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色と空 加筆しました

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「空」は、哲学的立場であるともいえます 触ることも、見ることもできませんから 今、モニターを見てらっしゃいますよね、では パッと目をつぶってみてください その間に、モニターは月の裏側に飛んでいってます なわけはないのですが 見てないから、わかりません わからないけど、ある それが「空」です だからどうした、とおっしゃるかもしれませんが、 我々は感覚器官を通じて外界を認識して脳内に再構成しているのです ですから、実際は、脳内世界を生きているわけです で、真実の世界は、感覚器官で感じる前の世界なわけです 脳内世界が「色」 真実の世界が「空」です 脳内世界の「色」は、脳の数だけあることになって、対立、独善、妄想、など自動的に生み出される原因になるのです 「我」と言うこともできます つまり、不幸の原因です じゃ、「空」はどうなっているのか、ということですが、見たり触ったりする前の世界ですから、絶対に説明することができません 説明してしまえば、その説明は脳内世界の産物です 「空」は、感覚器官によって脚色される前の世界ですから、自分勝手な思い込みが一切ありません 本来そこにある「空」を、自分勝手に捻じ曲げて脳内世界「色」を作り出し、勝手に不幸になっていくのが、我々の今の姿です  (加筆部分) 「空」を感じることは、つまり、真実の世界を感じることです お釈迦様は、その方法を見出したから、悟りを開いたわけです その、第一歩は「微笑むこと」です

堯謙画像をご寄贈いただきました

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長保寺第12世堯謙(弘化2年まで在職)の肖像画です 和歌山県打田町の大西勝様に、本日ご寄贈いただきました 大西様は、骨董屋ですが、お寺に所縁のある画像ということで、ご寄贈いただけることになりました 深く感謝申し上げます 画賛は、何が書いてあるかよくわからないのですが(^^; どうも長生きできてめでたいというような内容のようです 長保寺では、もともと堯謙の画像(下津町上字蔵)をお預かりしていて これは74歳の時の肖像です 絵の人相はだいぶ違うと言っていいでしょう しかし、左下の落款は同じものですから、ご寄贈いただいた掛軸は本物ですね 溜池を開削して飢饉から人々を救ったことで、歴代住職の中でも特に慕われています ここからは、浜中村史の記録です 堯謙とは長保寺住職第12世大僧都堯謙である。 宝暦3年(1763)播州明石に生まれ、幼少の頃、兵庫港の能福寺に入り出家、得度をした。 (今も神戸に子孫の井上さんというお家があります) その後、比叡山に登り、修学、精励し、同山の遺教院の住職となった。学識深く、徳望高い人として尊敬を集めた。 文政6年(1823)長保寺へ移住し、地域の為に力を注いだ。 とりわけ、天保3年(1832)から8年には毎年のように干ばつ、降雨、暴風雨などによる凶作がうち続き大飢饉となった。 農民の生活は悲惨きわまりないものであった。 そこで堯謙は干ばつや飢饉にあえぐ農民を救うべく長保寺池の造営工事を起こした。農民を人夫として使役し、賃金を支払って生活を安定させ、また東光寺池も改削して、農民の苦境を救った。 (この飢饉で紀州では十人に一人が飢え死にしたと伝えられているが、上字では一人の死者も出さなかった) 天保11年(1840)退隠して阿耨院(あのくいん)と称した。 老年になり、般若心経八万四千巻を書写する願を立て、以来死に至るまで日夜書写に励み、これを広く人々に施したという。 ここ近在には堯謙の手になる般若心経がかなり多く残されている。 また長保寺池畔には天保13年9月(1842)堯謙が謹書した般若心経の石碑が建てられている。 弘化2年(1845)5月2日、82歳にて没す。毎年、命日の5月2日には、上地区の関係者が長保寺に集まり読経、供養、墓参をして堯謙

