2015/12/31

金剛界大日如来坐像(平安時代)

長保寺の国宝多宝塔(1375)の本尊です

長保寺で一番古い仏像で、現在の多宝塔よりも古く、創建当時(長保寺代、西暦1000年ごろ)のものです
台座、宝冠、光背は江戸時代のものです

長保寺 金剛界大日如来坐像(平安時代)



須弥壇は、国宝の付帯指定になっています
鎌倉時代の禅宗様を代表する須弥壇です

巴紋透牡丹唐草黒漆塗須弥壇(鎌倉時代)


2015/12/30

蝋梅

今年は蝋梅がよく咲いています
例年よりだいぶ早いです

蝋のような透き通った花びらで、梅のような姿なので、蝋梅(ろうばい)と呼ばれます







水仙

2015/12/29

NHK大河ドラマ 真田丸



「真田幸村と戦国わかやま物語」でご紹介いただきました
NHK大河ドラマ「真田丸」に関連したリーフレットです
真田幸村と和歌山について紹介されています


元和元年(1615)大坂夏の陣がおこった時、14才の後の紀州初代藩主頼宣(よりのぶ)は初陣であったが合戦に間にあわず手柄をたてられなかったことを残念がる。
その姿をみた松平正綱が、「今日の合戦に間に合わなかったからといって、そんなに口惜しがらなくとも、殿はお若いから今後幾度も機会があります。その時いくらでも手柄をたてることが出来ましょう。」と慰めたところ、頼宣は正綱をにらみ、「わしに14才が2度くるか。」と言って父家康を感激させた。こうして家康の寵愛を一身にうけたと伝えられる。 藩祖 徳川頼宣 木国文化財協会・会長  西本正治 より





兜についている角のような飾りを「立物 たてもの」といいますが、この兜は、後ろについています
後ろに従う武将に見えるようにすることで、一番先頭を走る大将である、ということを強調した立物といえます
もちろん、前から見た者は、みな打ち取られるということです




2015/12/27

安上がりの2灯照明


ハクバ サンクリップⅢ KCL-3

クリップの内側には0.5mmくらいの薄いゴムがはってあり、はさんだものに傷がつきにくい工夫がされています
クリップは電球と大きさを比べるとわかりますが、けっこう大きいです
電球ソケットの付け根はグルグルと可動式です
電源コードの中ほどにスイッチがついています
日本製のようです

ハクバの製品ページ
http://www.hakubaphoto.jp/products/detail/0101930061-4H-00-00


パナソニック LED電球色 60w
好みもあると思いますが、人肌を血色よく写すのに電球色にしてみました
アルミホイルとかトレッシングペーパーとかも、LEDで比較的熱くならないですから、ちょっとした撮影なら、適当に巻いて使うこともできると思います

これを2灯左右で光らせます



2015/12/22

吉宗寄進の香炉(1)


銅鋳香炉朱漆香台  

(香炉)縦21.9 横46.0 高48.5             
(香台)縦45.9 横64.3 高60.3             

 享保10年(1725)

 香炉は、鋳銅製で葵紋の金板を蓋と身の側面に貼りつけている。蓋のつまみと四脚にそれぞれ獅子の意匠を用いる。

朱漆塗の香台とともに、黒漆塗の箱に収納するようになっているが、その箱の蓋裏書によれば、将軍吉宗が享保10年に長保寺内の南竜院(徳川頼宣)の霊前に寄進した旨が記されている。吉宗は将軍に就任したため、紀州藩廟所である長保寺ではなく江戸の上野・寛永寺に葬られることになるが、この資料は将軍就任後も相変わらず吉宗が長保寺との関わりを保っていたことを示している。なお古文書によれば、この香炉は江戸から直接運ばれてきたものである。









将軍吉宗が享保10年(1725)に長保寺内の南竜院(初代藩主徳川頼宣)の霊前に寄進したものです。質素倹約をすすめる吉宗が、将軍になってから寺院になにか物を寄進したのは、この香呂だけです。吉宗にとって格別の意義のあることがわかります。
吉宗が将軍になって10年目の享保10年頃に、大赤字で引き継いだ江戸幕府の財政が享保の改革によって黒字に転換していきました。南竜院は吉宗から見て祖父にあたります。危機に瀕した幕府を立て直すめどがついたことを、尊敬する祖父に報告したのでしょう。

