宗教の限界


法華経 平安後期 長保寺蔵



一神教に限らず、宗教には限界があります

奇跡が思った時に、思ったように起こらないとかじゃありません
奇跡は、そもそも、コントロールできないから奇跡なのです
加持祈祷の結果も合理性の範疇の外ですから、なるようにしかなりません

加持祈祷についていえば、祈っていて、手ごたえが有る無しは歴然としてあります
よく「法がかかった」とか「法が空回りする」とか言います
でも、結果がどうなるか、やってみなければわかりません
巷の拝み屋は、営業トークでいろいろ言いますが、なんでも拝めばよくなるなら、世の中に悲劇などありませんよ

そうではなくて

宗教という統一性のある物語も、イメージであり、パラレルワールドであるということです
ただし、そのイメージは、世界の根源からの語りかけであり、パラレルワールドの住人にとって真実との唯一の接点です
イメージは、暫定的理解、などではなくて、絶対的な真実からの語りかけなのです

真実が、各種あるからパラレルワールドなのであって、これが衝突の原因にならないほうが不思議ですよ

ですから、一神教が、自分の正義を絶対化するのは当然として、多神教や無神論も、絶対化されざるを得ないようになってきます
唯一の真実がイメージとなったのが、その人にとっての宗教なのですから

宗教戦争は不可避で、神学論争が尽きることはない、ということになりそうです
 
 
宗教の教義を絶対化するのではなくて、その教義が生まれた源泉の、そのまた源
つまり、Superpositionですね、ここまで遡れば、衝突がおきることはないと思いますよ
僕が言っている、「仏教を基調とする考え方が世界に必要」というのはそういう意味です

それを、神の意志、とか、物質の相互作用、とかのレッテルを張って、わかったつもりになっているんじゃないですか


何回も言いますが、パッと目をつぶったら、眼の前のモニターは、消えてなくなったのではなく、どうなったかわからない状態で(見てないんだからわからなくて当然です)、有ると言ったら、見てないんですからウソになり、無いと言ったら、そりゃそんなことはないのです

物事は、認識した瞬間に、イメージとして脳内に生じ、それは、各人別々のものになるしかないのです

イメージを自己主張しても、対立するのは当然です

ですから、見える前の世界を、これは、智慧で探究するしかありません
それがギリシャ式にいえばフィロソフィーで、仏教で言えば、空観ですよ

ギリシャでは、無知の知、を説き、わかったつもりになるなという訳ですが、当然の論理ですね
イメージは実体ではないんですから

仏教は空観と唯識観が合体して、最後は密教になります
応用に行ってしまうんです
平安時代以降、夢中で加持祈祷に励むのです
それが、鎌倉期に庶民層が勃興して、自分たちの自我意識に目覚めます
それで、実用に問題のない単純化をした、念仏、禅、法華が流布します

なんか、基本に「空と唯識」があるのは、顧みられなくなります
それで、間に合うんですよ

ただし、それは、今までは間に合った、ということじゃないですか
自分たちのイメージを絶対視してればよかったんです
だけれども、それじゃ、衝突が起きるのです

 
これから、僕らは、多様な価値観がぶつかり合う世界を生きていかざるを得ません
現実的に言うと、ドル安がもたらす通貨の多極化と、それに伴う安全保障の混迷です

ここで、タコ壺を掘る人もいるんです
穴を掘って、隠れるんですよ
間違いじゃありませんが、どうなんでしょ、行き止まりだなぁ

僕に言わせれば、多様な価値観のパンテオンの中心に、結局、自分なりのフィロソフィーを確立するしかないのです

仏教の「空と唯識」は、益々重要にならざるを得ません
日本の伝統仏教は真価を問われると思いますよ


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