2010/03/31

日本寺 ブッダガヤ


ブッダガヤには,世界中の仏教国の寺院がありますが、もちろん、日本のお寺もあります
最近では、新興宗教などが盛んに寺院を建設していて、インド各地に日本の建てたお寺があります

日本寺は全日本仏教会が建てたお寺で、住職は各宗派回り持ちで、今年の当番は天台宗です
92歳になる半田座主も、ここまで来て普山式をしました



建物の中は薄暗く、日本式ですな
申し訳ないけど、壁画が不気味です
インドの人は日本仏教に、どんな印象を持ちますかね
どうも、侘寂(わびさび)は日本人だけです
世界中どこでも、宗教建築はギンギラが多いです


キリスト教の教会はステンドグラスなど光を取り入れる設計が特徴ですが、仏教は、それは無いんですよ

キリスト教は「仏性が全ての人にある」、とは言いません
神は一人で、我々は「迷える子羊」です
で、神のイメージが、建物に差し込む太陽の光です

仏教は、各自の心に「仏性」があって、各自の知恵で自分の「仏性」に気づく、というのが基本コンセプトです
まあ、密教は、そこに仏の助けがある、となってきますが、基本は同じです
で、自省する、坐禅する、といった自助努力が重視され、外光を取り込むよりも、薄暗い瞑想的な空間が作られていると

僕的には、せっかくのブッダガヤですから、大塔にお参りに行けばお寺を建てる必要はないと思えるのですが、どうでしょうか
立派なお寺ですが、半分以上、意地の張り合いのような気がしますね

 

2010/03/30

ブッダガヤ

釈尊が悟りを開いた地、ブッダガヤ

ブッダガヤには世界中の仏教国のお寺があり、管理委員会があって、管理されています
他の仏跡と違い、遺跡として保存されているのではなく、お寺になっています

大きな塔がありますが、イスラムの侵入の時、当時の仏教徒が埋めて逃げたのを、イギリス人のカニンガムによって発掘されました
だから、周りは小高い丘になっていて(埋めた土が山になっている)、階段を下りてお参りします
これも、イスラムの傷跡ですね
どうなんでしょうね、今のイスラムの方は、こういう状況を知ったら、誇りに思うんでしょうかね
インドではイスラムの人口も多く、ヒンドゥーやイスラムの原理主義者を刺激しないよう、隔離するようにしているみたいです
ヒンドゥーの大きなお寺の前には警察官がいて、検問しています
イスラム寺院は、イスラム教徒以外は中に入れないのが建前です
観光客は大人しくしていれば入れてもらえますが、地元の人はどうなんでしょうね

仏教徒は、このブッダガヤでも、各人各様にお参りしていて、多様性と言えばそうだし、まとまりが無いと言うこともできます
それが、世界に広がった要因でもあるのでしょう






塔の中には、立派な釈尊の像があります
タイ式の仏像ですね

これは降魔成道の像と言って、右手を触地印(手を伏せて指先で地に触れる)にしていますが、この塔の裏側に悟りを開いた場所である金剛宝座があって、そこにも降魔成道像があります
金剛宝座は、15年前はその横に座ってお参りでき、降魔成道像も間近で拝見できましたが、オウムの麻原が、その金剛宝座に上り、釈尊の生まれかわりだ、とやったもんだから、今では厳重に柵をして近寄れなくなってしまいました


金剛宝座の横に、仏足石があって、10年前には各自ここで拓本を自分で取ることができましたが、なにかあったんでしょうね、今はガラスケースで覆われています
だから、この拓本も、お手元にあるなら、貴重品でしょうね



2010/03/28

有余涅槃とポジショントーク

クシナガラ 涅槃堂


肉体を持っている状態で悟りを開くと、まだ完ぺきな状態でないということになって有余涅槃だということになります
肉体を捨てる(つまり死んで灰になる)と無余涅槃で、余すところなく、悟りの状態だと
肉体があるうちは、生きることにまつわる煩悩から完全に解放されないと考えるからです

釈尊は、ブッダガヤーで悟りを開いて、もうそのまま涅槃に入ろうとしたと伝えられています
それを、梵天が現れて、ぜひ衆生に説法してほしいと頼んで、長い伝道の道に入りました
無余涅槃にすぐ入ろうとしたのを、引きとめられて、有余涅槃を続けたわけです