南竜院が紀州藩主となったのは、気性の激しさから、江戸のそばに置いておいてはいけない、という判断もあったとされています。戦国時代が終わり、手柄を立てる場を失い浪人となった武士達が起こした「由井正雪の乱」の黒幕と疑われたのも、最後の戦国大名と言われた胆力が恐れられてのことでしょう。長保寺には南竜院の墓参の時の衣服が伝わりますが、丈164.6 桁101.5 袖丈78.8とかなりの大男であったことが偲ばれます。
南竜院は徳川家康の第10子にあたりますが、家康59歳の時の子で、最も可愛がられたと言われています。関ヶ原の合戦の次の年、家康が相次ぐ合戦から解放され、家族とともに過ごすことができるようになった時に生まれました。18歳の時まで家康の手元で養育され、その生誕から成人まで、家康が晩年の持てる全てを注ぎ込んで養育した子です。

家康、南竜院、吉宗と繋がる徳川家の精神の濃厚な継承を証明し、吉宗が将軍となることの正当性を物語るのが、この香呂です。



紀州藩主の治績と御廟




2015/12/20

長保寺寂光庭の三尊石中尊上の苔

逆光の紅葉

木蓮の越冬中の花芽

石蕗の種

睡蓮の池に写り込んだ石楠花

高砂百合の種の鞘

ヤナギトウワタ
根をアメリカ先住民が胸部疾患の薬にしたという

紅葉の木漏れ日

石蕗の種


2015/12/18

屋根の形式





長保寺の建造物には、代表的な屋根の形式がそろっています


2015/12/10

紀伊徳川家藩主廟所

紀州徳川家歴代藩主の御廟が、長保寺本堂裏手の山腹に、約1万坪の広さで展開しています

藩主廟所としては全国一の規模です


紀伊徳川家 初代藩主 徳川頼宣(とくがわよりのぶ)御廟(1602-1671)




和歌山藩主徳川家墓所


   国指定 昭和56年5月28日

 長保寺は一条天皇(986~1010)の勅願によって長保2年(1000)二品性空上人が七堂伽藍を創造し、長保の年号を賜り寺号にしたといわれている。
 現存する国宝建造物の建立年代からみて、鎌倉末期には現在の伽藍は完成していたとみられる。
 宗派の異動はたびたび行われていたが、寛文6年(1666)徳川頼宣の菩提所となるとともに天台宗に改め現在に至っている。

 

史跡和歌山藩主徳川家墓所は、このように長保寺が11世紀以来の地方有数の名刹であり、加えて紀州藩主歴代の墓所としてその規模が大きく墓碑や石燈篭とともに墓所を造成する石垣等壮麗豪華な石造遺構は全国的にも近世大名墓所の代表的なものであり、江戸時代の墓制葬制を知る上から貴重な遺跡としてその価値が認められたものである。
 歴代藩主のうち、五代吉宗と十三代慶福は将軍となったため墓碑がない。
 墓所の参詣堂は大門からすぐ東の小高い処に御成門があって御廟所門まで200メートルばかり坂を登り、長保寺本坊に付属する御霊殿の後方に墓所を築いている。
山の東南傾斜面一帯に点在する墓碑は28基で、そのうち12基が藩主の墓碑で、他は藩主の夫人や子息等のものである。
傾斜を切り取り石垣を築いて墓所を造成し、玉垣で囲い、石門を建て、330基に及ぶ石燈篭などすべて石材は花崗岩を使用している。12基の石碑の型式は5つの型に分類できる。
塔身の無銘の石塔は一朝有事の際の処置として墓の後方に井戸を掘り、これに石碑を埋めるしかけになっていたと伝えられる。
 下津町は、この境内に歴史民俗資料館を建設し、この由緒深い名刹の文化財とともに地域の文化財保存に努めている。
この史跡徳川家墓所も歴史の散歩道として広く一般に紹介したいものである。


