2023/01/10

仏教修行の基本

 仏滅後100年頃、仏教は上座部(伝統重視)と大衆部(臨機応変)に分裂します


上座部の修行法をまとめたのが、清浄道論です

内容は、シャマタ(止)、ビバシャナ(観)です



大衆部の修行法をまとめたのが、摩訶止観です

内容は、当然、止観です



仏教の歴史を通じて、他にはこの解説書がある位です


https://chohoji.blogspot.com/search?q=摩訶止観


上座部のシャマタ(止)ビバシャナ(観)と、大衆部の止観はどこが違うのかですが

上座部の経典に、法華、般若などを追加したのが大衆部ですから、上座部と大衆部は骨子は同じと言っていいと思います


上位互換と言ったら怒られます

上座部は、いわば、原理主義

大衆部は、いわば、拡大解釈派です


日時計を見て、午前中に食事を終わらせる決まりだったのを

上座部になった人達は、きちんと守り

大衆部になった人達は、日時計指一本分は誤差として認めて欲しいとしたのを否定されて、分裂したということです


だから、上座部と大衆部の本質的な違いは、指一本分です


摩訶止観を講義したのは天台大師です


天台大師画像 長保寺蔵 桃山時代



天台大師は大蔵経全てを、説法年代別、説法内容別に整理して、修行法も体系化して、今でも仏教学の基本です


気持ちを静めて(止)

正しく思う(観)


簡単だとは言いませんが

仏教の修行は、ただこれだけです


産まれながらに持ち合わせている「気持ち」を、何故に落ち着かせなければ(止観の止)ならないのか?

生命進化の歴史を経てきた我々は、自分にとって安全で利益のある物事に、特に関心をもちます

自分の生存に関わるからです



それを、自己中心的に解釈すると、歪みが生じるのです


根深い問題です

自分自身を守るための生命反応が、利己主義の原因になっています


「万物はentanglement」なのですが、時間空間、生死、苦楽も作り出しています


しかし、我々は、そうやって生きているのです


では、我々は、歪んだquantumを量産するために生きているのか?

この図から考えるならば

entanglement だけでは世界は存在できません

あなたが、矢印の「観測」をしない限りquantumは生じないのです(止観の観)

この世界には、あなたの「より善い思い」が必要なのではないですか


仏教で、善いこと、と言ったら十善戒が思い浮かぶわけですが、これもまだ複雑なんで、最近はこっちが主流かな


七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ) 過去七仏共通の戒


諸の悪はなすなかれ(諸悪莫作)しょあくまくさく

衆の善を奉行せよ(衆善奉行)しゅぜんぶぎょう

自ら其の意を浄くせよ(自浄其意)じじょうごい

これ諸仏の教なり(是諸仏教)ぜしょぶっきょう


諸々の悪はなすなかれ

これは素朴に、最低限、犯罪行為をするなってことでしょう


衆の善を奉行せよ

人々にとって善きことを行え(奉行というのは命じられて行うことですから、仏が我々に命じています)


自らその意を浄くせよ

自分で自発的に、心を浄らかにせよ


悪と善と浄は、都度自分で考える、ということでしょう


「慈悲」「悪」「善」「意を浄く」など、具体的にはなにか、とおっしゃりたい気持ちはわかります

まさに、日々の暮らしで、突きつけられ、結論を迫られ、迷っても、そこをなんとかするのが仏教の修行なのでしょう

ただ、あなたは、独りぼっちではありません、仏が念じてくれています


「お釈迦様ならどうするか、考えて」


先達の言葉です

当然、わかるわけがない


ただ、そこを、考え続けることが大事です

進む道は、そこしかないんだから


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