台風21号被害の調査

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2018年10月12日に、文化庁の史跡復旧事業の準備調査のために、工事する技術のある石屋さんに見てもらいました 動画は石の崩れている場所の一部分ですが、実際は約1万坪ある山全体に倒木が散乱しています 緊急を要する部分から、徐々に片づけていますが、被害があまりに広範囲で、ほとんどが手つかずの状態です 現在、長保寺の藩主墓所は立入禁止にさせていただいておりますが、いつ解除できるか全く目途が立っておりません この動画は被害状況の一部分ですが、かなり危険な状況であることがおわかりいただけると思います

興福寺中金堂再建 落慶慶賛法要

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興福寺の中金堂(お寺の本堂)は、1300年の歴史の間に7回焼失してこれが8回目の再建です 興福寺の貫主様がおっしゃっていましたが、「七転び八起き」です 長保寺の江戸時代の資料には、一時興福寺と同じ法相宗だったことがあると書かれているのですが、それ以上の証拠となるものが残されておらず、真偽のほどは定かではありません しかし、こうして参列させていただけたのは、やはり、かすかなご縁があったのかもしれません 法要終了後、奈良ホテルで開かれたレセプションの記念品です お座主と興福寺貫主様と同じテーブルの席で、恐縮しました 実は、私がいつも仏教の説明に使っている画像の仏頭は、興福寺の仏頭(国宝)です いつもお世話になっており、感謝しております 仏教の基本構造 Quantum Sense

御霊屋コンサート

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第5回 長保寺御霊屋(ちょうほうじ おたまや)コンサートを11月3日(文化の日)に開催いたします 当日は午後3時より、大治3年( 1128)より始まった不断念仏(ふだんねんぶつ)の法要が勤修されます 法然上人がお生まれ(1133)になる前から長保寺に伝わる念仏法要です 和歌山県指定文化財の御霊屋(1671建立 築347年)の一般公開は、年一回この日だけです 皆様どうぞお参りください

台風21号の倒木による参拝制限

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9月4日の台風21号で境内(約15000坪)に多数の(本数にして100本以上あると思われますが、まだ、把握しきれていません)倒木があり、国指定史跡の紀州徳川家墓所の部分については立ち入り禁止とさせていただいております 国宝本堂、国宝多宝塔は通常通り参拝いただけます 復旧については、概算で2000万円の予算で文化庁と調整中です 復旧完了のめどは立っておりません

8月25日の参道の様子

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8月25日の時点での、長保寺の藩主墓所の参道の様子です 藩主墓所は広さは約1万坪、全域が国史跡に指定され、日本遺産の構成文化財です 参道以外に、全域にわたって似たような状況になっています 映像には映っていませんが、大きな倒木もあります

台風20号の被害状況

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平成30年8月23日の台風20号の被害状況です 長保寺では降水量はさほど多くありませんでしたが、瞬間的な突風が吹いて、境内のいたるところに倒木や、折れて落ちた枝などが見られます 建造物への目立った被害はありませんでした 太い枝が折れたタイサンボク 根元からちぎれて、吹き飛ばされた桜 倒壊した日よけテント 折れて落ちた桜の幹 根元から倒れた桜の若木 落下した桜の太い枝 倒れた桜 大門の前で、折れ曲がった桜の枝 折れて落ちた桜の枝 根元から折れた枝垂れ桜 折れた椿 倒れて石段をふさぐ竹と倒木 藩主墓所に散乱する落ちた枝 藩主墓所内部の安全が確認されるまで、立ち入り禁止とさせていただきます 復旧には一週間程度かかると思います

御霊屋の歴代藩主御霊供膳

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長保寺では、毎年お盆の8月13日に御霊屋(おたまや)(1667)の歴代藩主のために御霊供膳(おりょうぐぜん)を備えて供養しています お膳は、歴代の藩主の数だけ、真鍮製のものが揃えられています 当然、全て江戸時代のものです  御霊屋の藩主位牌厨子の前に準備中の初代藩主南龍公の御膳 準備中の歴代藩主の御膳 供養の直前にご飯と野菜を盛りつけます 導師の席から見た歴代藩主の御霊供膳