清文堂「和歌山県の文化財 第2巻」から



長保寺絵図面(廟所絵図)  海南市指定文化財

一幅 紙本著色 縦191.7 横214.2   江戸中期

陽照院(現在の長保寺)の、伽藍および紀州徳川家の廟所・墓地を描いた資料である。近世の長保寺寺領については、慶長6年(1601)に浅野幸長が浜中上村の5石を寺領としたのち、寛文12年(1672)に徳川光貞から500石を加増されている。本図はその際に確定された、境内と墓地について描いたものである。藩主の墓が深覚院(第4代藩主頼職)までしか書かれていないことから、本図が作成されたのは吉宗もしくは宗直の藩主時代のことであると考えられる。江戸時代中期の長保寺の伽藍・廟所の状況を知る上で貴重な資料である。

和歌山県立博物館「吉宗と紀州徳川家」より


墓石に墓碑銘が刻まれていない? 




和歌山藩主徳川家墓所


   国指定史跡 昭和56年5月28日 

指定理由 紀州徳川家歴代藩主の墓所で、規模と豪華さから近世大名墓所の代表的なもので、墓制、葬制を知るうえで重要
   面積 43,597㎡
 和歌山藩主徳川家墓所は、和歌山県有田市の北、海草郡下津町の長保寺にある。
 元和5年(1619)に徳川家康の第10子徳川頼宣が御三家の一人として55万5千石を領して紀州に入国し、幕藩体制の要のひとつとなった。寛文6年(1666)に頼宣は熊野巡見の帰途、古刹の長保寺の立ち寄り、この地が三方を山に囲まれ、下津湾を見渡せる景勝地であり、また、要害の地であることに着目して菩提所と定め、翌7年に仏殿を建立し、伽藍の整備を行った。頼宣は寛文11年に死去したが、遺命によりこの地に葬られ、以後、徳川宗家を継いだ5代藩主吉宗(8代将軍)と13代藩主慶福(14代将軍家茂)を除いた和歌山藩歴代藩主と、その夫人や子息の墓所とされた。

