つぶつぶの鶏糞です
この時期の施肥がメインで、あともう一回花が終わったらやります
七月になったらすぐカミキリ虫の防除をします
牡丹の花は100株位ありますからたいへんです
除夜の鐘に合わせて、近所の大工さんの奉仕で新しいものに変えて頂いたのですが、どうも鐘の真ん中にあたっておらず音が響かないので、ちょっと調節しました
響くようになった感じです
矢櫃は紀伊半島の西の突端で、江戸時代の初めに初代藩主が岬の守りのため二組の夫婦を住まわせ警戒に当たらせました
その子孫が今の矢櫃の人達で、初代藩主の命日に、もう350年近く連綿と法事を続けています
初代藩主は南龍公と呼ばれ、神様として奉られていますが、お墓が長保寺にあって、明日の朝に墓参りに来ます
この時、好物だった小豆をお供えするのが習わしで、これも350年近く続いています
矢櫃には江戸時代に、のろし場があり和歌山城に急を知らせることができるようにしてありましたが、また綺麗に整備して復活させるそうです
つまり「保守」は既得権を守り育てれば務まるわけだが、「革新」は単なる「もんくたれ」でも務まるのは在野にいる間だけで、立場が変われば、それなりの道筋を示す必要はある
で、既得権を守るだけなら理想も夢も無くてすむれど、未知の道筋を示すには、今は無いものを説明するわけだから、脳内でイメージを作っておく必要に迫られる
だから脳内で自分勝手なイメージに浸ることも有り得るわけで、「革新」は現実から乖離する傾向を持ちやすいと言える
脳の力があるから、現実を変えることができるわけだが、独りよがりと紙一重でもあるということ
脳の意識作用だけに限定すれば、とりあえずは常識の範囲の話になるわけだけれど、脳はつまり死んでしまえば終わってしまうわけで、責任範囲は個人に限定される
そこで、意識作用を脳の力に限定する概念を「唯脳」とすれば、もうひとつ「唯識」という概念がある
特定の脳が無くなっても、世界は無くならないわけで、しかし、意識されなければ世界は存在しないのも事実で、「唯脳」では説明が不十分で「唯識」という概念が必要とされてくる
識こそ全てで、識は五感によって脳にイメージを投影し、脳内に外界を作り出している
識は、無限大で一つしかなく、全てが繋がっているのだが、脳に投影された外界は、分断され、有限で、死によって失われる
つまり、「唯脳」から「唯識」へ概念を進化させれば、独りよがりや現実乖離と、死による無意味化は、かなり改善される(理論的には)
実は、慈悲は「唯識」から導き出される概念で、識のなかで人が繋がっているから、思いやりも同情も勝手な妄想でなく成り立つと言える
無限の繋がりから、脳がイメージを切り出しているという自覚を持てば、余計な執着は否定され、ありのままの世界を生き続けることが出来るという話
「保守」や「革新」を超えた立場もあるだろうと思うよ
毎年文化の日に十夜会(大治3年(1128))から続く、念仏法要が勤修されます 法要の後に、ささやかな奉納コンサートを行ってきました 今年でもう12回目です 1128年というと、法然さんや親鸞さんがお生まれになる前です 念仏そのものは、慈覚大師が五台山から招来したものですから、...