プラトンは、なぜ瞑想をしなかったのか?
プラトンは、なぜ瞑想をしなかったのか?
プラトンに詳しい人に近くでいろいろ聞ければいちばんいいのですが、僕なりに調べてみると
ネオプラトニズムの創始者とされるプロティノスが瞑想をしていた形跡があるらしいのがわかりました
まあ、でも、廃れてしまっています
で、プロティノスがアウグスティヌスに強い影響を与えたことで、キリスト教ともつながってきます
僕的には
大雑把に、仏教の空観とプラトンのidea論が、極めて似た構造をしていると考えているわけです
仏教的には、「色」は人間的妄想や執着によって脚色された「空」ということになり、迷いや過ちの根本原因になり得ます
で、生きている間には、「空」によってリフレッシュされる、まあ、癒される必要があります
そのために、瞑想、いわゆる禅が必要だという論理です
そこを、プラトンは、ideaを説くのですが、それをいかにして獲得するのか、も一つわからない
プロティノスが瞑想をした、ということで、いいところまで来ているのですが、主知的な、言葉だけによる展開のなかに埋没してしまいます
しかし、アウグスティヌスを通じて、キリスト教神学に影響を与えていくのです
キリスト教のニカイア公会議で三位一体説が正統だということに、議論の末に決着します
ローマ帝国の統一には、神と人間の接点は教会だけだという、教会を中心とした権威を最大化する必要があったからです
実はここにも、仏教と接近遭遇する、きわどい部分があるのです
アウグスティヌスは、その著書である「三位一体論」で「父と子と聖霊が、三つなる神ではなく一つなる神であると聞けば、諸君はこのことに困惑するだろう」と、三位一体説の理論構築に人為的な操作が必要であることを認めています
三位一体説を平たく言うと、キリスト以外に神はいない、人間は皆、迷える子羊でキリストによる救いを必要としている、という論理になります
キリストの復活された精霊に触れることができるのは教会しかない、と言えばカトリックになり
聖書を通して触れる、と言えばプロテスタントになります
人間に仏性があり、人は修行によって仏に近づく、などという発想は、キリスト教にはありません
人は皆、子羊であり、キリストによる救いを必要としていると考えています
(キリストをアラーに読み替えれば、イスラムになってきます。アラーは肉体を持ったことはないので、偶像崇拝を排除します)
ですが、三位一体ではなく、三位がバラバラに成立する、とローマ帝国の政治的都合によりニカイア公会議で異端にされてしまった考え方を採用すれば
父と子と精霊を、父=神、子=イエス、精霊=神性、とまあ、整理させてもらうと、父=仏、子=衆生、精霊=仏性と飛躍するのも紙一重ということになります
キリスト教世界に、お釈迦様が出現しなかったから、飛躍できなかったのでしょうけれど
つまり
視点を変えれば、仏教とプラトンとキリスト教は、共有する接点があると言えるのです(大まかに言えば)
idea論に瞑想を加味すれば、禅になり
キリスト教で三位一体説を拡大解釈すれば、一切衆生悉有仏性になります
宗教や哲学は、基本的に人間の脳内の産物で、「真実の説明」なのですから、真実そのものは一つしかないということを前提にすれば、「説明の改善」によって、一見全く違う立場にあるような主義主張も、近似するものに変わってくると、まあ、考えられるわけです
そうなると、本当に重要なのは、宗派宗旨の教学を学んで脳内に言語を紡ぐことよりも、「真実の体得」あるいは「真実を実感する」ことです
今のところ、その最も身近な方法は瞑想です
瞑想を、最も精緻に壮大に構成しているのは、プラトンでもキリスト教でもなく、仏教です
仏教の場合は、ここに、仏典に説かれる菩薩とか、大師と尊称される高僧方など、この瞑想の階梯を達成した存在が想定されてきます
で、なぜにideaがそこにあるのに、プラトンは瞑想をしなかったのか?
ここに戻ってくるわけです