 長保寺は寺伝によると一条天皇の勅願寺で、長保2年(1000)に二品性空上人を開基とし、年号を賜って寺号とし、往時は七堂伽藍、子院12か坊を有した壮麗な寺院であったといわれている。その後、延慶4年(1311)に現在地に移転し、本堂、多宝塔、鎮守堂を建立し、嘉慶2年(1388)に大門も再建され、ほぼ現在みられる寺観に整備された。
 境内は南へ傾斜する山腹に位置し、小畑川の辺りに大門を整え、その北方150mの上壇に本堂、その南東に接して多宝塔、その北方の山腹に鎮守堂、本堂東南部の中壇に霊殿、本坊などを配置し、墓所は霊殿の北東の急峻な山腹に位置する。
 本堂、多宝塔、大門は国宝に、鎮守堂、絹本著色仏涅槃図は重要文化財に、紀州藩霊殿、客殿、木造阿弥陀如来座像、林叢は県文化財に指定されている。町文化財に指定されたものも多数あり、境内一円が文化財となっている。また、墓所のみでなく、これらの境内地およびその背後地の山林も含めた広大な範囲が昭和56年に史跡に指定された。
 本堂は桁行五間、梁間五間、入母屋造り、向拝一間、本瓦葺きの建物で、入側三間四方を内陣とし、後端の中央に須弥壇・厨子を置いており、内陣正面の一間通りを外陣、他を脇陣と後陣に区画している。側回りの開口部は少なく、入側四周は引き違い格子戸と菱欄間で区画して閉鎖された空間を造り出し、密教系仏堂の特色をよく表している。また、側回りは和様、入側は禅宗様として意図的に内外を区分し、全体として折衷様の建築となっている。中世の仏堂は外陣奥行を深くする必要から通常二間とするが、この本堂は外陣を一間としながらも、奥行を確保するため、四支分を広くし、柱間に架けた繋虹梁に三斗を置き、隅木を真隅に入れ、小天井をも付け処理する。この手法は紀州における中世仏堂の外陣空間の架構構造に多用されたものである。多宝塔は三間多宝塔で、裳階は支輪付きの出組、身舎は四手先の和様とし、内部は四天柱を建て、二重折上の小組格天井としている。塔身は小さく引き締まった良好な多宝塔である。大門は入母屋造りの三間一戸楼門で、腰組は三手先、上層は尾種木入の三手先  とし、和様を基調とするが、細部に禅宗様を採り入れた重厚な楼門である。
 寛文7年に建立された仏殿は、その後、位牌堂にあてられ、紀州藩霊殿として指定されており、寄棟造りの妻入りとする珍しいものである。奥の霊室には一間厨子を置いて歴代藩主の位牌を、手前の霊室には二基の厨子を置いて正室・側室と、その子息の位牌を祀り、墓所と一対をなす貴重なものである。
 各墓域は急峻な山腹を削り、城郭の石垣と見まがうばかりの砂岩の石垣により、上下壇を作り出している。上壇の中央には花崗岩の広い基壇を築き、四周に瑞垣をめぐらし、正面中央に廟門を構え、基壇中央に墓碑を建て、その背面には5本の木製卒塔婆を挿入できる穴をうがち、上壇の正面にも瑞垣を建て、下壇と区画している。下壇は参道より高い石垣で区画され、正面中央に石階段を設け、一間の門を構え、さらに上壇まで砂岩製石畳の参道がつづき、上下壇の正側面には多数の大きな灯篭を置き、この形式を基本形としている。
 墓域の設定・配置については、全体として規則性はみられない。しかし、2代と8代、3代と9代、11代と12代の墓所は、同一の上壇に、それぞれの基壇を並立して建て、下壇を共用し、石畳参道は中央に位置しており、後世に改修された可能性が考えられる。
 墓碑を形式によって分類すると、無縫塔は1、6、7代、角柱(棟型角柱を含む)は2、3、4、9、14、15代、八角宝塔は8、10、11、12代になる。墓碑銘については6代まではすべてを無銘で、7代からは正面に院号と両側面に没年時を刻んでいる。
 この墓所の建立および修理にかかる史料はないが、「長保寺古図」には下壇の正側面に土塀を築き、正面中央に一間向唐門を、中央に桁行三間、梁間二間、入母屋造りの参篭所とみられる建物をもつ墓所が描かれている。この古図には4代までの墓碑が描かれていることから、宝永2年(1705)から宝暦元年(1751)の間に作製されたものとみられ、往時の姿を知ることのできる貴重なものである。
 この墓所の本格的な保存修理は実施されておらず、調査および修理が望まれる。


同朋社「図説 日本の史跡 8」 山本新平



御廟所普請の御用石

 長保寺の霊域には歴代の藩侯の廟が並んでいる。この廟に使用されている石材はどこから割り出され、どのようにして運ばれてきたのか明らかにされていない。尾鷲組大庄屋記録の『御用留』(三重県尾鷲市市立図書館所蔵文書)によると、宝暦8年(1758)に、奥熊野郡尾鷲組梶賀浦と曽根浦の山から切り出されたことが記されている。その記録にはだれの墓の石材であったか記されていないが、6代藩主宗直の歿年が宝暦7年2月であり(『南紀徳川史』巻之十二)、たぶん宗直(大慧院)のものでなかったかと思われる。
 「浜中御用石割り出しならびに海士郡下津浦へ積廻し候儀につき、添奉行中より別紙のとおり申し来り……」という書状が、戸田孫左衛門から届けられている。そして曽根、梶賀浦へは、戸田孫右衛門、服部八郎右衛門、和田伊右衛門の3人の役人が出張してきた。この役人から尾鷲組大庄屋や両村の村役人へは、用石の割り出しについての指示があった。「諸職人御用人足ならびにお調物船などの儀につき、ご用がかりの役人より申出次第あと方の趣をもってさしつかえこれなきよう…」とある。この時に鍜治吹子一組が必要であって、石屋六兵衛より借用していた。また石材の輸送についても「大切なる石の儀に候へば、積舟の儀ずいぶん吟味致され、慥なる船を選び相廻り……」とあって、下津浦までかなりの遠距離輸送になるだけに、「もし時気などの節はご用船気をつけ湊より船を出し候よう浦々庄屋どもへ申しつけ」というおふれを紀伊半島の浦々の庄屋たちへも出していた。 
 ついで明和2年(1765)5月にも曽根、梶賀両浦でご用石が割り出された。これは菩提心院(7代宗将)のご墓所の普請に使う石材であった(尾鷲組大庄屋記録)。宗将は明和2年2月26日に江戸赤坂邸で逝去した年46才であったが、3月2日に江戸谷中感応寺で火葬し、11日に柩が江戸を発して長保寺で埋葬している(『南紀徳川史』巻之十二)。「浜中長保寺、菩提心院様御廟所御普請御用の石、奥熊野曽根梶賀浦山にてこのたび割り出し申す筈につき、別紙の役人、近々彼地へ差遣候」とあって、菩提心院の御墓所普請がはじまった。
 大庄屋や村役人、また石材の割り出し作業に参加する諸職人へ入山の申つけを行った。和歌山から両浦へ役人が出張していた。
 ご用石は下津浦まで積み回すために紀伊半島の沿岸の浦々すべて厳重な警戒のもとですすめられた。ご用石を運んだ回船は、大川浦の専蔵船、林太夫船、彦三郎船と、梶賀浦の嘉右衛門船、五左衛門船などがあった。ご用石の船積みが終わって出帆がなされる時に、曽根浦、梶賀浦より各浦々へ回状が発せられた。「船数も有之候事に候へば、猶おのおのより船手をも吟味手を詰め、運賃銀の儀は申すに及ばず、そのほか万端申あわされ……」とあって、それぞれの運送回船へ対する要望もきびしかったと思われる。ご用石の運搬はこの年の7月ごろ行われており下津浦まで届けられた。そこから長保寺までを運んだのであるが、加茂組の農民が負担することが多かったのではなかろうか。



