ご迷惑と、ご心配をおかけいたします
土砂崩れのあった場所は、国指定史跡になりますので、文化庁、和歌山県文化遺産課、海南市教育委員会と復旧の協議を継続しております
この9月下旬には、文化庁に史跡の現状変更届の書類が提出できるところまでこぎつけました
写真は、現在の土砂崩れの現場の様子です
崩れた時から手つかずのままです
ご迷惑と、ご心配をおかけいたします
土砂崩れのあった場所は、国指定史跡になりますので、文化庁、和歌山県文化遺産課、海南市教育委員会と復旧の協議を継続しております
この9月下旬には、文化庁に史跡の現状変更届の書類が提出できるところまでこぎつけました
写真は、現在の土砂崩れの現場の様子です
崩れた時から手つかずのままです
令和5年6月2日の集中豪雨で、国宝本堂裏手の北側斜面で土砂崩れが発生いたしました。国宝本堂周辺は流出した泥濘に覆われた状態です。現在復旧の目途はたっておりません。ご迷惑をおかけいたしますが、しばらくの間、拝観できない状態となります。
深く智慧を修行した時、「五薀は皆な空」なりと照見した(心経)
この五薀とは、色受想行識のことで、感覚器官で感じてから意識に上るまでの過程を、仏教ではかなり細かくこだわって分析しているのですが、一言で言えば、「自分の心の動き」です
つまり
「自分の心の動き」=空=entanglement
心経によれば、五薀=「自分の心の動き」は
不生不滅だから、始まりもなく終わりも無い
不垢不浄なので、貴賤上下善悪優劣など諸々無い
不増不減てことは、エネルギー不変の法則で、ほっといても無くならないってことですね
だから、これを読んでいるあなた自身は、永遠だということです
死去とか逝去という言葉がありますが、今生から去っても、「自分の心の動き」は無くなりません
これがですね、善いか悪いかと言うと、仏教では、輪廻転生必ずしも面白くないと言う立場です
だからと言って、頑張るしかないですけど
因果応報、業、宿命など諸々、生まれ持ってきているわけですが、永遠の過程の一場面ではあるのです
そこを、なるべく息災に安穏にと願うわけです
時間は永遠にあるので、諦めずにコツコツとやっていこうとは思っています
100点満点は無理でも、せめて60点、できればあと1点、あと1点、とやっているつもりです
いろんな宗教があり
いんなことを言う人がいるわけですが
朝、誰かが代わりに顔を洗ってくれるわけでも、トイレに行ってくれるわけでもありません
腹が減ったら、代わりに食べてくれるなんてことも無いのです
結局、自分なのです
永遠不滅の「自分の心の動き」を大事にしてください
仏滅後100年頃、仏教は上座部(伝統重視)と大衆部(臨機応変)に分裂します
上座部の修行法をまとめたのが、清浄道論です
内容は、シャマタ(止)、ビバシャナ(観)です
大衆部の修行法をまとめたのが、摩訶止観です
内容は、当然、止観です
仏教の歴史を通じて、他にはこの解説書がある位です
https://chohoji.blogspot.com/search?q=摩訶止観
上座部のシャマタ(止)ビバシャナ(観)と、大衆部の止観はどこが違うのかですが
上座部の経典に、法華、般若などを追加したのが大衆部ですから、上座部と大衆部は骨子は同じと言っていいと思います
上位互換と言ったら怒られます
上座部は、いわば、原理主義
大衆部は、いわば、拡大解釈派です
日時計を見て、午前中に食事を終わらせる決まりだったのを
上座部になった人達は、きちんと守り
大衆部になった人達は、日時計指一本分は誤差として認めて欲しいとしたのを否定されて、分裂したということです
だから、上座部と大衆部の本質的な違いは、指一本分です
摩訶止観を講義したのは天台大師です
天台大師画像 長保寺蔵 桃山時代
天台大師は大蔵経全てを、説法年代別、説法内容別に整理して、修行法も体系化して、今でも仏教学の基本です
気持ちを静めて(止)
正しく思う(観)
簡単だとは言いませんが
仏教の修行は、ただこれだけです
産まれながらに持ち合わせている「気持ち」を、何故に落ち着かせなければ(止観の止)ならないのか?
