年々色づくのが遅くなってきています
実体は、石油枯渇への準備
そして、環境問題できれいに飾る
研究開発が自前でできなければ、ラインに問題があっても解決できません
新興国の発展は著しいのですが、ポンと渡して、ちゃんと作ってくる国は、限られています
本の題はセンセーショーナルですが、中身は、これからの近未来を洞察する内容です 二酸化炭素排出権ビジネスは、今後拡大することがあっても、縮小することはありません 世界の流れがどこに向かっているのか、腑に落ちると思います 次のバブルのネタは、低炭素で決まりでしょう ハイブリットカーでは日本に勝てないのが明白であるので、世界は一気に電気自動車に向かいます 当面のキーテクノロジーは、リチウム電池です 資源として、リチウムが絶対に必要なのですが、実は、リチウムは海水に含まれていて、日本では、実際取り出すことに成功しています これから益々、世界的な開発競争が激化するでしょう つまり、石油はなくなるのです 新日本石油が薄膜シリコン太陽電池を事業化したり、東燃ゼネラル(エクソンモービル)が東レと合弁でリチウム電池事業に乗り出したり、石油会社は次世代に布石を打ちつつあります 東燃ゼネラルのようなメジャーがリチウム事業に参入するのは、石油が本当になくなるということと、エネルギーの今後の動向を示唆しています バイオマス、メタンハイドレートなどの代替エネルギーや、省エネ技術が話題になることも多くなると思います しかし、石油化学文明の次の世界を支えるエネルギーの主流は「電気」ということになりそうです 太陽電池、風力発電、波力発電、地熱発電、そして、原子力発電は、拡大の一途でしょう 製造業は、人件費が絶対的に安い新興国には勝てません かといって、金融立国の経済モデルは破綻しました 日本にとって良い一面を考えれば、エネルギー自給のできないハンデがなくなることでしょうか 丁寧な作り込み、血の通ったサービス、細かな気配り、など、日本的なアプローチが益々重要になってきます 電気エネルギーを中心とした高度に人間的な社会、ということですかねぇ そこに、日本の活路を見いだすしかない、ということですね |
来年2月9日から20日までの予定で、インド仏教聖地巡拝に行きます
費用は35万円位、6大聖地とサールナート博物館、デリーのインド博物館を回りますので主要な仏跡はすべて網羅しています
サールナート(初転法輪、初めて教えを説いたところ)
ブッダガヤ(悟りを開いたところ)
ラジギール(霊鷲山、般若心経や法華経を説いたところ)
クシナガラ(涅槃の地。2月15日は涅槃の日。当日参拝します)
ルンビニ(生誕の地)
スラバスティー(祇園精舎などがあります)
ナーランダー(大学跡、玄奘三蔵も留学した、仏教最大の大学)
サールナート博物館(初転法輪の釈迦像があります)
インド博物館(仏舎利があります)
などを初めとし、
ベナレス(ガンジス河の沐浴風景)
前正覚山(お釈迦様が悟りを開く前6年間苦行した影現窟がある)
七葉窟(経典の第一結集をした洞窟)
バイシャリ(第二結集をして、上座部と大衆部が分かれた)
タイ仏教寺院(帰り道にバンコクに寄り、エメラルド寺院、暁の寺など参拝します)
現在計画中なので、同行していただくことができます
現地では、熟練したガイドが付きます
10名以上になった場合は、日本から添乗員が同行します
詳しくはお問い合わせください
073 492 1030
僕はもうこれで5回目ですが、前回が平成9年ですから、どのように変わったか楽しみですね
仏跡は、インドの田舎にありますので、のどかな、そしてエキゾチックな旅になります
メールや、じかに電話などでお問い合わせやご相談いただく方が増えています
いつも、最優先でお答えさせていただいております
基本的には、問題を解決するのは、ご自分です