下津町史 通史編より


2015/12/08

2015/12/06

長保寺 本堂内陣




長保寺 国宝 本堂(1311)

本尊 釈迦如来
右脇侍 普賢菩薩 像座
左脇侍 文殊菩薩 獅子座

右前立 毘沙門天
左前立 広目天


長保寺の本堂は
一般の参拝者が座る前側外陣(げじん)
特別な参拝者が座る左右の外陣
僧侶と法要出仕者が座る内陣
本尊の裏側の裏堂
に仕切られています
鎌倉時代の密教式建築では一般的な間仕切り方法です


本尊は特注のLEDライトで照らしています
光の色温度を蝋燭の光に近づけてあります
厨子の中の仏像が明るく見えることは、いままでありませんでした

内陣の照明もすべてLEDライトです
LEDライトは、紫外線が出ず、熱を持たず、省電力なので、これからお堂で広く使われるようになると思います

2015/12/04

長保寺 国宝 大門

長保寺には、本堂、多宝塔、大門と三棟の国宝建造物があります

本堂・塔・大門とそろって国宝である寺は奈良の法隆寺と長保寺だけです

この大門よりも仁王像のほうが古いことが確認されています

慶徳山 長保寺
紀州徳川家の菩提寺になってから藩祖頼宣が李梅渓に命じて模写させた扁額が架けられている
付帯指定の扁額(1417)は収蔵庫に収められている




長保寺大門  附 扁額
  国宝 明治33年4月7日指定

 三間一戸の楼門で屋根は入母屋造、本瓦葺である。
 大門は寺蔵の棟札写に記される「再営由来」によって、嘉慶2年(1388)に後小松天皇の勅宣をうけ、寺僧の実然が同年に建立したことが知られる。 縁起にはこの造営の大工が、藤原有次と記されているが、記録抜書では本堂造営の大工も同人の名が記されており、同一人とすると年代が異なり不審である。
 現在、門には扁額が掲げられているが、この扁額は紀州侯の菩提寺になってから藩祖頼宣が李梅渓に命じて模写させたものであり、当初の扁額は宝蔵に収納されている。記録によれば扁額は、妙法院二品親王尭仁の真筆と伝え、裏書に応永廿四年六月一日の刻銘がある。
 額には慶徳山長保寺と二行に分ち書されているが、当初は長保寺の三字のみ同様の書体で記されていたような痕跡が認められる。額面には鋲止めの痕があり、旧文字も風蝕差からどうにか辿り得る。
 大門は元和7年(1621)に塔頭最勝院の恵尊が修覆、さらに天和3年(1683)2代藩主徳川光貞が修理を加えている。それ以来紀州徳川家によって、明治まで維持修理が行われていたようである。
 この大門は形態のよく整った点においては代表的な楼門の一つである。
 組物はもっとも正規な三手先で、3番目の斗 は尾 の上にのり、軒を受け、丸桁下に軒支輪をかけ小天井を造っている。
 建物は和様を基調とした形でその細部も本堂、多宝塔に及ばないが、室町時代初期の特徴をよくあらわしている。
 長保寺の入口に立つ姿はよく整い楼門中の傑作の一つである。
 明治43年に解体修理が行われており、記録の不備から修理関係の詳細は明らかでないが、現状をみると、組物、軒廻りに当時の補修材が多数認められる。 


