隻手の声を聞け


隻手の声を聞け
せきしゅのこえをきけ、と読みます
白隠禅師の有名な公案です
両手でパンと手を打ったら音がしますが、片手の音を聞け、というお題ですね

だからこれ、僕の図で説明すれば


感覚器官で捉える前の、音になる前の音を聞けといっても聞けないから、まあ、解れと

いまでも、この公案で坐禅が修行されてます
隻手の声を聞く境地になったら、それは、悟りの境地です

僕は「光の瞑想」で、具体的な光をイメージしてくださいと言ってるのですが、だから、禅ではこれはやりません

白隠禅師で、全然まにあっていて、それで間違いないんですが、むっずかしいんですよ
常人では無理、と言っていい
無ーーーー。むーーーーーっと坐って、坐り続けて、延々と禅堂で修行しなければなりません
もう限界だと思えてきたら、それが、やっと入り口です
忍耐というか、申しわけないけど、今時、はやらないです


子供がテレビゲームをやっているのを見ていると、5回くらい同じボスにやられると意欲を無くします
自分でゲームをやってても、延々と単純作業を続けて、やっとこラスボスにたどり着いて、何回も同じところでやられたら嫌になりますよね
ヒットしているロールプレインゲームは、そこのところはうまく考えられていて、小さな成功を積み重ねて、達成感を味わいつつ先に進めるようになっています


それでですね、絶対的な体験の側からの語りかけというか、啓示なのですが、こちら側への働きかけを感じたら、接点が持てるのではないかと考えました
初めはかすかでも、だんだん強く
最後は、圧倒的な強さで
繋がりに切れ目無く、感じ続けます



この光が、慈悲の感触、です

よく、この、超能力がほしいとか、魔力を身につけるとか、幸運を呼び寄せるとか、願望成就することか、精力絶倫になるとか、超人的な能力を目的に瞑想する人がいるのですが、この瞑想は趣旨が違いますからね
どうか他の所でお願いします

図で見ておわかりのように、感覚器官や脳で自分勝手なイメージをつくることから解放されて、感じられる前の(実相と専門用語で言います)世界とつながることを目指しています

この実相が、慈悲の極みであり、悟りであり、仏心であり、甘露の法味であり、曼荼羅であり、法界であり、Superpositionであるのですが、氷のように冷たいというんじゃなくて、圧倒的な慈悲の感触です
で、慈悲の感触を、一筋の蜘蛛の糸のように頼りにして、瞑想を続けたらどうかということなんですね


ちょっと端折った話をしますと、いずれ、ニューロフィードバックで、慈悲の感触を感じている時の脳の状態が解明されて、科学的な評価の対象になるんじゃなかろうかと思ってます

瞑想するとき「ほほえむ」というのを、僕は言っているんですが、これも仏教では一切言ってこなかったんです
修行の結果「ほほえむ」んじゃなくて、ま、作り笑いであってもいいから「ほほえむ」のです
どこか書いてある儀軌があれば教えてください、無いと思うよ

で、「ほほえむ」時には、エンドルフィン系がでていることが予想されますね
華厳経の修行の階梯で最初に「歓喜地」というのがありますが、喜び溢れる境地です
これですね、僕は、歓喜地の人を知ってますから
当然、五神通があります、他にもいろいろ超常的なことが起こせます
その経験からね、ま、いろいろ感じるところがありまして
瞑想するときに、ほほえんじゃえ、と

ちょっと、理屈だけで言っているのでもないのです

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