実相

ビッグバン wiki

わかりにくい話を、もっと、わかりにくくしてさしあげましょう

 

遠方の銀河の拡散しつつある速度を観測した結果から逆算して、宇宙は137億年前に凝縮された単一状態からビッグバンしたと考えられています
今のところ、この説を覆す事実は報告されていません

当然に、最も最初の凝縮した状態の時に、なんらかの生命があって、宇宙を観察していたということは確認されていません
仏教式に言えば、観察されなけば世界は存在できませんから、誰かが見守っていたことにしなければ辻褄が合わなくなります

ビックバン直前は、少なくとも、脳や感覚器官を備えた生物はいなかったわけで、イメージも実体も無い、ということになってきます・・・

 

実は、ポーのユリイカを引用したかったのですが、手元に本が無いのでネットで注文して、届くのを待っていました
去年文庫で再版されたんですねぇ

文庫の表紙の絵は、ポーの本にある挿絵です
ビッグバンの図と同じですね

ポーは、

原初の事物の原始の単一のなかに、その後のすべての事物の原因がひそみ、同時に、それらすべての不可避的な消滅の萌芽もひそむ

と、精神と物質が、凝縮された一つの状態から膨張し、それが星雲や星々を生み、臨界点に達すると、また次第に収縮して単一に帰る、いわば、ビックバン宇宙論を説いているのです
そして、ただ爆発するのではなく、また収縮し、単一に帰り、爆発と収縮を繰り返すと考えました

神の心臓の鼓動

と、呼んでいます

ユリイカが発表されたのが1849年、天文学でビッグバン理論が発表されたのが1927年
ポーは詩的直観だけで、後の天文学で観測される、宇宙の姿を描いてしまっていたのです

ポーは詩的な直観でこの宇宙論を書き、
「わたしは死なねばならないのです。ユリイカをなしおえてしまったので、わたしはもう生きてゆく意欲がありません」
と、手紙を書いた3ヶ月後、死去しました  


「原始粒子が拡散し宇宙が形成され、やがてそれが収縮して

すべての創造物は程度の差こそあれ、みな知覚をそなえている。
第一に、自己が自己であることを感得する知覚、第二に、そしてかすかで曖昧な洞察によるものだが、いま問題にしている聖なる存在者、すなわち神との同一性の知覚である。
これら無数の個々の知覚力が・・空に輝く星々もろとも・・一つに融合するまでの長い年月のあいだに、二種類の意識のうち、前者は弱くなり、後者が強くなるものと想像していただきたい。
自己同一性の感覚がしだいに普遍的な意識に融合し・・たとえば、人間はいつのまにか自分を人間であるとは感じなくなり、ついには自分の存在をエホバの存在と同一視するにいたるような輝かしい勝利の時代をむかえるものと想像していただきたい」


宇宙が「原始の単一」から始まったとするなら、物質と精神も、単一状態でなければなりません
その状態を、「神との同一性の知覚」とするなら、爆発し拡散するにつれ、同一性の知覚は薄れ悪がはびこり、収縮を始めると意識は融合し神に近づく、という理屈です

つまり、あなたも私も、収縮してしまえば、一つの神に融合すると
正義にあこがれ、神を求めるのは、収縮する力のせいで、悪があるのは、銀河が拡散しているからだと・・・・いうことらしいのですが・・・

 

ビッグバンが否定されない限り、「原始の単一」の時、意識はどうなっているのか、答えが必要です

はたして、一つの神に融合しているのでしょうか?
 

これですね、般若心経などでは、不生・不滅と説いているわけです
有るでも、無いでもない
ですから、イメージを通じて知覚されなければ、世界は存在できないが、世界そのものは、知ろうが知るまいが、おかまいないしに、「有るでも無いでもない状態のまま」だということになるのです

まあ、今ですね、パッと目をつぶって、触るのを止めても、ご覧になっているモニターは消えてなくなっているわけではない、と
でも、目を開けて、確かめてみなければ、ほんとに目の前にあるかどうかはわからないし、触らなければ持ち上げることもできない、と

世界の存在は、感覚器官による認識を必要としてない
しかし、認識されなければ、世界は変化することはできない
ということです


ですから、ビッグバン直前の、「原始の単一」の時には、いわば、Superpositionだけがあったと
ここのところが、どうも言いようがないですが、有るでも無いでもない状態が存在するだけであったということなんです(実体とか、いままで勝手に言ってましたが、天台学で言う、実相ですね。こういう時、仏教語は便利です)

なんでしょうね、霊界だけが存在した、とでも言うのでしょうか
ただその霊界は自分自身を変化させる方法がないので、自由にイメージを持つことができる生命を必要とした
そして、ビッグバンした
まあ、神話ですが

で、その、Superpositionには数はないので、1=∞でもなんでもありで、無数の神々や未熟な魂達が、一つでありながら別々に存在し(一冊の本に無数の文字が詰め込まれるように)、感覚器官で認識されるのを待っていると

ですから、実相には、正邪美醜が詰め込まれているのですよ
それを、より善くしていくのが、生きている人間の仕事、ということです
 
 

ああ、そうそう、ポーですけれど、一神教的な宇宙観ではそうなるが、目をつぶってもモニターが消えてなくならないから、どうも説明しきれてないんじゃないか、ということになりますね




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