活路

仏菩薩を尊敬し
八百万の神を尊敬し
イエスキリストを尊敬し
アラーの神を尊敬し
自分を信じる



世界のどこに行っても、これで誰とでも友達になれます

さまざまな宗教に、それぞれ異なった教義がありますが、それは理屈にすぎません
どこが優れ、どこが間違っているかを決めるのは自分です
正月に神社に初詣をし、結婚式は教会で、葬式は寺
これで、全然オッケーということです

信じるに値する自分になる努力が必要だ、ということでもあります

難しく言うと、天台本覚思想です

一切衆生悉有仏性(涅槃経)
いっさいしゅじょうしつうぶっしょう

一切衆生に悉く仏性有り

生きとし生ける者に、すべて、仏となる性質がそなわっています

朝起きて、誰かが代わりに便所に行ってくれるわけではありません
腹が減って、誰かが代わりに飯を食ってくれるわけでもありません
生きていくのは自分なのです

自分を信じられない人は、他になにかを信じることはできませんよ
最後まで自分を見捨てないでください
今の行いは、来世でも役に立つのですから

仏教の基礎知識



なのですが、悪い奴もいれば、話の通じないヤカラや、確信犯など、敵意と悪意に満ち満ちているのが世の現実です

仏性など無い奴もいるのではないかとさえ思えるのです、が



つまりは、目に見える前の、感じる前の世界には、一切のエゴイズムはありません
それでいて、静かに均衡を保っています
それを「寂にして照らす」とも表現します
空、法界、本覚、神力、仏性、真如、大慈悲、などなど、感じられる前の世界の属性の一部を取り出して言葉で表現したにすぎません

見る前の世界だから、数を数えることはできませんから、一でも多でもなく
感じる前の世界だから、同じでも違うでもなく
来るでも行くでもなく
有るでも無いでもなく
好きでも嫌いでもなく
善でも悪でもなく
正しいでも間違いでもなく
表でも裏でもなく
楽でも苦でもなく
愛でも憎しみでもなく
戦争も平和もなく
損も得もなく
生も死もなく
生じるでも滅するでもなく
増すでも減るでもなく
綺麗でも汚いでもなく
均衡を保ち続けています

その感じる前の世界を、感覚器官を通じて脳内に再構成して、今、我々は生きています
今、パッと眼をつぶっても、眼の前のモニターはそこにあります
眼を開いたら、モニターの姿が脳内に構成されます

眼をつぶった時に、眼の前にあるモニターの姿はわかりませんよね
眼をつぶってるんだから、見てないわけですから
でも、眼の前のモニターは、映像を映しています(見てないから、わからないのですが)
見えてないモニターに、何が写っていても、評価のしようがありません
見ることが出来るからこそ、好きとか嫌いとか、評価できます
まあ、当たり前の話なんですけど

それで、眼を開いてモニターを見た時に感じることは、各人、千差万別、十人十色、それぞれ違います
意見が一致することもありますが、確認しなければわかりませんよね

それを、感じる前の世界を、自分なりに脚色して再構成して感じている、と言うこともできます
歪みもあれば、妄想も、誤解も、間違いも、思い込みも、見落としも、あると

人間には自由がありますから、各自勝手に、脳内世界を構築してるのです


自分を信じる」と言ったところで、歪んだ脳内世界を信じてもしょうがないのです
ですが、脳内世界を生きるしか、我々には生きる方法がありません
各人、今まで受けた教育や、経験、学習などを駆使して、生きていくしかありません
脱線、紛争、いさかい、衝突、誤解など、不可避です

 
たとえば、これから益々複雑化する国際関係を例にとれば

中国、台湾、韓国、北朝鮮、日本は、飛行機で飛べば、2,3時間で行けるところにあります
益々近くはなっても、遠くなることはありません
付き合っていくしかないのです
その時、各国は、自国を信じて、国益を追求して諸外国と付き合うしかない

で、その、自国を信じるわけですが、自分勝手な妄想を信じてたら、まあ、少なくとも嫌われます
戦争になるかもしれない
むしろ、戦争したい奴がいるかもしれない
だとしても、自国を信じるしかない
いったいどこに活路があるのか?


それを、仏教はどのように解決するのか?


法華経の破地獄偈ですが

毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身
まいじさぜねん いがりょうしゅじょう とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん

つねに自ら(お釈迦様が)この念をなす 「何をもってか衆生をして 無上道に入らしめ 速やかに仏身を成就するか」と

毎自というところがポイントです

これは、お釈迦様が、つねに、今この時も、自分で自発的に、無上道に導こうと念じている、ということです

「救って欲しい」とお願いされたからでは無い
一方的に無条件に念じている
だから、地獄にいて、なにも為すすべが無くても救われる
救われて仏身を成就する

ただし
お釈迦様が正義のヒーロのスパイダーマンのように現れて、どっこいしょと助けてくれるのとは違います

無上道に入らしめ」で、道に導くのです
進むのは、自分です
まあ、ですから、仏教というのは誤解を招く表現で、仏道が適切ですね
進むのは自分ですが、だからその、ホトケの導きで感じる前の世界の真実に基づいて進むと、、
奇跡的な自然治癒など、無いとは言いませんが、それでも、それなりの養生節制は必要です

わかりやすく言うと
一度無心になって、相手の立場に立って考えて、解決策を見出す
自分の都合が、相手から見たらどう見えるか考える
なにが「本当の利益」なのか、素直に考える
など
冷静な状況判断から、活路を見出す
ということでしょうか

落ち着いてよく考える、ということが、仏道の基本である、と


それで戦争なら、覚悟を決めて戦うしかないのです
まあ、冷静に、どう終わらせるか考える必要はありますが

平和も慈悲も、脳内世界の産物です
感情を離れ、冷静に情勢を分析して、戦う時は戦い、慈悲が必要なら慈悲を行うのです

こういうことを書くと、戦争賛美、残酷趣味とうつるかもしれません
ですが、僕はチベット仏教の末路を思うのですよ
観念的な平和主義では、残虐な攻撃を避けることができません

楽ではないですが、活路はあります
その活路を進むしかないのです

 

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