2013/02/28

2013/02/20

普賢菩薩画像



敬礼諸佛 称賛如来
広修供養 懺悔業障
随喜功徳 請転法輪
請佛住世 常随佛学
恒順衆生 普転回向


普賢菩薩 別名は金剛薩埵(こんごうさった)
仏教修行者は、皆、金剛薩埵であるとされています
ですから、あなたも、どこかのお寺の檀家さんなら金剛薩埵です
檀家でなくても、自分は仏教徒だと自認していれば金剛薩埵の資格があります

金剛薩埵は色々な経典に頻繁に登場します
永遠に生まれ変わりながら、各地の賢者を訪ね、仏教を修行し続けます

衆生の心の中にある菩提心(ぼだいしん)を人格化した菩薩でもあります
菩提心は仏教語ですが、向上心と慈悲心を合わせた概念です
純白の月輪で表されることもあります

釈迦三尊の脇時で登場する時は、普賢菩薩が慈悲の働き、文殊菩薩が智恵の働きを表します

まあ、初心の金剛薩埵が我々で
修行が進むと、この画像に描かれたような姿に近づくと考えておきましょう




普賢菩薩像 一幅

絹本著色 縦95.6 横37.5
南北朝(14世紀)


普賢菩薩像は文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍として釈迦三尊を形成する場合があるが、独尊の画像あるいは彫刻として造顕された遺例の方がむしろ量的には多い。これは、普賢菩薩が法華経信仰の広がりによって単独の信仰を集めるに至ったためで、ことに法華経が女人往生説を説くことからもいっそうの流布をみたと考えらている。 
妙法蓮華経、略して法華経は五世紀の初頭に鳩摩羅什によて漢訳され隋の天台智ぎによって大成された教典であるが、わが国では聖徳太子が『法華義疏』を著しているように、すでに飛鳥時代には伝えられている。以後、奈良時代においても法華経信仰は確実にに定着してゆくが、本格的流布は平安時代初期の人唐最澄が、法華経を根本経典として比叡山に日本天台宗を開宗して以降のことで、法華三味行法を行うために、皇族・貴族によって数多くの法華堂が建立され、本尊・普賢菩薩像が造顕・安置された。法華経は序品から始まり最後の勧発品までの28品(28章の意)によって構成されているが、最後の勧発品には普賢菩薩が法華経を修行する者を守護することが説かれ、画像・彫像ともに六牙の白象に乗り行者の方へ近づいてくる姿で表されているのが通例である。
この普賢菩薩画像も、損傷は多いが、通例の普賢菩薩像で首を左方へ振り向けた六牙の白象の上に豪華な鞍を置き、左手を屈ぴし蓮華持つ半跏形の普菩薩を、企泥・きり金を多用した繊細な筆致で描いている。制作年代は、衣文の処理に多少類型化した不自然なところが表れていることから、南北期時代に降るものと考えられる。

和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より





2013/02/19

癒される瞑想が、なぜ必要なのか

地獄はあるのか?

はい、地獄はあります

お経に書いてあります
「地獄を見た」という人もあるでしょう

ただ、地獄にいるから苦しい、と単純ではないようです

「地獄に仏」という言葉がありますが、地獄にいらっしゃる仏様もあるわけで、おそらく、仏様は地獄にいても苦しくはないのでしょう


我々は、普通に漫然と生きていると、地獄に行く可能性が非常に高いです


なぜならば



人間は、感覚器官を通じて外界を脳内に再構築して、それを認識とか経験、学習、知識と呼んで暮らしています

そもそも、脳に外界の情報が入力されるときに、自分にとって有利か不利か、安全か危険かを取捨選択しています
また、せっかく取捨選択して学習、経験しても、忘れてしまうこともあります

つまり、外界にあること、そのものが脳内に再構築されるのではなく、かなり、自分勝手な取捨選択をしたものが取り入れられているのです
そして、これは、人間で有る限り、避けられないことです


自分で真実だと確信していることも、ありのままの真実を自分なりに脚色したものであるのです
そこには、ありとあらゆる誤謬や勘違いが入り込む可能性があり
それは、構造的に、避けられないのです

