃墟かと思うと、学校だったりします お参りを終えてホテルに帰ると、野生のクジャクが迎えてくれました 幸先の良い感じです    

マヤ堂遺跡 ルンビニー

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ネパールのルンビニーのマヤ堂遺跡です たくさんの人がピクニックに来ています 遺跡と言うことにしましたが、つまり、発掘調査した遺構の上に建てられている、鞘堂なのです 覆い屋ですね お釈迦様の生誕地ですが、発掘調査するまで、インドのピプラワという説もあり、結論が出ていませんでした ピプラワからは、仏舎利も発見されていて、この仏舎利は、現在デリーのインド博物館にあり、誰でも拝観できます 最近の発掘で、生誕地の印のマークストーンがマヤ堂遺跡で確認され、いちおうの決着となりましたが、このマークストーンも、表面がイスラムに削られてしまっていて字は読めません お堂の内部はご覧のとおりの遺跡そのものです 渡り廊下が造られて、遺跡を踏まずに見ることができるようになっています 10年前は立派なお堂があって、お寺の風情でしたが、ほんとの学術的遺構にしてしまいましたね 中央部に昔のマヤ堂にあった、お釈迦様の誕生を彫ったレリーフがありますが、昔のマヤ堂の高さに合わせて展示してあるので、見上げるような位置になってしまっています これも、イスラムに削られています 普通に考えると、まったく、イスラムは仏敵ですね キリスト教が苦労したのもわかりますよ なんのこっちゃわからないと思いますので、日本人が大理石で復元したのがこれです 今は、ルンビニー園の中の日本寺にあるそうです 復元品ですから、遺跡には置いてもらえないのでしょう ま、このように、ただの遺跡になってしまったかのようですが・・・・ 圧倒的な、釈尊の存在感があります ビリビリと痺れるような強烈な霊気が籠もっています お堂の裏手にアショカ大王の建てた記念碑があります 「神がこの世に生まれた」 思わず口からもれた、感動の言葉が刻まれています お堂の中では、ローソク線香は使えないので、こちらにお供えするようにしてるみたいです まあ、お参りはしにくくなりましたね

ルンビニー法華ホテル

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ネパールのバイラワー空港から1時間ほどのところに、ルンビニー法華ホテルがある このホテルは、10年ほど前は日本人経営の法華ホテルの系列だったが、それをインドのホテルチェーンが買いとってインド人経営になっている 前回行った時は、日本人のマネージャーがいたが、今はインド経営になったせいもあるが、このあたりの夏の気候は日本人にはきついせいか、、今はいない それでも、食事は、単粒米のごはん、味噌スープ、そばもどき、なんちゃって豆腐、など、和風テイストのものを出してくれる 環境は、ごらんのとおりのリゾートホテルで、仏跡を巡拝していると、ほっとして癒される このホテルは、ルンビニー園の中にあり、マヤ堂遺跡まですぐ近くだ このルンビニー園計画は、全日本仏教会と丹下健三氏がつくりマヤ堂の発掘調査も日本の全面協力で行われた 僕は、前回来たときはは発掘中だったが、今回、きれいになって、まあ、お堂というよりは、「遺跡」として保存されているのだと知った インドの仏教聖地を巡拝していると、完全な、「遺跡」として保存されている場所が多い 日本人的な感覚で言わせてもらうと、納経、掛け軸、ローソク、線香、ご祈祷と回向の受付、お守りやお札の授与などやってもらえると、非常にありがたいのですが、複雑な宗教事情のせいか、無味乾燥な歴史展示施設になっている それでも、お釈迦様の存在感は、圧倒的にあるわけで、結論的に言えば、お堂はなくとも仏教はできるということです

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円頓章 解説   本覚讃 解説 台宗法蔵 つまり、仏教は単純なんです ただし、この脳内イメージがですね、暴走することもある、と その暴走を「法界」「本覚」に近づけるのが、不幸や苦厄から離れる道である、ということですね

ブッダエアー

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ネパールのカトマンズから、お釈迦様生誕の地ルンビニーの最寄り空港のバイラワまで、ブッダエアーの18人乗りの飛行機で飛びます 茨城空港が、開港して、国内98番目の飛行場だそうで、採算がどうなるか心配する報道が続いていますが、ネパールのように、小型機を飛ばせば、全然問題無いんですよ 人口3000万人の国で、問題無くローカル空港があるんですから、やりかた次第で十分やっていけるはずなんです これはトイレのマークではなくて、搭乗口のマークです 男女別々に通って、身体検査を受けます まあ、この程度の設備で、飛行場はやっていけるのです フライトはヒマラヤを遠くに眺めて快適です 操縦してるのを後ろから見ることができます 副操縦士が新聞を読みながら飛行してます 平和ですな