ただ、僕の考え方が参考になるのならば、お役立ていただけば、それでいいのです
念のため、申し上げときますが、僕には霊感はありません
ただ、霊感のある人たちと長く付き合ってきたので、いろいろ経験はしているということです
オーラが見える、直感的にわかる、霊気を感じる、など、僕的には霊感のうちにはいれていません
誰にでも普通に、これくらいのことはあるのです
気がついていないだけです
般若心経の祈祷法についてのお問い合わせが多いです
実際にやるのに、細かいことを書いていませんから
これは、やりかたの細かいことは、ご自分の心に浮かぶからです
その力を大事にしなければなりません
外国製ブラックについてお問い合わせがありました
一般的なことを、ここに書きますが
書籍や新聞、マスコミなどで、話題になっている、評価されている、おいしい話が羅列されている、など、それでその宗教なり主張が正しくなるわけではありません
日本国内でも、でたらめなカルトがまだまだ、まかり通っているのですから、事情のわからない外国製宗教の中身など、脳内お花畑で勝手に美化し期待しても、それは認識不足なだけで実態は正反対なことが多いのです
日本製カルトは、お金でなんでも決着するお国柄を反映して、最後は金を巻き上げるというところに落着する傾向がありますから、比較的平和です
外国製は、支配する、破滅させる、あやつる、などだけを純粋に追及してるのもあります
早い話、共食いですね、これをさせて、嘲笑うのが目的なんでしょうね
人間同士が殺し合いをしてきた、長い歴史の産物ですよ
霊的な攻撃や祟りに対処する基本は、「無視」です
驚いてなにかするのを、悪意のある存在は待っています
ものを動かす力は、霊には無いのです
自分で動かせるなら、自分でなんでもするでしょう
ですから、無視してなにもしなければ、なにも起こらないのです
ただ、憑依して、生気を奪う、恐怖を与え続ける、判断を狂わせる、ということはあります
これは、その人の前世に原因のあることが多いです
これは、自分の心構えが変わらないと解決しません
一般的には、他人を責めない、赦す、慈悲を心がけるなどが、問題を解決に導きます
そのうえで、きちんとした神様や仏様を信仰していれば、問題は起きません
その土地の神様にお願いするのが基本です
それと、はっきり言いますが
ご自分の妄想や、精神的な病の場合も多いですよ
病気は治療で治りますから、お医者さんにご相談ください
選挙結果について、一言
実は、選挙の得票率、つまり、実際にフダをいれた数を比較してみると、今回の選挙結果のような大きな差はないのです
2009年衆院選小選挙区得票率
民主党47.4% 221議席
自民党38.7% 64議席
これは、自民党が圧勝した2005年の選挙でも言えることで
2005年衆院選小選挙区得票率
自民党47.8% 219議席
民主党36.4% 52議席
とまあ、本来の得票数を配分すれば、おおよそ、140議席対110議席くらいの勢力差なのです
小選挙区制の怖さなのか、長所なのか、ここのところは、もっと真剣に考えなければなりませんね
このような、極端な議席数の差が出るような制度が、本当に民意を反映するのか、僕的には、まったく疑問ですね
さて、今回の選挙結果の影響ですが
僕とこは、まったく、大変なことになります
全ての文化財行政がストップします
とえりあえずは、国宝修理計画が白紙になります
国の予算が決まりませんから、県も市も予算をつけようがありません
すったもんだで、決まってくるとして、それまでにかなり、破損が進みますね
金銭的な負担でいえば、自己負担分だけで、補助率の算定やらなんやらで、数千万円の支出増になる可能性があります
まあ、自分から投げ出すわけにいきませんから、控えめに言っておきますけど
国民の総意として、そんなこと、どうでもいいのでしょうか?