清文堂「和歌山県の文化財 第2巻」より



長保寺の大門について

和中光次   (和歌山県文化協会連合会・会長 平成7年当時



 NHKの大河ドラマ“八代将軍 吉宗(平成7年)”の放映で、長保寺も表舞台に躍り出ました。しかし、紀州徳川家の菩提寺という側面だけが、強く表に出ているような気がします。
 長保寺は、そのように歴史の新しいお寺ではありません。ここに取りあげた大門はもとより、本堂・多宝塔というお寺にとって重要な建物が、そろって国宝に指定されているのです。このようなお寺は、奈良の法隆寺しかありません。建造物からみる限り、古代寺院の代表が法隆寺であるならば、中世寺院の代表は長保寺といえましょう。しかも、古代の律令国家の富と権力を背景にして成立した法隆寺と異なって、地方の経済力と文化を基に造立された長保寺の持つ意義は、非常に大きなものと言わねばならないと思います。
 長保寺の草創は、古く平安時代にさかのぼります。寺伝によりますと、一条天皇の勅願によって、今から995年前の長保2年(1000)造営に着手し、寛仁2年(1017)完成した古いお寺です。宗派は法相宗、天台宗、真言宗、そして再び天台宗と変転していますが、鎌倉時代に栄え、現在残っている伽藍も大部分は、この頃の建築で、江戸時代になってから徳川頼宣が紀州藩主の菩提寺にしたのです。
 長保寺の大門は、南北朝時代の嘉慶2年(1388)―北朝年号、今から607年前―の建造であることが棟札(写)で明らかになっています。正面からみると、三間一戸の楼門で両側に仁王像があり、屋根は入母屋造、本瓦葺で堂々とした風格を持ち、歴史の古い長保寺にふさわしい大門であると言えましょう。江戸時代、何回かの修理を重ねてきたようですが、整った和様を基調とした姿をよく残しています。
 長保寺は、境内の全域が国指定の史跡ですが、紀州徳川家の墓所の整備のみでなく、伽藍の復元整備も極めて大切です。大門の屋根の葺き替えも必要な時期に来ています。郷土の文化財の保護に心を寄せたいものです。

木の国 21号 平成7年4月1日




長保寺木造金剛力士立像像内納入文書断簡
大門の仁王像が弘安9年(1286)の造営であるという文書が確認されました。大門よりも古いことになります。建立年代がはっきりした鎌倉時代の仁王像は、たいへんに珍しいものです。


長保寺大門解説


Youtube「NHK大河ドラマ」八代将軍吉宗 完全版




2015/12/02

室井滋さんからお歳暮

例年のお歳暮です

今回も、作りこまれた珍しいものです

箱が2つあったので、なにかなと思いました
雲シリーズと花シリーズをお送りいただきました


手漉き和紙に型押しです


栞つきで、表紙を挟んでカバーを被せられるように、手の込んだ作りです

いつも、ありがとうございます


仏道を歩む 多神世界をどう生きるか 動画要約

多神教の世界 : 演者は、すべての人を一つの宗教に改宗させようとするのではなく、多様な宗教や無神論者が共存する多神教の世界でどのように生きるかに焦点を当てるべきです。 仏教とキリスト教 : キリスト教のような「啓示宗教」とは対照的に、仏教は個人的な実践と理解を通じて自身の苦しみを...