生命進化の歴史を経てきた我々は、自分にとって安全で利益のある物事に、特に関心をもちます
自分の生存に関わるからです
それを、自己中心的に解釈すると、歪みが生じるのです
根深い問題です
自分自身を守るための生命反応が、利己主義の原因になっています
「万物はentanglement」なのですが、時間空間、生死、苦楽も作り出しています
しかし、我々は、そうやって生きているのです
では、我々は、歪んだquantumを量産するために生きているのか?
この図から考えるならば
entanglement だけでは世界は存在できません
あなたが、矢印の「観測」をしない限りquantumは生じないのです(止観の観)
この世界には、あなたの「より善い思い」が必要なのではないですか
仏教で、善いこと、と言ったら十善戒が思い浮かぶわけですが、これもまだ複雑なんで、最近はこっちが主流かな
七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ) 過去七仏共通の戒
諸の悪はなすなかれ(諸悪莫作)しょあくまくさく
衆の善を奉行せよ(衆善奉行)しゅぜんぶぎょう
自ら其の意を浄くせよ(自浄其意)じじょうごい
これ諸仏の教なり(是諸仏教)ぜしょぶっきょう
諸々の悪はなすなかれ
これは素朴に、最低限、犯罪行為をするなってことでしょう
衆の善を奉行せよ
人々にとって善きことを行え(奉行というのは命じられて行うことですから、仏が我々に命じています)
自らその意を浄くせよ
自分で自発的に、心を浄らかにせよ
悪と善と浄は、都度自分で考える、ということでしょう
「慈悲」「悪」「善」「意を浄く」など、具体的にはなにか、とおっしゃりたい気持ちはわかります
まさに、日々の暮らしで、突きつけられ、結論を迫られ、迷っても、そこをなんとかするのが仏教の修行なのでしょう
ただ、あなたは、独りぼっちではありません、仏が念じてくれています
「お釈迦様ならどうするか、考えて」
先達の言葉です
当然、わかるわけがない
ただ、そこを、考え続けることが大事です
進む道は、そこしかないんだから
仏教の修行の最も古典的な説明は中国の天台大師の「止観」です
「忘我と精神集中」「私利私欲を制限して真実を行う」意味で、読経、坐禅、念仏などほぼこれで説明できます
この200年程後に日本の弘法大師が「加持」という概念を確立します
仏の側からの働きかけが説明できるようになりました
止観では、自分自身の修行が強調されるわけで、感覚の制御(止)をするのは自分で、何を観るか(観)も自分です
加持は
「仏日の影、衆生の心水に(現ずる)を加といい、行者の心水、よく仏日を(感ずる)を持と名づく」 即身成仏義 弘法大師
と言う説明ですが
どうすれば、よく現じ、よく感じるのか?
