緑の縦線

ご存知の方は少ないと思いますが、最近はカトリックでも瞑想が重視されて、禅僧の方たちといっしょに瞑想する(つまり坐禅ですが)試みも真剣に行われるようになってきてます
しかし、この瞑想の、理論的な骨格は仏教、ということになります

東西霊性交流@円覚寺

仏教的な説明はこちらに書いています

般若心経の模式図

ホームページにも書いてますから重複しますが


見える、聞こえる、感じるなど、感覚器官でとらえた印象が脳内イメージになって、世界を認識しています
脳内イメージは、各人各様、すべて独自のものになります(脳内世界)
しかし、感じる前の世界は、たった一つしかありません
生滅も垢浄も増減もない、時間と空間のない完全無欠な世界です(真実の世界)



自分が感じた世界は、自分だけのものです
感じる前からある、ありのままの世界とは違います
自分の作り出したイメージに執着するのが「我執」です
苦しみや悩みは、「我執」が根本原因です



感覚器官で感じる前の、ありのままの世界そのものが、自分というフィルターが介在しない、真実の世界です
今自分が感じている、苦しみや悩みが、全くない世界です
苦しみや悩みを救う力は、感じる前の世界にあります
その力に気づくのを、悟り、と言います
わがこころ、吾心ですね


見る側の我々と、見られる側の世界との間には壁があります

この壁を超えるのが「慈悲の感触」です
ここでは、光と言っておきます
「慈悲の感触」だけが至高の心に繋がっています
あなたが、全力で誰かのために働く時、自分自身の中にある、至高の心に出会えます



「見られる」がわには「我執」は全く無いわけですから、機械や化学反応のような無機質な世界なのですが・・・
そこには、生きて活動している心があるわけです
その心を、「無償の愛」とか「慈悲」とか「慈愛」とか「己を忘れて他を利する心」などと名付けることができます

脳内に感覚器官を通じて投影された「脳内世界」に執着するのを、ほどほどにすれば、「真実の世界」が感じられます

その執着の程度、というか、濃さというか、まあ、上の図でいえば「見る」と「見られる」を隔てる緑の縦線ですが、生き様の程度を決めているとも言えます

我々は、どうしても言葉の意味を詮索してしまうわけで、古来仏教では不立文字とか果分不可説とかいって戒めてきたのです
それでも、あえて言えば

緑の縦線の我執の壁を突破するのが「慈悲の感触」です

だから、瞑想には「微笑むこと」が先ず大事だし、最後の最後、ホトケになるまで大事だということになるのです


微笑んで
リラックスして
呼吸に意識を集中して

イメージしてください 
息を吸うとき「だいじょうぶ」
息を吐くとき「うまくいくよ」
1,2分続けてみてください
できれば、もうすこし長く 
息を吸うとき
あなたを守る力が体に入ってきます(ありったけのイメージで思ってください)
息を吐くとき
その力を、あなたの好きな人にあげましょう(ありったけのイメージで)
疲れたらやめて
あなたを守る力に感謝します

それで、瞑想するときは自分のことだけ思うのではなくて、誰かのためを思うことも大事です

そして、「あなたを守る力」は「真実の世界」から来てるのですよ
そのうち腑に落ちます







こちらどうぞ





このブログの人気の投稿

お堂の前で拝む時のコツ

六器

多神世界 仏教の世界観