生きる意味
さて、このところ、わかりにくい話が続きますが、今回は、きっと一番わかりにくいです
人間は、というか厳密には、感覚器官を備えた生物は皆、脳内にイメージをつくり外界を認識しています
世界そのものと自分のイメージは、必ず別々なんですから、いさかい、思い違い、誤解、妄想があってあたりえです
生命の不幸の根源ですよ
四苦八苦があって当然です
で、なんで、そのような仕組みなのか、ということ
まあ、特に理由はないのかもしれませんが、どうも、こういう仕掛けでないとうまくない理由があるように思います
というのは、もし仮に、生物が感覚器官で脳内イメージを作ることをしなかったら
実体としての感じる前の世界を、誰も感じることがなかたったら
世界そのものが、誰にも知られることがなかったら
世界は消滅してる、ってことではないですか
無というか、無は有があって言えることですから、無よりも徹底した虚無ですね
世界は認識されないと成り立ちませんが、困ったことに、認識されたイメージは感覚器官のフィルターを通した、世界そのものとは必ず別のイメージなのです
で、必ず別のイメージになるんですが、よく考えてみると、世界そのもは自分を知ることは出来ないのですから、この脳の数だけ別々にならざるを得ないイメージだけが世界の姿を知る手段なのです
で、非常に興味深いことに、人間には自由に物をつくり出す創造力が備わっています
自分勝手に、イメージを解釈して、物や事や言葉などを創り出すことが出来るのです
自由意思と言えば自由意思ですが、無秩序なでたらめにもなります
そして、その創り出されたイメージには、たとえそれが妄想の産物であっても、必ず常に感じられる前の実体があります
だから、感じられる前の世界を、どんどんと、豊かに、複雑に、好き勝手に、ついでに言えば、無責任に、創り出しているのです
ただし、自分のイメージと創り出されたものは別々のものです
知らず知らず、世界は、人間の想像力でよく言えば豊饒になっていっているのです
そして、自分のイメージで作られた感じられる前の世界は、結局、自分自身の実体です
このへんが、輪廻転生における、因果応報の理由です
死んでしまって感じることをやめても、感じられる前の世界に、生きている間にイメージしたことの実体が存在しつづけます
そして、また、生まれ出でて、感覚器官を獲得した時に、すでにあるイメージの実体を、改めて感じることになります
グロテスクな憎しみで破壊活動を行うと、感じられる前の世界は、どう変わるでしょうか
グロテスクという言葉になる前のグロテスクですから、言いようがないのですが、いい感じのするものではなさそうです
世界そのものは感じることはないんですから、グロテスクだろうがなんだろうが、関係ありません
無邪気そのもので不生不滅不垢不浄不増不減です
しかも、感じられる前の世界は、自分自身を変える手段を持っていません
ですから、破壊した張本人は、いつか必ず自分のイメージがつくった実体に出会います
自業自得ですね
自由に妄想を創り出すことのできる人間にだけ、感じられる前の世界を変える可能性が残されているのです
自分か、自分を手伝ってくれる誰かと協力するかして、その感じられる前の世界を変えるしかありません
実体と違うイメージをもつしかない人間に、救いは無い、のでしょうか
実際は、そうはなりません
なんとか上手にイメージを書き換えることができれば、まるく収まります
自由意思を行使して、イメージを書き換えるために、僕らは生まれてきたのではないですか
それこそが、生きる意味です
さて、生命進化をつづけて、イメージを極限まで磨き上げた存在も想定されることになります
僕らの意識に、感じられる前の実体があるわけですから、実は、時間度外視で僕らの意識は生き続けています
だから、数のうちには、イメージを完全に完成させた存在があっても不思議ではありません
そう、悟りを開いたブッダや菩薩
あるいは、皆さまの、遠い先祖
世界中の宗教でいうところの神々や聖者
これらの聖者達が、イメージの書き換えを手伝ってくれるなら、案外苦労無く、僕らのイメージとその実体は完成に近づくんじゃないでしょうか
えっと、だから
祈りの言葉は
「家内安全、になりますように」や「家内安全、にしてください」ではなくて
「家内安全!!」と断言するのがよい、ということになります