弘法大師によれば、三密加持(身口意、印・真言・観念)すれば速疾に現れることになっていて、1200年の間に数多の高僧を生み出し続けてきていますが、弘法大師クラスの聖者を量産したという噂は聞かないです
生まれてついての才能、素質も必要なのでしょう
三密のうち、印と真言は模倣が可能で、別段難しくはありません
問題は観念で、伝授できるように言葉で書かれたものが一応ありますが、人によって理解の深さが全く違うので、ここで差がつきます
身ー写経、修験、滝行などー印
口ー読経、念仏、声明などー真言
意ー禅、瞑想、誘導催眠などー観念
大まかに配当するとこうなりますが、この観念がですね、entanglementの部分に含まれてくると考えられるわけです
それで、どのように「自在に観る」のかが大事になります
写経、読経、念仏など、どのような拝み方にも「心の動き」があり、それは「自在に観る」ことそのものです
身と口の所作は様々ありますが、そこに心がこもっていなければ、ほとんど意味は無いでしょう
仏教に限って言っても、様々な伝統があるのですが、やはり「自在に観る」ことが大事です
仏菩薩の側からの働きかけを説明するのに、加持という概念が必要なのですが、単純に言えば、「仏と自分が繋がる」ことです
「繋がるの」をサンスクリット語で言うとYOGAです
理論的に言うと、entanglememtな存在同士が、どのように繋がるのかという問題になります
「万物はentanglement 」ですから、別々でもなく、同一でもありません
これがどうすれば繋がるか
プロトコルは、最低限、平和である必要があります
やはり、例えるならば、resonance(共振、共鳴)かなぁと思いますね
声字実相ですね
弘法大師は天才だわ
弘法大師画像 長保寺蔵 室町前期
resonance だからどうだ、というのはちょっと違います
これは、ものの例えで言っているだけで、具体的なエビデンスはありません
まあ、音叉を取り出して周波数がどうだとか、お堂で読経の声が共鳴するとか、それは、全く別の話になります
盛り過ぎ注意です
真実は多分もっと精妙で神秘的です
仏菩薩と我々が繋がる時の「プロトコル」が問題です
密教の複雑な伝授になると、灌頂が必要になりますが、これは、キリスト教でも洗礼が必要な場面があって、水を使うところなど似ています
水は凍らせると結晶の形がちがい、やはり、波動(つまりresonance)かなと思わせますけどね
土砂加持と言って、石英(水晶)の粉末を加持する、慰霊供養の作法があったり
水晶の宝具が珍重されたり
(水晶は発振周波数が一番安定した物質で、時計のクオーツに使われています)
聖地とか霊場が花崗岩地帯(石英が多く含まれる)だったり
火山や温泉が近かったり
色々、波動を連想させますね
resonanceは、とんでもない場違いな例えでもないと思います
プロトコルは、それと別で、手順規則のことです
これも、明確に書かれた経典は無いかな
仏菩薩が衆生済度しようと誓った、とかの話はありますが
有名なところでは、弥陀の四十ハ願とか、お釈迦様の破地獄偈とか
プロトコルを説明しようと思いましが、経典に明快な根拠は無いですね
自転車に、全く乗れなかった人が、ふとコツを掴んだ感じ、とでもいいますか
ああ、こんな感じかぁ、と言うことなんですけどね
言葉で言うなら「圧倒的な慈悲の感触」
一度経験したら生涯忘れることはありません
仏菩薩と自分を繋ぐプロトコルのことですが
いかなる手順が理想的か、考えてみます
平和で、慈愛に満ち、大量で迅速、学歴不問、預金残高不問…このくらいにしときます
このプロトコル成立の為に、あなたは何をしましたか?
私利私欲と我儘と思い付きと自分勝手では、成立は難しいですね
お釈迦様が自発的に念じています
毎自作是念 如何令衆生 得入無上道 速成就仏身
つねに自らこの念をなす 何をもってか衆生をして 無上道に入り 速やかに仏身を成就せしめるかと(法華経寿量品)
地獄の苦悩をも破壊するので、破地獄偈と言います
