2018/10/14

堯謙画像をご寄贈いただきました


長保寺第12世堯謙(弘化2年まで在職)の肖像画です
和歌山県打田町の大西勝様に、本日ご寄贈いただきました
大西様は、骨董屋ですが、お寺に所縁のある画像ということで、ご寄贈いただけることになりました
深く感謝申し上げます


画賛は、何が書いてあるかよくわからないのですが(^^;
どうも長生きできてめでたいというような内容のようです

長保寺では、もともと堯謙の画像(下津町上字蔵)をお預かりしていて

これは74歳の時の肖像です
絵の人相はだいぶ違うと言っていいでしょう
しかし、左下の落款は同じものですから、ご寄贈いただいた掛軸は本物ですね

溜池を開削して飢饉から人々を救ったことで、歴代住職の中でも特に慕われています
ここからは、浜中村史の記録です

堯謙とは長保寺住職第12世大僧都堯謙である。
宝暦3年(1763)播州明石に生まれ、幼少の頃、兵庫港の能福寺に入り出家、得度をした。
(今も神戸に子孫の井上さんというお家があります)
その後、比叡山に登り、修学、精励し、同山の遺教院の住職となった。学識深く、徳望高い人として尊敬を集めた。
文政6年(1823)長保寺へ移住し、地域の為に力を注いだ。
とりわけ、天保3年(1832)から8年には毎年のように干ばつ、降雨、暴風雨などによる凶作がうち続き大飢饉となった。
農民の生活は悲惨きわまりないものであった。
そこで堯謙は干ばつや飢饉にあえぐ農民を救うべく長保寺池の造営工事を起こした。農民を人夫として使役し、賃金を支払って生活を安定させ、また東光寺池も改削して、農民の苦境を救った。
(この飢饉で紀州では十人に一人が飢え死にしたと伝えられているが、上字では一人の死者も出さなかった)
天保11年(1840)退隠して阿耨院(あのくいん)と称した。
老年になり、般若心経八万四千巻を書写する願を立て、以来死に至るまで日夜書写に励み、これを広く人々に施したという。
ここ近在には堯謙の手になる般若心経がかなり多く残されている。
また長保寺池畔には天保13年9月(1842)堯謙が謹書した般若心経の石碑が建てられている。
弘化2年(1845)5月2日、82歳にて没す。毎年、命日の5月2日には、上地区の関係者が長保寺に集まり読経、供養、墓参をして堯謙の偉業を偲び、後世に伝えている。
(現在でも毎年続けられています)
願還生此界 為僧事覚王 斯意人莫訝 難忘故郷
願わくば此の界に生まれ還らん 僧の覚王につかえんがためなり その意を人いぶかしむことなかれ 忘れがたきはこれ故郷
死ぬるとき 面(おもて)は西に向かえども 心は娑婆に 有明の月
掛け軸は長保寺がお預かりしていますが、上字の所有です

2018/10/13

台風21号被害の調査



2018年10月12日に、文化庁の史跡復旧事業の準備調査のために、工事する技術のある石屋さんに見てもらいました
動画は石の崩れている場所の一部分ですが、実際は約1万坪ある山全体に倒木が散乱しています
緊急を要する部分から、徐々に片づけていますが、被害があまりに広範囲で、ほとんどが手つかずの状態です
現在、長保寺の藩主墓所は立入禁止にさせていただいておりますが、いつ解除できるか全く目途が立っておりません
この動画は被害状況の一部分ですが、かなり危険な状況であることがおわかりいただけると思います

2018/10/11

興福寺中金堂再建 落慶慶賛法要


興福寺の中金堂(お寺の本堂)は、1300年の歴史の間に7回焼失してこれが8回目の再建です
興福寺の貫主様がおっしゃっていましたが、「七転び八起き」です
長保寺の江戸時代の資料には、一時興福寺と同じ法相宗だったことがあると書かれているのですが、それ以上の証拠となるものが残されておらず、真偽のほどは定かではありません
しかし、こうして参列させていただけたのは、やはり、かすかなご縁があったのかもしれません
法要終了後、奈良ホテルで開かれたレセプションの記念品です
お座主と興福寺貫主様と同じテーブルの席で、恐縮しました

実は、私がいつも仏教の説明に使っている画像の仏頭は、興福寺の仏頭(国宝)です
いつもお世話になっており、感謝しております

仏道を歩む 多神世界をどう生きるか 動画要約

多神教の世界 : 演者は、すべての人を一つの宗教に改宗させようとするのではなく、多様な宗教や無神論者が共存する多神教の世界でどのように生きるかに焦点を当てるべきです。 仏教とキリスト教 : キリスト教のような「啓示宗教」とは対照的に、仏教は個人的な実践と理解を通じて自身の苦しみを...