止観と加持
世界を感覚器官を通じて認識しているというのが、仏教の出発点です
眼耳鼻舌身の五感と、意識ですね
まあ、脳という言葉は仏教経典には無いです
時間と空間、苦楽といった感情など、全て意識が感じているのを唯識
時間と空間、苦楽といった感情が生じる以前の、感じられる前の世界を空
今、あなたはモニターを見てますが、眼で見て、意識で思ってるわけです(唯識)
で、眼をパッとつぶったら、モニターが月に飛んでいく・・・・・わけは無く、モニターはそこにあるのですが、見てないのだから本当はどうなっているかわからないのです(空)
この、唯識(ゆいしき)と空(くう)が、仏教の基本的立場です
唯識観と空観といいます
唯識観と空観が、歴史的に洗練され、仏滅後1000年位で密教になります
唯識観を仏画で表現したのが、密教の金剛界曼荼羅になり
空観は胎蔵曼荼羅になります
これを般若心経では、「色即是空」と表現しています
止観は、忘我、感覚制御、感覚遮断、などにより、自分自身の「我」を制限することで「空」だけになろうとします
たとえば、断食、荒行などもありますし、坐禅、写経、経典読誦、念仏、唱題、真言念誦なども「忘我と精神集中の組み合わせ」による、広義の止観と言えます
また、奉仕活動、職業を通じた社会貢献も、「私利私欲を制限して真実を行う」意味で、もっと広げれば止観に含むことができます
仏教の歴史で最も新しく成立したのが密教です
密教では止観から発展して、加持という概念に進化します
「仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく」 即身成仏義 弘法大師
どうしてこれが進化と言えるかというと
止観だけでは、自分を捨てることだけが強調され、仏の側からの働きかけが説明されないからです
止観を実践すれば、止観を完成した存在がいることになるわけで、つまり、仏や菩薩が働いていると
天台宗も密教なので、基本構造は全くいっしょです
比叡山を母山とする、念仏、法華は、この概念を整理して
阿弥陀如来を「加」としたら念仏
法華経を「加」としたら法華
と、実践しやすく改良したと言うことができます
禅宗は止観だけを徹底した、ということですね
このように見てみると、日本仏教が、止観と加持を組み合わせて、大乗仏教を本当の意味で完成させた、と言えるのではないでしょうか
僕は
理論に裏打ちされた具体的実践方法がある
一神教のような排他性がない
ことだけに限定しても、西洋哲学、キリスト教、イスラムよりも、仏教は「人に優しい」宗教だと思いますよ