あなたが、仏を信じるのではありません
法華経寿量品 平安後期 長保寺蔵
毎自作是念(まいじさぜねん)
つねに自らこの念をなす
お釈迦様がいつも念じてくれると言っているので、我々が余計なことをする必要はなさそうです
だから、原則として止観が成立するわけです
ただ、実際問題、簡単に無念無想にはなれません
なかなか厄介だぞ、で2500年仏教はやっているのです
ネットワークは最低限破壊されないよう「平和」でなければなりません
だから、最もスムーズに通用するプロトコルは「慈悲」です
仏は常に我々を助けようとしています(大慈悲)
仏に向かって、「大好き」「いつもありがとう」と念じてみてください
プロトコルがつながると、共鳴(resonance)します
瞑想のコツに、一番最初に「微笑む」というのがあるのだけれど、これ、今までほんとに誰も言わなかった
「無ーーっと」とか、ただ半眼にしろ、とかしかなかった
やってみたらわかるけど、入り方が違うよ
理屈は、プロトコルが「慈悲」だからです
瞑想や坐禅や念誦、などなかなか成果が出ない人は、一番最初に「微笑んで」、神仏に向かって「大好き、いつもありがとう」って念じてから初めてみてください
今まで、そんなことしたことありますか
神や仏も、「うれしい」と思うんじゃないでしょうか
仏教はもう2500年やっているわけですから、「空」に多数の先達がいらっしゃることが想定されるわけです
お釈迦様以外にも、過去現在未来で3000仏、数限りない菩薩・護法善神・聖僧・神僧などそもそもですが、神仏の加護を得るには、resonance (共鳴)が必要なわけで、様々な作法や修行法など形だけまねても思ったような成果はありません
「空」の中でプロトコルが成立するには、resonance(共鳴)する必要があります
神仏の「慈悲」と共鳴したいなら、自分にも「慈悲のかけら」が無いとresonance(共鳴)はしません
だから「誰かを救おうとするものが、救われる」のです
「己界、仏界、衆生界」がそれぞれentanglement だからresonance(共鳴)し、癒しが可能なのです
親しい人との死別や、自分が死んでいくことに、手っ取り早い慰めや、気の利いた気休めなんかありません
何をどう言ったところで、辛く悲しいものです
ただ、輪廻転生とか、臨死体験とか、頭ごなしに否定しきれない事例もあるにはあるのです
それを、まあ、どう考えるのか
superpositionには、波動の減衰はないんだろうなぁ
だって、増えるも減るも無いんだからイーロン・マスクがTwitterを買収したのを機会に、またTwitterに戻って思考の過程の記録にしようかと考えました
これは、その原稿を下書きにして整理したものです
田坂広志「死は存在しない ― 最先端量子科学が示す新たな仮説」
量子論と仏教の世界観の接点を示唆する書ですね
「ゼロポイントフィールド」と「空」は極めて似た概念だということが分かります
ただ全ての神霊現象をゼロポイントで説明するのは、やや大雑把な印象
天動説の図 wikiより
ガリレオの時代、天動説でも一応宇宙を説明できたわけだし、仏教でもアビダルマで何もかも説明していたわけだが、やはり理屈はどこまでも理屈であって、なかなかうまくいかくなるもんなのです
ゼロポイントフィールドに、「なぜ意識が生じたか」
それに答えるために、ポオのユリイカが持ち出されるのでしょうか
それが我々の未熟な頭脳に投影されると、ありとあらゆる「転倒夢想」が生じるということなのでしょう
仏教的な理屈からすれば、この「歪み」から目覚めなければ、苦厄から解放されないことになる
それが「信仰」「修行」「仏道」の肝腎要であるわけです
その「肝腎要」の最も効率的で簡単で分かりやすい方法を模索してきたのが、仏教の歴史ですね
これがまあ、理屈はわかっていても100点満点で実施されるわけではなくて
お釈迦様を100点満点とするならば、まあまあ60点も取れればボーダーラインあたりということでしょう
「空」とはなにか?