2009年衆院選
<衆院選>民主小選挙区、5割の得票率で7割の議席
8月31日13時30分配信
毎日新聞
衆院選で空前の308議席を獲得した民主党の得票数は小選挙区、比例代表ともこれまでの最多記録を塗り替えた。小選挙区では5割の得票率で7割の議席を獲得したことになり、得票率の差以上に議席数に開きが出る小選挙区制の特徴が顕著に表れた。
民主党は小選挙区で、現在の小選挙区比例代表並立制が導入された96年以降最多の221議席を獲得した。一方、自民党はこれまでで最少だった03年の168議席にも遠く及ばない64議席と惨敗した。
定数300に占める獲得議席数の割合(議席占有率)は民主党73.7%、自民党21.3%で、その差が3.5倍だったのに対し、得票率は民主党47.4%、自民党38.7%で差は1.2倍しかなかった。得票が1票でも多い候補が当選し、有効投票数の半分以上が「死に票」となることもある小選挙区制の特徴といえ、前回大勝した自民党の「勝利の構図」と全く同じ形になった。
衆院全体の議席数では、中曽根康弘首相(当時)が主導した86年衆院選(参院選との同日選)で自民党が獲得した300議席(当時は定数512)が長く最多記録だった。【横田愛】
2005年衆院選
自民、得票率48%で7割強の議席占有=小選挙区制の特性くっきり【05衆院選】
衆院選の300小選挙区で、自民党は得票率47.8%で219議席を確保し、議席占有率は73.0%となった。
得票率、議席占有率とも1996年の現行制度導入以降、最高を記録した。
一方、民主党は得票率36.4%に対し、議席占有率はその半分にも満たない17.3%(52議席)だった。
小選挙区制では、選挙区で落選した候補者に投じられ、議席に反映されない「死票」の割合が高い。
このため、各選挙区での接戦を制して議席に結び付けた自民と、及ばなかった民主の間で、
得票率の差を大幅に上回る議席占有率の差が生じる結果となった。
公明党は得票率1.4%で8議席確保したが、7.3%の共産党は、前々回、前回と同様に議席を獲得できなかった。
国民新党は0.6%で2議席、社民党は1.5%で1議席を得た。新党日本は0.2%、議席ゼロだった。
一方、比例代表では、得票率は自民38.2%、民主31.0%。これに対し、
議席占有率はそれぞれ42.8%、33.9%と、小選挙区に比べて「民意」をより忠実に反映した形となった。(了)
(時事通信)
- 9月12日15時1分更新
脳幹部分に網様体賦活系があって、意識に「何を入力し、何を入力しないか」を決めていると考えられているのですが、これ、生命維持と深いかかわりがあって、生命進化のかなり古い時代からの器官のようですね
脳死判定でも脳幹が生きているかどうかは重要な判定項目です
この網様体賦活系を、意図的に自在にコントロールできれば、自分の人格を思い通りに構築することができそうな感じです・・・が
「独り言」(まあ、自分に対する話しかけですね)と、「なりきり」(目標が達成された状態をイメージする)によって、網様体賦活系がコントロールできるという理論ですね
これですね
網様体賦活系という脳の部位は、進化論的には、爬虫類時代のものになります、ですから、言葉は通じません、感情、それも生命の危機があるかないかという位の原始的な感情しか通じません
まあ、トカゲの行動原理を考えればわかります
ですから、実際に網様体賦活系をコントロールできるのは、「強い恐怖を伴った感情」あるいは「身体的な快楽」または、「敵を倒した達成感」「獲物を捕まえた充実感」といった、動物的というか、それよりも原始的な爬虫類的な感情だけなのです
それで、「独り言」と「なりきり」は、この原始的感情を生成するための「前振り」ということになります
要は、本当に必要なのは「強い感情」です
爬虫類のような、直線的な強い感情が脳幹のホメオスタシスを書き換えるのです
実は、この苫米地さんの技術は、米軍、米警察などで採用されているコーチング理論がもとになっています
戦場や犯罪現場などの強いストレスがある状況で、いかに生き延び、使命を達成するかが目的です
戦いということで言えば、オリンピックやプロスポーツなども対象範囲でしょう