2018/03/27 長保寺の桜

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お堂の前で拝む時のコツ パンフレット

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お堂の前で拝む時のコツのパンフレットを作りました 参拝された方に無料で配布するため、パンフレットを新たに作り、拝観受付に置いておくことにしました 予想外に、好評です お堂の前で拝むと時のコツA4パンフレット こちらから原稿のファイルがダウンロードできます 内容は、このホームページで書かれていることといっしょです お寺とか神社にお参りに行って、お堂の前で拝む時のコツです 先ず   微笑んで    自分を信じて 最高の自分になると決意してください   (リラックスして、呼吸に意識を集中します) 次に そのお堂の、本尊様の名前を呼んでください  南無観世音菩薩、とか  南無釈迦牟尼仏、とか  南無東照大権現、とか 次に 息を吸います 「だいじょうぶ」 あなたを守る力が体に入ってきます (ありったけのイメージで思ってください) 次に 息を吐きます 「うまくいくよ」 その力を、あなたの好きな人に分けてあげましょう (ありったけのイメーで)                     1,2分続けてみてください できればもう少し長く あなたを守る力が、だんだん強く大きくなってきます 疲れたらやめて、あなたを守る力に感謝します お堂の前で拝む 時 のコツ 1 微笑む 2 本尊様の名前を呼ぶ 3 息を吸う  あなたを守る 力が体に入る と思う 4 息を吐く その力を分けてあげる と思う それを繰り返します

色即是空 なぜ色が先か

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隅寺心経 奈良時代 長保寺蔵 般若心経の話です ほとんどの人にとって、あまり関心のないことかもしれませんが、実は重要です 般若心経の有名な一節に「色即是空、空即是色」という部分があるのですが 図式で表すとこうなります 我々は外界を感覚器官で感じて、それを脳内に再構築することで認識しています この時、自分勝手な解釈とか、思い込みや誤解で、認識に歪みが生じ、それが諸々の不幸の根本原因になっていきます 感じるのをやめてしまえば、「空」だけが残りそうなのですが、生きている限り、感じることは停止しません では、極端な話、死んでしまえば「色」が消えて「空」だけになるかというと、我々の生存そのものが「空」の一部分なのですから、「歪んだ認識」が「空」に刻み付けられたままになります なかなか、 「厄介な問題」 です さて、般若心経では「色即是空、空即是色」と順逆説く時に、「色」を先に説いています ここに、実は、般若心経なりの、この 「厄介な問題」 の解決策が示されているのです 般若心経の冒頭に 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 観自在菩薩が、深く般若波羅蜜(向こう岸に至る智慧)を行じたまいし時に 度一切苦厄 一切の苦(苦痛)と厄(災害や事故)を度(解決)したまいき とまあ、書かれているのですが、今風に言えば 我々(菩薩)が、なにものにもとらわれず自由に(自在) 深い知恵で(深般若波羅蜜 ) 観察(観)すると(行)諸々の問題を解決できる( 度一切苦厄) ということで、ありったけの智恵と知識で、物事を固定観念や思い込みから離れて深く観察することで、問題を解決することができる、と説いているのです 般若心経にしたがって解釈すれば、それは 照見五蘊皆空 「五蘊(色蘊・物質、受・感受作用、想・表象作用、行・意志作用、識・認識作用)は皆、空なりと照らし見ることで解決する」と説かれているわけで なにごとも、因縁果報の連続であり、原因があって、縁があって、結果となって、それがまた原因となってと繋がっていくということを深く認識すれば、問題が解決に導かれると考えているわけです 般若心経の立場としては、 先入観や固定観念にとらわれずに因果を深く観察することが、「色」の歪みを正す方法 であって、問題解決にとって重

