I have an idea !!

「見る」「見られる」という基本概念を展開すると





と、まあ

仏教哲学とプラトン哲学と量子論を並べて図示することができます
なかなか壮観です

細かい理屈は抜きにしときます
僕の立場から言えば、細かい理屈とは、脳が紡ぎ出すモアモアですから
いくら念入りに作り込んでも、真実そのものにはなりません


このモアモアが歪み、妄想し、思い込み、勘違いし、自分勝手をし、知ったかぶりをし、エゴイズムにまみれ、脳内お花畑を作り、間違えるのです

人間の悲劇は、自分のモアモアに閉じ込められ、自分のモアモア以外の世界を知ることができないことから生まれます
で、基本、そうならない為にどうするか、というのが大問題です


で、赤丸の部分にちょいと注目してみます


ここの部分が脳幹の網様体賦活系です、五感から意識に「何を入力し、何を入力しないか」を決めていると考えられています

くわしくは、こちら

脳幹は、それこそトカゲにもあるわけで、生命進化の一番古い時代からある、原始的部分です
「生命の危機」にもっとも敏感な部分ですね

生命維持にとって心地よいものを通過させ、生命の危機を感じさせるものにも敏感に反応します
これが機能しなければ死んでしまいます

で、シンプルに考えて見ると、モアモアを自分にとって都合のいい物に作り上げているのが脳幹ということになります

保身、エゴイズム、自分勝手、自己中心、独善などを、脳幹が自動生成してると言えます
意見の衝突、認識の違い、など、無いほうが不思議です





ここからが、仏教における解決策です

結論を先に言いますと、瞑想が必要になってきます

目をつぶり、五感を可能な限り休止させ、大慈悲が自分に注がれている状態をイメージします
これ「癒される瞑想」です
http://www.chohoji.or.jp/shousei/saloon.htm

禅では、全てをあるがままに認め受け入れますが、実際は、難しいんですよ
なぜなら、脳幹は心地よい物しか通過させませんから

瞑想の目的は、「見える前の世界」(仏教では「空」ですけど)と等しくなることです
観察する主体である自分を消すことはできませんから、「空」と等しくなる
これを般若心経で「無上正等正覚」と言います


普通の日常生活にあてはめれば

落ち着いて、無心になる
私心を忘れ、あるがままを観察する
自分の立場にこだわらず、相手の立場も考える
視点を変えてみる
固定観念を疑う
自説に固執しない

などとなります






ちなみに
洗脳は、この脳幹をいじるんです

たとえば
「おまえは地獄に堕ちる」などと、生命の危機を感じるくらいドカーンと脅かして、(その言葉を言うときに、爆発音を聞かせるなど・・・あんまり言っちゃいけないな)、助けてやれるのは教祖様だけだと徹底的に繰り返します
と、あら不思議、教祖様がすっごく好きになって、言うことをなんでも聞くようになります

これからの時代、放射能、地震、環境汚染など、目に見えにくい恐怖に怯えることが多くなりますから、洗脳されやすい環境ではありますね
テレビの大画面化も洗脳道具にはなるな


ということで、洗脳に打ち勝つ方法としても、「瞑想は必要」という論理的結末になるんですけどね

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