あるは、厳しいビジネスの現場もあてはまります
具体的には
チームが円陣を組んで
「俺たちは強い、俺たちは最高だ、俺たちは勝つ」と大声で何回も連呼するといったたぐいの士気の上げ方ですね
たとえばですけど
ですから、宗教とは、方向が違うのです
宗教は爬虫類的な感情ではなくて、最高の人間性を求めています
しかし、仏教では、この方法は古くから使われていた、ということですね
どのみち、自分の脳とはつきあっていくしかありません
自分の中にある原始的な感情を、うまく制御するしかないのですよ
まあ、拝み屋が脅しから入るのもこれですな
地獄のビデオを繰り返し見せるとか、新興宗教の脱会者を、地獄の絵が部屋中に書かれたところで脅すとか、きわめて、セオリーどおりです
原始的感情を揺さぶるのが、洗脳の基本です
このへんが、ごっちゃになって宗教の信用が失われているのです
やっぱり、どこまでも慈悲や理想、真実を求めるのが宗教で
軍事的な目標、あるいはビジネスの成果など、実利をもとめるのが自己実現プログラムでしょう
抽象的に言えば、核心にエゴがあるかないか、ですね
自我以上の目標を持つのか
自我を満たすのか
まあ、かなり違うと思いますね
ただ、たとえば戦闘では命を落とすこともあり得るし、宗教にも現世利益はあります
目に見える境界線があるわけでもないですから、あいまい、と言えばあいまいですけどね
朝起きた時、「あー、今日もいい日だ!!」と、おもいきり、ニッコリする
夜寝るとき、「一日、すごくいい日だったなー!!」と、おもいきり、ニッコリする
好いか、悪いかは、単なる印象です
それならば、「好い」と決めてしまうのです
理由は、後で、脳が勝手に探してくれます
すると、好いことだらけになってしまいます
自己実現プログラムとは、つまり、マナ識をコントロールする方法ということになります
それが、簡単に言えば、「独り言」と、「なりきり」でできるのです
紀州徳川家16代当主の徳川頼貞さんは、子供の頃に見た軍楽隊のパレードにあこがれ、それ以来、西洋音楽のよき理解者であり、日本に紹介をしたパイオニアでもあります
たしか、ベートーベンの楽譜もどこかで手に入れています
日本最初のパイプオルガンは頼貞さんによって輸入されました
教会音楽が大好きで、バチカンの奥深くにある、ローマ法王の「秘密の花園」に入ることができた人でもあります
パイプオルガンのある奏楽堂は、上野公園の一角にひっそりと、意外に小さく、佇んでいます
今でも、このパイプオルガンの演奏会があります
戦前は紀州徳川家も侯爵家として、江戸時代には比べることはできないまでも、かなりの資産があり、様々な文化活動をしていました
こちらにリンク集があります
南葵楽堂の想いで 徳川頼貞
本物の殿様の生活の一端がうかがえます
今の奏楽堂ができた、いきさつの記録です
頼貞隨想
一冊の本なのですが、たぶん入手できないでしょう
幕末から明治の、西洋列強による、戦争による国益追求が当たり前の時代、いかに苦心して日本を守ったかがわかる、貴重な資料です
その本の中で、長保寺にかかわる部分を抜き出しています
徳川家は南葵育英会という日本最初の奨学金制度の組織もつくっています
これは、返す必要のない奨学金です
その事務所は現在、銀座の真ん中の、日本最初の電気街灯が点いた場所にある、ある会社のオフィスにあります
その会社は、リッツやポッキーを作る機械を製造している会社です
歴史は今も息づいているのです
中央に釈迦如来、多宝如来が並んで座っています
これは、「イメージと実体」の象徴的イメージです
法華経寿量品の中で、美しく文学的に表現されています
「真言行者、座を立たずして、一切の仏事をなす」
身語意を加持して、仏と我と衆生が繋がると、仏の力が衆生に注がれます
実相の中で、三平等になるからです
その瞬間、行者は衆生の痛みを感じます
そして、衆生が仏の力によって癒されていくのを感じます
衆生の苦しみが大きければ、行者は耐え難い苦しみを受けることもあります
初心の行者は、衆生と繋がるのを制限しながら、仏との繋がりを深めなければなりません
しかし、加持を繰り返すうちに、徐々に行者は仏と深く繋がり、苦しみを癒す力が大きくなります