と問うならば
今、モニターを見てますよね
パッと目をつぶってみてください
さっき見ていたモニターは「空」になっています
そこにあるのだけれど、見てないのだからわからない
「ある」でも「ない」でもない、でもまあ、あるわけです
それが「空」です
パッと目をつぶってしまえば
見てないのだから、目の前のモニターだろうが、地球の裏側だろうが、宇宙の果てだろうが関係ない
見てないのだから、「いま」も「きのう」も「あさって」も関係ない
つまり、空間も時間も無い
でも、現実の世界がそこにある
伝統的な仏教の瞑想では、瞑想中に目は閉じず、半眼といって、薄目を開けることになっています
目を閉じてしまったら、眠くなってしまいますから
生老病死と愛憎と歓喜と絶望と勝ち負けと損得などが押し寄せてくるのが、我々が普通と思って暮らしている娑婆世界なのですが
押し流されているだけでは、浮いたり沈んだりを繰り返すだけです
お釈迦様が登場して、ついに人類はFirst principlesに到達して、問題解決の端緒をつかんだと言えるでしょう
このままでは悲喜こもごも、浮沈を繰り返すだけだと気がつかないと(それを無常感と言ったりしますが)、仏教の必要性は感じないかもしれませんね
信じるなら、自分を信じてください
信じられないのは、歪んだ方の自分しか知らないからです
神や仏は、「尊敬」するものではないですか
「万物はentanglement」しているわけですから、神々や諸仏もsuperposition すなわち「空」の中にいることになります
神々や諸仏の「空」と、自分の「空」は、ともにentanglement ですから、別々でも同一でもなく、一でも多でもありません
同じと言えば違うし、別物だと言うのも違うのです
Superposition で「万物はentanglement 」しているのですから、同じでも別々でも無く一でも多でもありません
だから、こちらの世界(quantum)で神仏を祈るよりも、superposition で神仏とresonance (共鳴)するほうが簡単だということになります
神や仏はどこにいるのか
聖地や御堂や教会でもいいのですが、「万物はentanglement 」ですから、時間も空間も無いわけで
神仏は、「今ここにいる」でも正解だと思いますよ
「いつもありがとう」って呼びかけてみてください
したことないでしょ
喜びますよ
目をつぶれば全ては「万物はentanglement」になっているわけですが、entanglement がなにもかも一気に解決するのではありません
entanglement がquantumになるには観測が必要で、つまり、「意志」がどのようなquantumになるかを左右すると言えるのです
仏教の伝統の話をしますが、拝み始める前に、表白(ひょうびゃく)と言いますが、拝む目的をきちんと神仏に説明しなければなりません
拝んだ後には、回向(えこう)と言いますが、拝んだ功徳をどこに向けるか具体的に指定します
たとえば
一切我今皆懺悔(表白)
我等与衆生皆共成仏道(回向)
— 瑞樹正哲 (@chohoji) December 21, 2022
理屈を言えば
entanglementが「意志」によってquantum になる
神仏への祈願が「表白と回向」によって現実世界に投影される
という構造に、きちんとなっているわけです
これは、キリスト教でもイスラムでも似たようなもんなのだと思いますよ
現実世界(quantum)だけの、勝ち負け、損得、貸し借りなどだけで物事そう上手くはいきません
それで人類は、生きる知恵として、神仏への祈りや瞑想をしてきたのでしょう
つまり、entanglement を観測してquantum を得る
それを「自分の空に触れる」と表現することもできるのです
河口慧海の西蔵旅行記(明治37年)だったと思うのだけれど
チベット探検中に困難に遭った時、断事観三昧と言って、これは河口慧海独自の命名ですが、山中だろうが河原だろうが坐禅をして活路を見出そうとしている
これなどentanglement からquantum を得る事例とも言える
三井英光阿闍梨が高野山奥之院の責任者だった時、50年に一度の大法要の当番に当たったが、聖天法を秘修して霊感を得て、法要準備の抜かったところを指摘していたのです
これは、ご自身の著作にも書かれているので、ここで書いていいと思います
これも、entanglement からquantumを得る例
寝て夢を見るのは、entanglement との接触とも思えないこともないのですが、寝てしまうと「観測(意志)」が無い
瞑想との一番のちがいでしょうね
ちなみに、仏教の「仏」はサンスクリットで「目覚める」という意味なのです
「寝るのと瞑想」との違いは「観測(意志)」ということですね
瞑想には、何のためという目的と、結局どうしたいのかという目標が必要です
そうでないと、居眠りとたいして違いません
