癒される瞑想

「光の瞑想」を「癒される瞑想」と、名称変更しました


「光の瞑想」だと、どうもこの、瞑想と自分との関係性が、人ごとのようで、それはそれで、全然間違っていないし、説明としては十分なのですが、語りかけてこない
ただ、「癒される瞑想」と名付けてしまうと、単なる、健康法の一部のような意味の限界が出来てしまう
それはそうなのですが

先ず、健康になって、それから先は、それから先のことで進めばいいじゃないかと、幅広く考えることにしました

それと、一番の理由は、癒される働きかけがある、という感触がない瞑想は、どこに連れて行かれるかわからない瞑想になりかねないからです
僕は「慈悲の感触」ということをずっと言っているのですが、はっきり言って、慈悲の無い神様もいるからね
一筋の糸のように、切れ目無く、慈悲の感触がなければいけません

自然霊などには、人間の生死に無頓着なのもいらっしゃいますから
どんなに位の高い自然霊であっても、やさしくないと、だめじゃん

神秘体験とか、心霊現象とか引き起こす瞑想もありますが、慈悲の感触を無視するなら、慈悲の無い世界にいけるかもしれませんので、心の準備をしたほうがいいですよ

また、禅でいう、無、とかは非常に高い境地なのですが、ターゲットをつくっちゃいかんという世界ですので、とっつきにくいのです

間口広く、奥深く
「癒される瞑想」は、健康法にもなりますが、それ以上の境地にもいけますので、とりあえず、参考にしてみてください

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