共鳴とプロトコル

 仏教の修行の最も古典的な説明は中国の天台大師の「止観」です

「忘我と精神集中」「私利私欲を制限して真実を行う」意味で、読経、坐禅、念仏などほぼこれで説明できます


この200年程後に日本の弘法大師が「加持」という概念を確立します

仏の側からの働きかけが説明できるようになりました

止観では、自分自身の修行が強調されるわけで、感覚の制御(止)をするのは自分で、何を観るか(観)も自分です


加持は

「仏日の影、衆生の心水に(現ずる)を加といい、行者の心水、よく仏日を(感ずる)を持と名づく」 即身成仏義 弘法大師

と言う説明ですが

どうすれば、よく現じ、よく感じるのか?



弘法大師によれば、三密加持(身口意、印・真言・観念)すれば速疾に現れることになっていて、1200年の間に数多の高僧を生み出し続けてきていますが、弘法大師クラスの聖者を量産したという噂は聞かないです

生まれてついての才能、素質も必要なのでしょう

三密のうち、印と真言は模倣が可能で、別段難しくはありません



問題は観念で、伝授できるように言葉で書かれたものが一応ありますが、人によって理解の深さが全く違うので、ここで差がつきます


身ー写経、修験、滝行などー印

口ー読経、念仏、声明などー真言

意ー禅、瞑想、誘導催眠などー観念


大まかに配当するとこうなりますが、この観念がですね、entanglementの部分に含まれてくると考えられるわけです

それで、どのように「自在に観る」のかが大事になります

写経、読経、念仏など、どのような拝み方にも「心の動き」があり、それは「自在に観る」ことそのものです

身と口の所作は様々ありますが、そこに心がこもっていなければ、ほとんど意味は無いでしょう

仏教に限って言っても、様々な伝統があるのですが、やはり「自在に観る」ことが大事です


仏菩薩の側からの働きかけを説明するのに、加持という概念が必要なのですが、単純に言えば、「仏と自分が繋がる」ことです

「繋がるの」をサンスクリット語で言うとYOGAです

理論的に言うと、entanglememtな存在同士が、どのように繋がるのかという問題になります


「万物はentanglement 」ですから、別々でもなく、同一でもありません

これがどうすれば繋がるか

プロトコルは、最低限、平和である必要があります

やはり、例えるならば、resonance(共振、共鳴)かなぁと思いますね


声字実相ですね

弘法大師は天才だわ


弘法大師画像 長保寺蔵 室町前期




resonance だからどうだ、というのはちょっと違います

これは、ものの例えで言っているだけで、具体的なエビデンスはありません

まあ、音叉を取り出して周波数がどうだとか、お堂で読経の声が共鳴するとか、それは、全く別の話になります

盛り過ぎ注意です

真実は多分もっと精妙で神秘的です


仏菩薩と我々が繋がる時の「プロトコル」が問題です

密教の複雑な伝授になると、灌頂が必要になりますが、これは、キリスト教でも洗礼が必要な場面があって、水を使うところなど似ています

水は凍らせると結晶の形がちがい、やはり、波動(つまりresonance)かなと思わせますけどね

土砂加持と言って、石英(水晶)の粉末を加持する、慰霊供養の作法があったり

水晶の宝具が珍重されたり

(水晶は発振周波数が一番安定した物質で、時計のクオーツに使われています)

聖地とか霊場が花崗岩地帯(石英が多く含まれる)だったり

火山や温泉が近かったり

色々、波動を連想させますね


resonanceは、とんでもない場違いな例えでもないと思います


プロトコルは、それと別で、手順規則のことです

これも、明確に書かれた経典は無いかな

仏菩薩が衆生済度しようと誓った、とかの話はありますが

有名なところでは、弥陀の四十ハ願とか、お釈迦様の破地獄偈とか


プロトコルを説明しようと思いましが、経典に明快な根拠は無いですね

自転車に、全く乗れなかった人が、ふとコツを掴んだ感じ、とでもいいますか

ああ、こんな感じかぁ、と言うことなんですけどね

言葉で言うなら「圧倒的な慈悲の感触」

一度経験したら生涯忘れることはありません


仏菩薩と自分を繋ぐプロトコルのことですが

いかなる手順が理想的か、考えてみます

平和で、慈愛に満ち、大量で迅速、学歴不問、預金残高不問…このくらいにしときます


このプロトコル成立の為に、あなたは何をしましたか?

私利私欲と我儘と思い付きと自分勝手では、成立は難しいですね


お釈迦様が自発的に念じています

毎自作是念 如何令衆生 得入無上道 速成就仏身

つねに自らこの念をなす 何をもってか衆生をして 無上道に入り 速やかに仏身を成就せしめるかと(法華経寿量品)

地獄の苦悩をも破壊するので、破地獄偈と言います


あなたが、仏を信じるのではありません


法華経寿量品 平安後期 長保寺蔵


毎自作是念(まいじさぜねん)

つねに自らこの念をなす


お釈迦様がいつも念じてくれると言っているので、我々が余計なことをする必要はなさそうです

だから、原則として止観が成立するわけです

ただ、実際問題、簡単に無念無想にはなれません

なかなか厄介だぞ、で2500年仏教はやっているのです



ネットワークは最低限破壊されないよう「平和」でなければなりません
だから、最もスムーズに通用するプロトコルは「慈悲」です

仏は常に我々を助けようとしています(大慈悲)

仏に向かって、「大好き」「いつもありがとう」と念じてみてください

プロトコルがつながると、共鳴(resonance)します


瞑想のコツに、一番最初に「微笑む」というのがあるのだけれど、これ、今までほんとに誰も言わなかった

  「無ーーっと」とか、ただ半眼にしろ、とかしかなかった

    やってみたらわかるけど、入り方が違うよ

    理屈は、プロトコルが「慈悲」だからです

瞑想や坐禅や念誦、などなかなか成果が出ない人は、一番最初に「微笑んで」、神仏に向かって「大好き、いつもありがとう」って念じてから初めてみてください

今まで、そんなことしたことありますか

神や仏も、「うれしい」と思うんじゃないでしょうか
  

 仏教はもう2500年やっているわけですから、「空」に多数の先達がいらっしゃることが想定されるわけです

    お釈迦様以外にも、過去現在未来で3000仏、数限りない菩薩・護法善神・聖僧・神僧など
    この存在達に、「空」の中で応援され手助けされているのです

そもそもですが、神仏の加護を得るには、resonance (共鳴)が必要なわけで、様々な作法や修行法など形だけまねても思ったような成果はありません

「空」の中でプロトコルが成立するには、resonance(共鳴)する必要があります

神仏の「慈悲」と共鳴したいなら、自分にも「慈悲のかけら」が無いとresonance(共鳴)はしません


    だから「誰かを救おうとするものが、救われる」のです


    「己界、仏界、衆生界」がそれぞれentanglement だからresonance(共鳴)し、癒しが可能なのです


    
 




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