釈尊、舎利弗、シーラバトラ(529-645)、玄奘(602-664)、道昭(629-700)、行基(668-749)の繋がり
釈尊は心経を舎利弗に説く
ナーランダ寺に舎利弗の墓がある
シーラバトラ(戒賢)のナーランダ寺における地位は、全インドの仏教界の最高峰であり、同寺の最高責任者(座主・学長)でした。
シーラバトラの本名を直接呼ぶことは恐れ多いとされ、誰も彼の名前を口にしませんでした。
代わりに、「正法蔵(正しい仏法の倉庫・体現者)」という最高の尊称で呼ばれていました
移動の特権: 歩行が困難な高齢であったため、移動の際は常に象が用意され、専用の椅子(輿)に乗って移動しました。
専属の従者: 常に100人近くの従者や門弟子が身の回りの世話や護衛にあたっていました。
国家的な経済支援: マガダ国の王から「20の村の税収」がシーラバトラ個人のために供出され、彼の衣食住や医療を支えていました。
シーラバトラは、どのような難解な議論や他宗派との論争であっても、「彼が最後に一言下せば、すべての議論が解決・決着する」という、絶対的な権威を持つ「最終審判者」の役割を果たしていました。
玄奘がインドのナーランダ寺に到着し、シーラバトラに面会したのは西暦636年(あるいは631年〜633年頃とする説もあり)とされています。
出会った時の年齢: 『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』などの記録によると、玄奘を迎えた時、シーラバトラはすでに「106歳」という高齢であったと記されています。
玄奘を待っていた伝説: シーラバトラは前世で王であった時の民の苦しみの因縁により重い病(リウマチ)に苦しみ、あまりの激痛から絶食して入滅(自殺)しようとしていました。
しかしその時、夢に観音菩薩らが現れ、「8年後に中国から『玄奘』という僧が教えを請いにやってくる。彼に仏法を授けるために、病に耐えて生き永らえよ」と告げられたといいます。
玄奘が唐を発ったのは、まさに夢告のあった年で、玄奘は8年間の苦難の巡礼を経て、シーラバトラに面会します
道昭は遣唐使として入唐して、大慈恩寺の玄奘に学ぶ
玄奘は大慈恩寺で心経をサンスクリットから漢文に翻訳した
玄奘は道昭を迎えた際、道昭を特別に重用し、同じ部屋に住まわせて次のように語りました。
「私がかつて仏法を求めて西域(インドへの旅路)を行き交う中、途中で飢えに苦しみ、食べ物を乞う村すらなくて死にそうになった。その時、一人の僧が現れて梨を私に与え、そのおかげで一命を取り留めた。あの時の僧こそ、前世のあなた(道昭)だ」『続日本紀』
道昭は(653-664)の間、在唐して帰国し奈良の飛鳥寺に住す
行基はこの飛鳥寺で道昭に学ぶ
聖武天皇は行基を日本最初の大僧正に補任(745)
国営事業として隅寺心経の書写(746-749)
行基没(749)
行基集団の動員力と官僚機構の融合: 行基は自身を慕う膨大な「知識(民間協力者)」のネットワークを持っていました。彼が大僧正として国営事業を指揮したことで、それまでの特権階級だけの写経から、国家の予算と民間の圧倒的なエネルギーが融合した、超効率的な大量生産体制が実現しました。
なぜ『心経』だったのか: 巨大な『一切経(5,000巻以上)』をすべてコピーするには膨大な時間と労力がかかります。しかし、わずか262文字に仏教の真髄が凝縮された『心経』であれば、多くの人間が一丸となって短期間に大量に書写し、全国へ届けることができます。大仏造立という巨大プロジェクトを成功させるための「精神的支柱」として、行基はこの心経書写を強力に推し進めました。
釈尊が説き、
舎利弗が聞き、
シーラバトラが守り、
玄奘が命をかけて東洋へ運び、
道昭が「実践の種」として日本へ持ち込み、
行基が仏教の肝心要として書写し広めたのが「隅寺心経」
釈尊、舎利弗、シーラバトラ、玄奘、道昭、行基をつなぐ縦糸は心経であると言わざるを得ない
