死をどう考えるか

 親しい人との死別や、自分が死んでいくことに、手っ取り早い慰めや、気の利いた気休めなんかありません

何をどう言ったところで、辛く悲しいものです


ただ、輪廻転生とか、臨死体験とか、頭ごなしに否定しきれない事例もあるにはあるのです

それを、まあ、どう考えるのか



superpositionには、波動の減衰はないんだろうなぁ

だって、増えるも減るも無いんだから

    とすると、superpositionにある僕らの存在は、永遠に(と言っても時間は無いわけだが)無くならない
    だから、今見える聞こえる世界で死んでも、superposition で、存在は消えない
    つまり、「死」は無い

    ただね、今生での別れはあるんですよ
    避けようもなく
    それを「死」というなら「死」はある

superposition にあるentanglementを(観測)することでquantumが生じるのであって、quantumが独自にあらかじめ存在しているわけではありません

    この(観測)が自我の核心部分です
    で、この自我の核心はどこにあるのかというと、quantumは(観測)で生じるのですから、entanglementに自我の核心があることになります
(概念としては、自我の核心がentanglementにあるわけですが、entanglement は有無どちらでもないわけで、仏教では自我は無いことになっています)

    死んだら自分のquantumは消滅するのですが、entanglement に自我の核心が存在しているので、(観測)は終わらず、来世はある、でいいのではないですか

上の図で言えば、矢印の部分の観測によって白いモヤモヤのquantum が生じるのであって、矢印そのものはquantum には含まれないのです、というか、含まれたらそもそも観測できない
とすれば、矢印はentanglement の側になければならない
矢印とは観測する自我の核心ですから、自我の核心は、時間も空間も無いentanglement にあることになります


    死は親しい者との別れを強制しますが、お互い時空の無いentanglement に自我の核心が永遠に存在し続けているわけですから、いずれ再会します


今、この文章をお読みになっているあなたの「自分自身」は、entanglement であり、死によっても終わらない、ということになります
だから、この「自分自身」をいかに磨くか、が人生の最高のテーマになるのではないでしょうか


余計なことですが言うときますが

くだらない自分自身も、情けない自分自身も、酷い自分自身も、あり得るわけで、そこは、努力が必要だと思っています

まあ、時間は永遠にあることになるわけで、自分と他人に優しく寛大になることができるのではないですか




ちなみに、entanglementという言葉は、ここ2、3年で聞くようになった言葉で、たぶんノーベル賞でEPRパラドックスが否定されて、注目されるようになったのでしょう
10年くらい前の量子論の本ではsuperposition で説明されていました



このブログの人気の投稿

お堂の前で拝む時のコツ

六器

多神世界 仏教の世界観