インドの道

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クシナガラからサールナートへの道を車の中から撮影したものです どこもけっこう混んでいます 対向車とのすれ違いも、こんなもんです 追い越す時は、バックミラーのない車も多いのでクラクションを鳴らす決まりです 非常に危険です 日本人には運転できませんね 道は、ほぼどこも綺麗に舗装されて、かなり飛ばせます いままでの仏跡巡拝のイメージとは違います 予定時間どおりか、それよりも早く目的地に着けます 今回は、ガイドのシャルマさんもびっくりするくらいスムーズに移動できました これからは、これが普通になるのでしょう 今回の巡拝を通じて乗っていた車は、トヨタのイノーバというインド仕様の車です(日本では売っていない) 同じ車をよく見かけます スズキも多い インドにスズキだけで6車種販売されています ワゴンRはインド仕様で1100ccで売られています 「インド人にもわかる仏教講座」 シャルマ「俺はヒンドゥーで、生まれてからずっとベジ(菜食)だ、すごいだろ」 僕「へー、すごいね。仏教はそんな難しいことは全くないから簡単だよ」 シャルマ「簡単なの?」 僕「そう。人はそれぞれ、自分の道を進む。どのように進むかは、その道を進んでいる自分が決める。その時、善いことをし、悪いことをしないようにする。それだけ」 シャルマ「それが仏教なの?」 僕「イージー、あんど、シンプル。ベジで独身でも、悪いことをすれば悪い人、いいことをすれば善い人。だから善いことをしましょうってこと。善いか悪いかは、道を進んでいる自分が決める、というか、実際に人は皆、そうやって生きている」 シャルマ「たしかに、ベジでも悪い奴は悪い、ノンベジでも善い人はいる」 僕「仏教は、信じなくても、念じなくてもいいんだよ。お釈迦様が念じてくれているから。人には皆、仏性があるから、最後は、ちゃんとするべきことがわかるのさ」 シャルマ「へー、それを英語で書いた本を出しなよ」 僕「ブログに書いたら教えるよ」 シャルマ「おー、読む読む。仏跡巡拝はいいと、ちゃんと書いてくれ」

沈丁花

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沈丁花が満開です 開花が少しずつ早まっていますね

紅梅

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境内の資料館の紅梅が満開です

スワヤンブナート カトマンズ

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スワヤンブナート、猿が多いので別名モンキーテンプルともいいます 金剛杵の上に猿が乗っています ここも大変な雑踏で、拝むどころではありません 上層部はお色直しの工事中でしたが、観光客が非常に多いです この日は2月13日で、次の14日が、旧正月にあたり、中国系、チベット系の人たちは祭日ですので人がいつもより多いようですが、まあ、霊場といった環境ではありませんね     街中で毛沢東派の旗をみつけました 中国が共産主義国としてオリンピックを開催するなど目覚ましく発展しているので、共産主義に対するあこがれが強いようです ちょっと日本にいたら理解できない感覚ですが、ネパールは中国とインドに挟まれていますから、揺れに揺れています 僕はいままで、国外の霊場に参拝する時、その国の政治にあまり関心をもたないようにしてきました それはそれ、これはこれで、日本の自分の身の回りのことさえままならないのに、外国のことなど構っていられないからです 今回、初めて、ガイドさんと政治の話をしました ガイドが政治の話をするのも、もう10回くらい外国の霊場に参拝しますが、初めてのことですね ネパールは、とても悪い状況です 政治家の腐敗がひどい(これは日本も同じだと説明しました) 王政を廃止して共和制に移行したのですが、勢力を伸ばしているのは毛沢東派です どうらや、破壊するだけ破壊して、混乱を収拾するつもりはないようです 革命を狙っているのでしょうね ガイドさんは国の責任者がいない状態だと言っています 日本には天皇制がありますが、ネパールから見れば、天皇陛下が、日本国の最終責任者であって、天皇陛下がしっかりしているので、国がうまくいっているように見えるのです まあ、参考になる考え方です 共産主義は、とどのつまり、権力と暴力で、言論と経済活動を統制します この統制を、独裁によっておこないます 秩序は独裁者によって決められますから、いたって効率的ですが、国民から創意工夫を奪い、歴史的には自由主義にかないません 自由主義は、言論と経済活動の自由を基礎に成り立っていますが、公序良俗のためには制限もあり、三権分立による民主主義で独裁は否定されます 秩序は、大雑把にいえば、個々人の意志による判断で決められます 意志を支えているを根源は、国民性であり、宗教観であり、常識でしょうかね ネパールは、教条主義的な宗教から