那智節分 朝勤行

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もう30年以上、那智山青岸渡寺の節分の手伝いに行かせてもらっています 那智では朝の勤行は毎日5時からあります 節分のような大きな行事のある日も、5時から勤行をして、行事の準備をして、それから朝食を食べ、7時には第一回目の祈祷を始めます 祈祷は1時間ごとにあって、この日は8座で800人程のご祈祷をいたしました

お釈迦様が悟りを開いたときに食べた食事

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スジャータストウーパ お釈迦様が、悟りを開く直前に、何を食べたかという話です 考えようによっては、重要な問題です これは、ご承知の方も多いと思いますが、6年苦行したお釈迦様がスジャータという娘の献上した乳粥を食べてから尼連禅河のほとりの 菩提樹の下に座し 禅定に入り、悟りを開いたのです この乳粥ですが 短粒米です 今現在は、インドを始め東南アジアで広く食べられている米は長粒米ですが、お釈迦様当時の遺跡からは短粒米が発掘されているので、当時は短粒米が食べられていたことが確認できます 現在でもインドにはキールという甘い乳粥のお菓子があります また、ヨーロッパ諸国にもライスプディング(ミルヒライス)という、短粒米を使う同種のお菓子があります(短粒米の粘り気が食感をよくするということらしいです) ただ、不思議なことに、仏教国の日本には、乳粥を食べる習慣は、無いですね これは、日本仏教では、牛乳が精進料理とみなされていなかったせいだと思われます 日本の仏教寺院で修行中に牛乳を飲むところはありません というか、どこの仏教国でも修行中には牛乳は飲みません さて、精進料理で、一切の肉魚を食べず、牛乳も飲まないとなると、栄養学的には深刻な問題が起きます ビタミンB12は、動物性の食物でないと、ほぼ含まれていないのです (ごく微量、海苔に含まれています) wikipediaを引用させていただきますが B12不足になると 「欠乏が進行すると貧血症状を起こすことがあるが、欠乏が軽度の場合は現れない。脾腫および肝腫大が生じる。希に舌炎。 消化管症状は食欲不振、便秘、および限局性に乏しい腹痛。 神経症状は、思考力の低下や うつ病 、興奮、情緒不安定(イライラ)などの性格の変化がある。  痺れ 、反射の変化、味覚症害、  心機能低下 、 生殖 率低下などがある [3] 。子供にみられる症状は 成長障害 、  発達障害 、 運動障害 などがある [6] 。早期に治療されなかった場合、生涯的な症状障害になりえる [10] 。 小児の場合、脳発達障害や成長障害」 ということですので、完璧な精進料理を続けていると、B12不足から病気になってしまいます 最近の研究ではB12は5,6年は体に蓄積された分量で足りるらしいですが、これ、お釈迦様が6年苦行して、一切肉

光と影

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我々は、感覚器官を通じて外界(空 くう)を認識し、脳内に自分なりの世界(色 しき)を構築しています 物事の本当の姿が「空」だとすると 「空」は完全無欠で、無誤謬で、事実そのものです ということになると、善と悪、正義と不正、慈悲と暴力、建設と破壊、などなど、全て「空」からみれば「完全無欠で、無誤謬で、事実そのもの」ということになります となると、努力も積み重ねも善意も、どーでもいい・・・には、ならないんですよこれが 無軌道な生活をすれば、無軌道な世界になり、悪と不正と暴力と破壊を行えば、悪と不正と暴力と破壊の結末を引き受けることになるだけのことです まあ、仏教では伝統的に「因果応報」と言うわけですが ただ、「悪を行って、悪い結果になる」という一連のプロセスは、「完全無欠で、無誤謬で、事実そのもの」なのです これは「色」と「空」という、我々が外界を認識する仕組みから、そう言えるのです 我々が物を見る時、光が当たっていなければ見ることはできません 光が当たると、物は見えますが、必ずそこに影が出来ます 物を見るには、光だけでなく影も必要なのです 光と影を合わせて、物の姿形になる、とも言えます その物の姿形を美しいと感じたとしても、そこには必ず光と影があるのです