株式相場の用語らしいですが、ポジショントークという言葉があります

株が上がるか下がるかよくわからない時、自分が株を買って持っていると、「株は今後上がるでしょう」ともっともらしく解説し、自分が売っていると、「株はもう駄目です。下がります」と解説します
自分が買っているか売っているか(これをポジションを持つ、と言う)で、自分に都合のいい話をするのです
そういうことがあるので、たとえば、日経新聞の記者は自分で株をすることは禁じられています
勝手に、自分に都合のいい記事を書かないためです
それと、自分が買って持っていると、どうしても、上がる材料のほうを評価してしまうのです
不利な材料が出ても、正しく分析できなくなってしまいます

たとえば、同じようなことは、戦争報道にもあります
誰でも自国の軍隊が有利なような話を好みます
負けて敗走しても、転進などと無意識に言い換えてしまったりします

身内のことや、自分の子供でも同じです
どうしても身びいきします
それが、むしろ自然です
客観的に考える、などと言えば、「冷たい奴」ということになります


それで、肉体がある、というのは、つまり、ポジションを持っているということです
自分に都合のいい話をどうしても過大に評価します
肉体を維持するためには手段を選ばぬ、ということにもなります
古神道では、肉体のない自然霊のほうが格が上と考えるらしいですが、まあ、一理あります

では、なぜ、釈尊は有余涅槃を選んだのか
梵天に頼まれたというのもあるでしょうが、すぐに無余涅槃に入ってしまえば、人々が真実に触れることができず、闇のなかに取り残されるからです
説法を聞いても理解できない人も多いが、説法を理解できる人もいる、とお経には書いてあります(このへん、案外シビアです)

ですから、ポジショントークは、全て悪いかというと、そんな単純ではない、ということですね
釈尊がポジショントークをしてくださったおかげで、今の我々は仏教に触れることができるのですから

仏教の中にある、現世利益は、だから、まったくのポジショントークですよ
現在の宗派仏教もポジショントークですな
伽藍の維持管理、仏像修復など、完璧な、無余涅槃じゃないのです

ポジショントークには、混じりけが有る、ということをですね、忘れちゃいけませんね
  
  

2010/03/27

バーナーラシー

サールナートはガンジス川の近くで、バーナラシーの近くです
バーナラシーはインド人にとっては、火葬した灰を流す聖地です
川縁で火葬するだけでなく、各地で火葬しても灰はこちらで流します
インドは広いですから、どうしてもバーナラシーにこれない人は、近くのガンジスにつながる川に灰を流すそうです
どうしてもバーナラシーにこだわるので、全国から人が集まり、川の近くは朝からたいへんな雑踏です




インドの人はガンジスの水を聖水として、お土産にもって帰りますから、水の入れ物も各種売っています




まあ、かなりの量の人骨と火葬の灰が川底にはあると思われますが、焼いているわけで、清潔といえば清潔ですね

インドの仏跡を巡拝すると、サールナートの近くということもあって必ず立ち寄る所ですが、仏教とは直接関係はないですね


2010/03/26

サールナート

サールナートは、釈尊が悟りを開いた後、5人の修行者を相手に初めて説法した場所です

立派なストゥーパがありますが、ここは発掘調査され、てっぺんから下に向かってトンネルを掘ってみて、結局、仏舎利が無いことが確認されています

18世紀にサールナートにある他のストゥーパ跡で仏舎利が発見されましたが、その時は値打がわからず、近くのガンジス川に流してしまったそうです
ちなみにイスラムの王様です
ガンジスは、より清くなったことでしょう

この白い服の集団のいるあたりが、仏舎利が見つかったとされる場所です

この人たちは、タイから集団でお参りに来た人達で、右端の黄色い衣の人が引率のお坊さんです
現在、タイからの団参は、仏跡地で、ある種有名です
この人達は、他の参拝客にお構いなく、ハンドマイクで延々2時間位説教し続けます
陣取ったら、動きません
人が拝んでいる前を平気で横切ります
熱心なのですが、つまり、自分の都合しか考えていません
テーラワーダ仏教の本質はどうあれ、「小乗仏教で自分の救いしか考えていない」と言われてもしかたないですね
お参りの姿勢に現れてます

ガイドのシャルマさんも
「あー、またタイ人だよーー。タイ人が来てるよーー。」と叫びます

けっこう、あちこちの仏跡で出会います



サールナートには、博物館があって、非常に貴重な仏像や彫刻などが展示されていますが、今は全く撮影が許可されていません


その博物館に初転法輪の釈尊像があります
全く別格で展示されています
博物館の中ですが、皆が礼拝しています

この写真は、まだ撮影が許可されていた10年以上前のものです
貴重な写真になりましたね

微笑んでいます
僕はこの仏像を見て、日本にある、いかつい顔をした仏像はローカルルールであって、微笑んでいるのが本当だと確信しました

仏像を初めて作ったガンダーラでも、仏像は皆、微笑んでいるのです



ストゥーパの横にテーラワーダ式の寺院があり、日本人画家の壁画があります


戦前の絵だそうで、なんとなく仏様の顔が怖いですね

2010/03/25

涅槃堂 クシナガラ


2010年2月15日にお参りいたしました

涅槃堂は釈尊が涅槃に入られた場所に建てられています
沙羅双樹の間で涅槃に入ったとお経に書かれているので、日本人が公園に沙羅の木を植えました
その木の間で涅槃に入ったので、双樹と言うのです

