大河のほとりに、一本の大きな菩提樹が立っていました。夕方になると、川面から立ちのぼる霧が枝のあいだをゆっくり抜けていき、葉のすき間から落ちた西日が、水の上で細かく揺れます。
その枝の高いところに、年老いたフクロウさんが住んでいました。丸い目はいつも半分だけ開いていて、川の流れを眺めているのか、遠い昔を思い出しているのか、誰にもわかりません。
ある夕暮れ、川辺の葦のあいだから、羽の透きとおった小さな妖精さんがふわりと舞いあがり、枝にとまりました。
「フクロウさん、教えて。この前、旅の鳥さんが言っていたの。生きとし生けるものは、みんないつか仏になるんですって。
本当?」
フクロウさんは目をゆっくり開きました。
「本当だとも。
お釈迦さまは最後の教えの涅槃経で、一切衆生、悉有仏性(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)と言い切られた。
どんなにくだらなくても、極悪でも、無気力で意味のない日々を送っていても、仏となれる可能性はすべての者にあるのだよ。
それがお釈迦さまの遺言であり、一代の説法のなかで、最後の最後まで口にされなかったことなのだよ」
妖精さんは羽をぴたりと止めました。
「じゃあ……がんばっても、がんばらなくても、結局は仏になるの?
努力も、がまんも、自己犠牲も、してもしなくても同じ?
修行も勉強も、やさしくすることも、どうでもいいってこと?」
「ほう。いい問いだね」
フクロウさんは小さく笑い、翼を少しだけ広げました。川の向こうの空が茜色から紫へ移っていきます。
「そう考えたくなるけれど、そんなにうまい話はないんだ。
法華経の寿量品には、こうある。
得入無上道 速成就仏身
『無上の道に入ることを得させて、速やかに仏の身を成就せしめん』と」
「むじょうの道……すみやかに……」
「そうだよ。『無上』と『速』。この二つの言葉が、はっきりとした向きを示しているんだ。
無上とは、この上が無いということさ。なにをしてもいいわけではない。無上の道に入るんだ。
そして、いつまでもぼんやりしていてよいわけでもない。速やかに成就するんだ」
フクロウさんは嘴の先で、川の流れを指すように言いました。
「仏となれる可能性で、無上の道に入って、速やかに成就し、仏の身となるんだ。」
妖精さんはしばらく黙って、水面に映る一番星を見ていました。
「二千五百年のあいだ、仏教はずっとそれを目指してきたの?」
「さまざまな混じりけはあったにせよ、すべてはそこへ向かっているんだ。
無上の道を速やかに進んでいる状態、それがそのまま、仏となる過程なんだ。
無上であることと、速やかであること。この二つが、『なにをしてもいい』も『努力は無意味』も、ちゃんと否定してくれているんだ。」
「でも、さっきは、どうでもいいって……」
「そこが面白いところなのさ」
フクロウさんの目が、きらりと光りました。
「その一方で、なんでもかんでも、仏となる過程なのさ。
いかに無上か、いかに速やかかは問われ続ける。
それでいて、すべてが、いつかは仏となる過程として肯定される。この二つは、矛盾しながら、ひとつなんだ。」
夜風が葉を鳴らし、菩提樹がさわさわと揺れました。
「仏の導きは、いつも無上であること、速やかであることを念頭になされるんだ。
だから、昨日は有益だったことが、今日は無駄になる。今は正義でも、明日は悪になる。
道を進んでいるのだから、景色も、足もとも、変わっていく。」
「じゃあ、決まった答えはないのね」
「ないのだよ。けれど、わたしたちには仏になれる可能性が備わっている。
だから、苦しみから逃れるためには、どうしても探してしまうのさ。
もっと無上な道はないか、もっと速やかな道はないかと」
妖精さんは、自分の胸のあたりにそっと手をあてました。
フクロウさんは、やわらかく言いました。
「その探しているのが、いまのあなたなのさ」
幅の広い大河は、対岸が闇にとけるほど遠く、ゆったりと、重たい水をたたえています。水面は深い藍色に変わり、空の星をひとつ、またひとつと映しはじめました。月の明かりが川面を優しく照らしています。葦のあいだでは虫が細く鳴き、菩提樹の葉から落ちた露が、小さな波紋になって流れに溶けていきます。
菩提樹の根もとでは、小さな焚き火がぱちぱちと爆ぜ、舞いあがる火の粉が、星のあいだへ溶けるように消えていきます。
枝の上では、フクロウさんが目を半分閉じています。
妖精さんは胸を両手をそっと包んで、膝をかかえるようにして座っていました。透きとおった羽は、月明かりを受けてかすかに震え、頬には、さっきまでの問いかけのかわりに、おだやかな表情が浮かんでいます。
大河は急かすことなく、けれど一瞬もとどまることなく、浅瀬も岩も曲がり角も越えて、星の光を映しながら流れていくのでした。