一切諸法、仏法にあらざる無し

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夕座(部分) 2018.1.4 我々は、感覚器官を通じて外界(空 くう)を認識し、脳内に自分なりの世界(色 しき)を構築しているのですが 「自分自身」というフィルターを通した人工物である「色」は、「自分自身」によって「空」を歪めている、とも言えるわけで、自分が正しいとか、物事を理解しているとか言ったところで、そもそも、「空」ではないのです 物事の本当の姿が「空」だとすると 「空」は完全無欠で、無誤謬で、事実そのものです 芸術とか科学や学問は、いかに「空」を獲得するか いかに「色」を「空」に近づけるかという営みである、とも言えるのです さて 我々が感じている、苦悩や厄災は、つまり「色」です ところが、「空」が本当の世界とすると、それらの苦悩や厄災は、「空」から見れば、それはそれで完全無欠だということになってきます 苦悩とか厄災とか感じるのが自分勝手なのであって、本当は「完全無欠で、無誤謬で、事実そのものなのだ」ということになります ここのところを、憤慨したり絶望したり諦めたりしても、「色」と「空」の関係が変わるわけではありません では、憤慨も絶望も諦めもしないとすると、いったいどうするのか いろいろな解決法があるとは思いますが、ここでは、仏教に限った説明をします 仏教には2500年の間、連綿と伝えられた、それなりの方法があります 僕がおすすめするのは、「 癒される瞑想 」ですね この瞑想は、何気に、密教の高度な瞑想法が取り入れられています あっけないほど単純ですよ 先ず 微笑んで 次に あなたの一番に信じる神仏の名前を呼びます(特になければ、ありったけの善意を念じてください) 次 息を吸いながら あなたを救う力が体に入ると 思う 次 息を吐きながら その力を分けてあげると 思う 何回かこの呼吸を繰り返す これだけです もちろん密教には、もっと複雑精緻な様々な方法が伝えられていますが、普段簡単にできないですからね 気軽に出来るのでお勧めしますよ

心を開く

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長保寺 国宝本堂(1311) 国宝多宝塔(1354) 2018.1.3 何に対して、心を開くのかというと、自分自身に対して心を開くのです そもそも、「心」とは何か、とか考え始めるといつまでも始まりませんから、ざっくりした話をします 我々は、感覚器官を通じて外界(空 くう)を認識し、脳内に自分なりの世界(色 しき)を構築しています 我々の普段の生活では、自分の経験や知識や思いや考えに基づいて暮らしているのですが、つまり、この図で言えば「色」です これは、厳密に考えてみると、 物事の本来の姿 「空」を自分なりに脳内に形成したもので、 本来の姿そのもの では無いわけで、誤謬、勘違い、一面的理解など、あってあたりまえです ガラクタとまでは言いませんが、そもそも完全無欠ではないのです それで、注意を「 本来の姿 」に向けてみるのです 実は、これが、心を閉ざしてしまっていて、できていないのです 自分自身の、勝手な解釈、未熟な思い、無知、などの入り込むことがない、 本来の世界 が「空」です 諸々の不幸や脱線が、なぜ生じるのかといえば、根本的には、われわれが「色」に基づいて暮らしていて、「空」に心を閉ざしているからです 各人、自分勝手な世界観を構築して(色)生活するなら、まぐれ当たりで幸せになれるかもしれませんが、いずれ上手くいかなくなるのはあたりまえです では、どうすれば良いのかと言うと この図で考えてみると、「物を思わない」のがよさそうです まあ、これは理屈であって、実際は、ほぼ不可能です 無念無想という言葉はありますが、それが簡単なら、だれも不幸にはならないのです ここのところをなんとかしよう、というのが仏教の全てだと、言っていいと思います