仏滅後100年頃、仏教は上座部(伝統重視)と大衆部(臨機応変)に分裂します
上座部の修行法をまとめたのが、清浄道論です
内容は、シャマタ(止)、ビバシャナ(観)です
大衆部の修行法をまとめたのが、摩訶止観です
内容は、当然、止観です
仏教の歴史を通じて、他にはこの解説書がある位です
https://chohoji.blogspot.com/search?q=摩訶止観
上座部のシャマタ(止)ビバシャナ(観)と、大衆部の止観はどこが違うのかですが
上座部の経典に、法華、般若などを追加したのが大衆部ですから、上座部と大衆部は骨子は同じと言っていいと思います
上位互換と言ったら怒られます
上座部は、いわば、原理主義
大衆部は、いわば、拡大解釈派です
日時計を見て、午前中に食事を終わらせる決まりだったのを
上座部になった人達は、きちんと守り
大衆部になった人達は、日時計指一本分は誤差として認めて欲しいとしたのを否定されて、分裂したということです
だから、上座部と大衆部の本質的な違いは、指一本分です
摩訶止観を講義したのは天台大師です
天台大師画像 長保寺蔵 桃山時代
天台大師は大蔵経全てを、説法年代別、説法内容別に整理して、修行法も体系化して、今でも仏教学の基本です
気持ちを静めて(止)
正しく思う(観)
簡単だとは言いませんが
仏教の修行は、ただこれだけです
産まれながらに持ち合わせている「気持ち」を、何故に落ち着かせなければ(止観の止)ならないのか?
生命進化の歴史を経てきた我々は、自分にとって安全で利益のある物事に、特に関心をもちます
自分の生存に関わるからです
それを、自己中心的に解釈すると、歪みが生じるのです
根深い問題です
自分自身を守るための生命反応が、利己主義の原因になっています
「万物はentanglement」なのですが、時間空間、生死、苦楽も作り出しています
しかし、我々は、そうやって生きているのです
では、我々は、歪んだquantumを量産するために生きているのか?
この図から考えるならば
entanglement だけでは世界は存在できません
あなたが、矢印の「観測」をしない限りquantumは生じないのです(止観の観)
この世界には、あなたの「より善い思い」が必要なのではないですか
仏教で、善いこと、と言ったら十善戒が思い浮かぶわけですが、これもまだ複雑なんで、最近はこっちが主流かな
七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ) 過去七仏共通の戒
諸の悪はなすなかれ(諸悪莫作)しょあくまくさく
衆の善を奉行せよ(衆善奉行)しゅぜんぶぎょう
自ら其の意を浄くせよ(自浄其意)じじょうごい
これ諸仏の教なり(是諸仏教)ぜしょぶっきょう
諸々の悪はなすなかれ
これは素朴に、最低限、犯罪行為をするなってことでしょう
衆の善を奉行せよ
人々にとって善きことを行え(奉行というのは命じられて行うことですから、仏が我々に命じています)
自らその意を浄くせよ
自分で自発的に、心を浄らかにせよ
悪と善と浄は、都度自分で考える、ということでしょう
「慈悲」「悪」「善」「意を浄く」など、具体的にはなにか、とおっしゃりたい気持ちはわかります
まさに、日々の暮らしで、突きつけられ、結論を迫られ、迷っても、そこをなんとかするのが仏教の修行なのでしょう
ただ、あなたは、独りぼっちではありません、仏が念じてくれています
「お釈迦様ならどうするか、考えて」
先達の言葉です
当然、わかるわけがない
ただ、そこを、考え続けることが大事です
進む道は、そこしかないんだから