entanglement のプロトコルは「慈悲」ですから、目的と目標に「慈悲」が無いとresonanceが生じにくいということになります
entanglement からquantumを得る、ところまでがわかったら、仏教で言う「悟り」が開けるのかと言うと、そんなに簡単ではありません
要は、その「得る」時にですね「いかなる観測(意志)」であるのか
つまり、「観測」の目的と目標が何なのか、が重要になるのです
基本的には、人は善くも悪くもなれるわけです
その、「善い」というのは、一体何を基準にしているのか
「万物はentanglement 」ということで考えれば、「他人の痛みを我が痛みとして感じる」あるいは「他人の喜びを我が喜びとして感じる」ことでしょうか
ま、以心伝心
「以心伝心」は、結局、自発的に自分の意志ですることであって、誰かに命令されたり、強要されたりしては出来ません
「万物はentanglement 」という原則によれば、強要による洗脳とかカルトとかには癒しはありません
本当の癒しは、entanglementによる自発的な「以心伝心」で得られるのです
「以心伝心」の「心」なのですけれど
他人の痛みや喜びを「感じ」て、「どうする」のか
これがね、人生永遠のテーマですよ
「感じ」て「どうする」、の部分こそが、その人の「不滅の魂」の姿なのかなと考えているんですけどね
わがこころ、吾、心、すなわち「悟り」の姿なのかなと
「万物はentanglement」ですから、この文章をお読みになっているあなたと、これを書いている僕は、時空を超えてentanglement な状態であるわけです
理屈では、「空」の中で、あなたと僕は一つでは無いのですが、別々でも無いのです
これがね、文章の意味が通じる原理かもしれないと考えています
文字に限って考えてみますが、「単なる文字の羅列」の言わんとする所が相手に通じるのは不思議なことです
自分が伝えたい意味が、entanglement な状態で、相手にresonance (共鳴)するのかもしれません
これは、全ての種類のコミュニケーションで言えることです
resonanceは意識を集中していると起こりやすくなります
これを、仏教では三昧耶(さんまや)と言います
神仏は、もうすでにentanglement にいると考えられるわけですが、この神仏とのresonanceを試みるのが密教です
最も手っ取り早く叡智を得る方法です
すでにsuperpositionに存在している神仏と、行者がコンタクトするわけですが、「万物はentanglement」で同じでも別々でも無いとしても、どのように感化されるのか、仕組みがあるとは思っています
それで、resonanceと言っているわけです
resonanceを仏教では、瑜伽、繋ぐ、加持と様々に表現しています
音叉を考えれば、resonance が起こりやすい環境は思い当たります
互いに固有の波長が近い状態が必要です
だから、いきなり神仏とresonanceが生じるのでは無く、自己努力で神仏に心を近づける必要があると思います
resonanceは、波動を連想させる表現ですが、これは、弘法大師の声字実相義からきています
五大にみな響あり、 十界に言語を具す、六塵ことごとく文字なり、法身はこれ実相なり
仏教のテクニカルタームは、便利なのですが、様々な縛りがあるので使い方が難しいのです
entanglementを(観測)することでquantumが生じるのであって、quantumが独自にあらかじめ存在しているわけではありません
この(観測)が自我の核心部分です
で、この自我の核心はどこにあるのかというと、quantumは(観測)で生じるのですから、entanglementに自我の核心があることになります
概念としては、自我の核心がentantanglementにあるわけですが、entanglement は有無どちらでもないわけで、仏教では自我は無いことになっています
死んだら自分のquantumは消滅するのですが、entanglement に自我の核心が存在しているので、(観測)は終わらず、来世はある、でいいのではないですか
死は親しい者との別れを強制しますが、お互い時空の無いentanglement に自我の核心が永遠に存在し続けているわけですから、いずれ再会します
結局、ものの見方、考え方でしょうか
いかに(観測)し、感じ、どうするのか
あなたなら、どうしますか
やはり「観自在」なのですよ
心経の最初の一句が、全ての原点なのでしょう
そもそも心経の「心」は、肝心要の心です
つまり、仏教の肝心要の経典が心経だという立場です
その最初の一句こそが始めであり結論でもあると
隅寺心経 奈良時代 長保寺蔵
多神教の世界 : 演者は、すべての人を一つの宗教に改宗させようとするのではなく、多様な宗教や無神論者が共存する多神教の世界でどのように生きるかに焦点を当てるべきです。 仏教とキリスト教 : キリスト教のような「啓示宗教」とは対照的に、仏教は個人的な実践と理解を通じて自身の苦しみを...