戦争と仏教


そもそも

「戦争と仏教」というテーマで一冊の本が書けます
ここでは、おおげさな内容ではありません
まあ、事実関係について、ちょっとした知識を得ていただこうということです

日本仏教は538年に朝鮮半島経由でもたらされた、というのは学校で習ったと思います

仏教推進派が蘇我氏、仏教反対派が物部氏です
今風に言えば、グロバリゼーション推進派が蘇我氏で、伝統墨守派が物部氏ということになって、熾烈な権力闘争から武力衝突に発展しました

形勢不利であった蘇我軍を立て直したのが聖徳太子です
蘇我軍は合戦に破れ、生駒の信貴山に逃げ込みました
そこで聖徳太子が仏教守護の神様である四天王像を彫り、「この戦に勝てば四天王のための寺を建てる」と誓い、体勢を立て直し、物部氏を撃破しました

593年、聖徳太子は日本最初の官寺である、四天王寺を建立しました

ちなみに、信貴山では、破魔矢をお授けしておりますが、元々は鏑矢(かぶらや)です
鏑矢は射ると音を鳴らして飛ぶので、戦闘開始の合図に使われました
聖徳太子の勝ち戦にあやかった縁起物です
僕は、学生時代に信貴山で毘沙門天の祈祷のバイトをしたことがあるので、確かな話ですよ

もひとつ脱線すると、四天王寺を最初に建てた大工の棟梁が金剛さんです
今、長保寺の国宝修理に来ている金剛組は、この金剛さんから連綿と続いている宮大工の会社です
現在も、会長は金剛さんです


さて、つまり

日本における最初期の仏教は、戦勝祈願が大事な役目であったのです

先祖供養とか、修行して悟りを開く、などが重視されるのは、だんだんと個人生活が重視されてきた後世のもので、仏教の始まりは、鎮護国家が重視されていたのです
奈良時代に国分寺が全国に建立されたのも仏教による護国が期待されたからです
『金光明経』『仁王経』『法蓮華』など、護国経典とされるお経もあります

歴史を振り返れば、大きな戦争の時は仏教各派本山で敵国調伏の様々な祈祷が行われましたし、戦国時代の武将は、それぞれ武運長久の念持仏を持っていました



長保寺本堂 毘沙門天立像
(長保寺にはこのほか、広目天、持国天、増長天の四天王が勧請されています)


「仏の顔も三度」という諺がありますが、これ元々は仏教の話です

お釈迦様の生国のシャカ国の隣にマガダ国という大国がありました
マガダ国がシャカ国に后をよこせと言って来たとき、シャカ国は奴隷女を王女であると偽って、マガダ国に嫁がせました
そして生まれたのがビンビサーラ大王です

しかし、成人して自分の出生が、シャカ国の陰謀によるものであることを知ったビンビサーラ大王は怒り狂い、シャカ国を滅ぼそうと大軍で向かいました

ところが、マガダ国の軍勢が行軍する道の途中に、お釈迦様が座っているではありませんか
ビンビサーラ大王は深くお釈迦様に帰依していましたが、お釈迦様がシャカ国出身であることも知っていました
それで、いったん軍勢を引き返させました (1回目)
ところが、やはり許しがたい思いがつのり、また大軍で押し寄せます
すると、またお釈迦様が座っていて、軍勢は引き返しました(2回目)
でも、もう一回、軍勢が向かいます
また、お釈迦様が座っているので進めません(3回目)

そして、4回目、復讐心に燃えるビンビサーラ大王が軍勢とともに進軍すると
お釈迦様は座っていませんでした

シャカ国の人々は、ビンビサーラ大王の軍勢に皆殺しにされ滅亡しました
紀元前500年位の話です


ここから1000年ほどたって、聖徳太子の戦勝祈願にどうつながるのか

仏教は、間口も広ければ、奥行きも深い
一面だけ捉えても、わかったことにならない一例ではあります

これを、自分のこととして考え続けるのが、生きた仏教だと思いますよ



 


このブログの人気の投稿

お堂の前で拝む時のコツ

六器

多神世界 仏教の世界観