その枝の高いところに、年老いたフクロウさんが住んでいました。そこへ、川辺の葦のあいだから、羽の透きとおった妖精さんがふわりと舞いあがり、枝にとまりました。
「フクロウさん、教えて。仏教って、世界をどう考えているの?」
フクロウさんは目をゆっくり開きました。
「仏教は、基本的にこう考えているんだよ。
人は感覚器官で脳内世界をつくり、実態そのものではなく、その脳内世界にしがみついて生きている、とね」
「どういうこと?」
「ほら、おまえさんには、この大河が見えているだろう。
見えているのは、目で川を見て、視神経を通って信号が脳に行き、脳内で意味を考えているからなんだよ。パッと目をつぶって見えなくなっても、川はそこにある。
見えている川と、そこを流れている川は、別々のものなんだよ」
妖精さんは、目をぎゅっとつぶって、また開きました。
川は変わらず、ゆったりと流れています。
「目だけではないよ。耳で聞く川音、鼻で嗅ぐ水の匂い、舌で感じる味、体で感じる夕風の寒暖。
感覚器官で外界を感じて、脳内に印象をつくっている。
そして、『外界』と『脳内世界』は、常に別々の現象なんだよ」
「でも、同じ川を見ているなら、同じに見えるんじゃないの?」
「いや、もともと一つの現象でも、脳内世界は人によって必ず違うものになるんだよ。『見る』という一つのことでも、見る角度が別々だから、見える姿は必ず違ってくる。
おまえさんが葦のあいだから見る川と、わたしが枝の上から見る川は、同じではないんだよ」
夕空が、茜色から紫へと移っていきます。
「神とか仏というのは、神仏そのものを人間が脳内世界で似せて作ったものともいえる。だから、宗教も、言葉で書かれた脳内世界ともいえるんだ」
妖精さんは羽をぴたりと止めました。
「仏さまも?」
「そうだよ。ユダヤ教のヤハウェ、キリスト教のゴッド、イスラムのアッラー。これらは、同じ一つの神格を、それぞれ別の脳内世界でとらえたものだと考えることができる。もっと言えば、その唯一神は、仏教でいう大日如来でもあると考えることもできるんだよ」
「それなら、どれが正しいのか、みんなで話し合えばいいのに」
「脳内イメージの違いを議論していても、いつまでも一致することはないんだよ。そもそも、脳内イメージは別々なのだからね」
妖精さんは、しばらく考えてから、そっとたずねました。
「じゃあ、見える前の世界って、どんなものなの?」
「そこが困るところなんだよ」
フクロウさんは小さく笑いました。
「説明してしまったら、その説明は脳内世界になってしまう。
たとえば、『言葉で説明される前の川をなんと言うか』と聞かれても困るだろう。『水の流れ』『光る帯のようなもの』『冷たい粒の集まり』。説明のしかたはいくらでもあって、どれも正しく、どれも部分的な説明でしかないんだよ」
「観察者の数だけ、世界があるのね。パラレルワールドみたい」
「そのとおりだよ。けれど、実際は、一つの世界しかないんだよ。
その一つの世界が、脳内世界となって様々に受け止められていくんだ」
「一つだけ……」
「その一つの世界には、時間がない。昨日と今日、過去と現在といった時間の経過は、脳内イメージなんだよ。空間もない。あっちとこっち、上と下といった区別も、脳内世界なんだ。
感じる前の世界では、時間も空間も、決めようがないんだね。感じていないから、決めることができないのさ」
夜風が葉を鳴らし、菩提樹がさわさわと揺れました。
「般若心経では、こう表現する。
生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増さず減らず
ナーガルジュナの『中論』では、八不として、こう説いている。
不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去
あらたに生ずることなく(不生)
消滅することなく(不滅)
常恒であることなく(不常)
終末あることなく(不断)
それ自身と同一であることなく(不一)
それ自身において分かたれた別のものであることなく(不異)
来ることもなく(不来)
去ることもない(不去)」
妖精さんは、そっと胸に手をあてました。
「じゃあ、自分の世界こそ正しいって言い張っても……」
「それは限定的な解釈にすぎないんだよ。お互いの解釈をぶつけ合っても、問題は解決しない。
一つしかない真実は、私利私欲や経験を離れて、智慧によってでなければつかめないんだよ」
フクロウさんは、川の向こうの闇を見つめました。
「『どこそこの神を信ぜよ』といった教えも、『死の恐怖』も、『体の痛み』など、いろいろなものが、脳内世界に起因するものと、仏教では見ることができるんだよ」
フクロウさんは、川の向こうの闇を見つめたまま、静かにそう言いました。
幅の広い大河は、対岸が闇にとけるほど遠く、ゆったりと、重たい水をたたえています。水面は深い藍色に変わり、空の星をひとつ、またひとつと映しはじめました。
菩提樹の根もとでは、小さな焚き火がぱちぱちと爆ぜています。フクロウさんと妖精さんは並んで、菩提樹の枝でお話を続けています。
大河は急かすことなく、けれど一瞬もとどまることなく、星の光を映しながら流れていくのでした。