内部は10年前と変わらず、昔のままです

涅槃像は、グプタ時代(5世紀頃)のものです



かなり大きな像ですが、タイに行くともっと大きくなります
なぜか涅槃像は大きいのです
涅槃という概念を表そうということでしょうか

仏教では、悟りを開いた釈尊を有余涅槃(うよねはん)、入滅後を無余涅槃(むよねはん)と言って、肉体のあるうちは完全な悟りの状態ではなく、肉体が消滅した後を完全無欠な悟りの状態と考えています

そう考えれば、クシナガラが仏教最高の聖地ということにもなります

肉体は移ろいゆく限界がありますが、肉体を捨てた後も意識が存在するなら、死による限界はありません
キリストの復活も、キリスト教にとって、どうしても必要な事跡ということになりますね

仏教では、仏性が全ての生物にあるとしていますから、涅槃の世界は、誰にでもあります
釈尊のクシナガラにおける最後の説法は「一切衆生悉有仏性」です

「今の僕らの意識は空から肉体が借りてきたものだ」、と考えてみると、死は意識をまた空に返すだけということになります
葬式、法事、お墓、仏壇など、すべて、意識の不滅が前提に成り立っています
輪廻転生も意識の不滅があれば成り立ちます

妄想を抱いたまま死んでしまうと・・・・妄想世界に行きます
悟りを開いてから死ぬと・・・・・涅槃です

仏教は、普通の我々が死ぬと、生きていた時してきたことに従って、輪廻転生すると考えています
実は、ここのところはヒンドゥー教といっしょです
ヒンドゥー教では、貧乏に生まれたのは前世の報いだから、死ぬまで貧乏階級でいなければなりませんが、仏教は、生まれが悪くても生きているうちに挽回することもできると考えています(これが画期的な考え方なのですねぇ)
仏教の考え方を延長すると、神様も悪いことをすると地獄に行く、ということになります
もちろん善いことをすれば、善い神様のままですけど






お堂は綺麗に塗り直してあります

丸いドームは涅槃に立ち会ったアーナンダのストゥーパです

アーナンダは川の真ん中で涅槃に入りました
仏滅後、アーナンダに説法に来てもらいたくて、川を挟んで阿闍世王とリッチャビ族が戦争になりかけました
それで、川の真ん中の船の上で、アーナンダは自らの意志で涅槃に入りました
ですから、アーナンダの舎利は二つに分けられ、もう一カ所、バイシャーリにもあるそうです

涅槃堂から少し離れた所に、釈尊を火葬した荼毘塚があります




インドでは2月15日が涅槃の日ということではないので、特になんの行事も行われていません
現在インドの仏教行事は、ほぼテーラワーダ式かチベット式で、日本仏教の考え方は反映されていません
やはり、地理的に遠いのと、なぜか日本では、インドの仏跡より自分の宗派の祖師を重視しますので、存在感が薄いのでしょう

四国や西国を巡礼するように気軽にはいきませんが、残念ですね

2010/03/24

クシナガラ

お釈迦様の涅槃の地です

公園として綺麗に整備されて、地元の人たちがたくさんピクニックに来ています
これも10年前には考えられなかったことです



サリーが綺麗です
田舎のほうがサリーが多い印象ですね
畑仕事も普通にサリーでします


クシナガラには、新しいホテルも続々と出来ていて、各国のお寺も建ち並んでいます
全く様変わりしてしまいました

ほんとに、なんにもない所でしたからね

新しくできた、ロイヤルレジデンシーホテル
法華ホテルと同じ系列です
ガイドのシャルマさんは、このグループの社員です

切れている電球はないし、水洗トイレの水はちゃんと流れるし、世界標準のまともなホテルです

AIが要約した、癒される瞑想

  Xをあちこちクリックしていたら、意図せずAIが要約を作ってくれた こんなこと書いてたのか、と自分でも忘れていたことまで見事に要約してくれてます オレンジ色の字は、今回付けた注釈です   瞑想の具体的な手法について (長保寺の瑞樹正哲住職)が発信されている「癒される瞑想(瞑想の...