程度の差こそあれ、ありのままの真実にあらざる認識に基づいて生きていけば、脱線しないほうが不思議です

その危険性を自覚しないで生きていれば、当然に、地獄に行く可能性が高くなるという理屈です


苦とか楽、といった感情は、自分がどう思うかということですから、自分の脳内にあると言えるわけで、自分でなんとかなりそうです

時間、空間といった普通の実感も、仏教的に言えば、脳内の産物です
それは、生きて感じるから、時間があって空間があるのであって、感じなければ、まあ、有るとも無いとも言えません

また、生死を感じるというか、生きていくのも自分だし、死ぬのも自分ですから、脳内の感情と言うこともできるわけです

苦楽生死といった、我々の置かれた現実は、仏教的に言えば、感じる前の世界には無く、感覚器官と脳によって歪めて感じたから存在する感覚だということになります

苦楽生死によって引き起こされる「孤独と不安」は、自分で解決する他はなく、どんなに偉い神様や仏様も、身代わりにはなってくれません

何回も言うフレーズですが
朝起きて、かわりに便所に行ってくれるわけでもなく、腹が減ったら、かわりにご飯を食べてくれるわけでもありません
生きていくのは自分です


ここで、解決のヒントになるのは「地獄に仏」という言葉です

たとえ地獄にいても、心が仏のごとくであれば、「孤独と不安」は癒されるのです


自分の都合を一先ず忘れて、相手の立場で考えてみて、出来ることから少しづつでもしていく、ということではないでしょうか

「孤独と不安」から、本当に逃れる活路は、他には無いです
利害、得失を追い求めても、不愉快な現実がいつか立ちはだかります
夢や理想は、思うだけ、語るだけでは得られません

そして、「癒される瞑想」が、やはり必要です
いったん、自分がしがみついている脳内現実から離れなければなりません
相手が無くても出来ますから、比較的身近で簡単で、本質的です



癒される瞑想の仕方 

あなたが一番信頼する光に意識を集中します
リラックスして
目をつぶって
ほほえんで(大事なコツです)
無条件に全てを赦し救う心を感じながら
静かに息を吸って
 
無条件に全てを赦し救う気持ちで
体の力を抜きながら 息をゆったり吐きます
それを繰り返して
光だけになります
 
疲れてきたらやめて
光に感謝を伝えます




信仰のある人は、その神仏が光です
信仰の特に無い人は、「お日様」が光ですね

自分に光が注がれるだけでなく、縁の有る人すべてに注がれると思いながらすると、より気持ちいいですよ



 


2013/02/15

オカラ入り手作りソーセージの作り方

自家製、オカラと鳥胸肉のソーセージ


先ず、鳥胸肉約500gを3cmくらいに切ります

ミンサーで粗引きにします
からまるので、皮だけ別に粗引きにします


大豆1カップ

豆乳メーカーで約30分で、自動的に豆乳とオカラができます

付属の網で漉します

できたての、温かい豆乳

今回は、できたオカラは布巾で固く絞っておきます

できたての豆乳で、ちょっと一服


オカラと鳥挽肉にスパイス、塩少々、卵1個、片栗粉大匙1、サラダオイル少々を、よく混ぜます


手作りソーセージクック」で、レンジで4分


バジル入りバージョン

鳥胸肉500gと乾燥大豆1カップで18本のソーセージが出来ます
ここまでで、約1時間


これを、スモークウッドで燻煙します
ガストーチで点火しないと、よく燃えてくれません
(もらい物の、不要になったガンロッカーを改造した燻製器です)

約1時間で、出来上がり



オカラが入っていることを感じさせない、ふんわりした、おいしいソーセージができます

比較的ヘルシーなソーセージだと、自己満足してます(^^)/

 
 

2013/02/04

QuantumSenseと仏教

QuantumSenseと仏教
http://www.chohoji.or.jp/i/qs-1.htm

このBlogで書いたことの、まとめのページを作りました





 

2013/02/01

1月の写真

1月の写真のコーナーを長保寺のホームページにつくりました

1月の写真

写真をクリックしてください




 

第12回御霊屋コンサート

  毎年文化の日に十夜会(大治3年(1128))から続く、念仏法要が勤修されます 法要の後に、ささやかな奉納コンサートを行ってきました 今年でもう12回目です 1128年というと、法然さんや親鸞さんがお生まれになる前です 念仏そのものは、慈覚大師が五台山から招来したものですから、...