人には、様々な才能というか個性がありますが、加持のできる人も、まあ、才能の有る無しがあって、天才もいれば、どうも伸び悩む人もいます
でも、たとえば音楽がそうですが、楽しむことは誰でもできます
演奏家や作曲家は、苦しんだり努力したりが避けられませんが
天台学は、もともと中国で始まりましたが、比叡山で、まったくの密教になってしまいました
それは、やはり、密教の現実世界を変える、応用力というか、霊験ですよね、これが桁違いに強いからです
霊験と書くと、理屈無視のようですが、順を追って考えると、それなりに仏教哲学の中で辻褄はあってます
ですが、大前提があります
僕は、仏の存在だと考えています
つまり、ものすごい昔に、仏教的修行をして、自己を完成させた人がいる
ということです
道の先を歩いている存在ですね
まあ、お釈迦様ですね、歴史的には
やっぱり、仏の力が注がれている
これが、感じられるかどうかです
苦労した人は、やはり、仏に近いですよ
威張ってたらだめだな、わからなくなる
純真な、お子さんは近いんじゃないですか
子供に出来ることだから、実は、簡単なことなんですよ
むしろ、大人になって、権威とか知識を振り回すようになると、だめですよね
仏の力が感じられるようになると、これ、拝んでばっかになります
世界を、てっとり早く善くできるように感じるからです
昔の偉い坊さんは、拝め拝めと、めちゃくちゃ厳しいです(^^;)
僕なりに言えば
天才はそれでいいんです
ですけど、チベットみたいにあまりに観念的になって、戦争の代わりに瞑想しよう、てなとこまでいくと、歴史的には失敗してます
やっぱり、いろんな人が住んでいる世の中ですから
音楽の世界に、作曲家、演奏家、歌手、聴衆があるように、役割というか住み分けかな、あるんじゃないですか
霊験はね、求めたら得られないんですよ
自分を差し出して、人を助けようとすると、現れるんです
まじない、魔法などの、儀式や物と交換で生じるのは、マジックよ
仏には、慈悲しか通じませんよ
我々、お互いが、実はSuperpositionの中の存在なんですよね
こうして文章を読んでいただいていますが、書いてる僕は、あなたにとってSuperpositonの中にいます
僕にとっては、読んでいただいている方々がSuperpositionの中にいます
だから、理論的には、時空を超えて繋がっています
くどい事を書きますが、Superpositionは物理的に観測される現象で、この理論をもとに走査型電子顕微鏡など実用化されているわけで、無視できない事実なんです
自分が今生きているという感覚も、厳密に言うと、そう思った瞬間に過去になっているわけです
いったいいつ生きているのかというと、未来はまだ来ていませんし、生きているなと思った刹那は過ぎ去ってしまっていますから、生きる暇がない、と言うのも変ですが、考えてみると不思議です
唯物論的な理屈をつけても、仏教的な理屈をつけても、しょせん、よくわからないことへの屁理屈なんですから、ムキになってもしょうがないと思いますよ
まあ、僕がこうして、かなりアバウトな話をつづけているのは、几帳面につじつま合わせをしても、実際のところを説明しきれるものでもないからです
あまりに綺麗に理論を作りすぎると、そうですね、たとえて言えば、sudokuが、あと最後のひとマスで出来あがるのに、どうしても埋まらず、結局最初から全部間違いだったようなことにもなりかねません
数独
・・・いいんです、わかりにくくて (^^;)
心の「ある」ことを否定する人は無いと思いますが、どこにあるのかということになったら、脳でもいいですが、パカッと二つに割っても心が出てくるわけでもなく、理解しずらい対象ですね
と言って、全く不可知かというとそうでもなく、中途半端にわかっているというか、理解途上にあるというか、あてになるようなならないような、よくこれで平気で暮らせますよね
「ある」という概念がそもそも間違っているのかもですね
この瞬間が、与えられているというか
生きてるだけで丸もうけ、ですよ、ほんと
過去現在未来三劫三千仏曼荼羅 三本組 江戸時代 長保寺蔵
さて、そろそろ、わけのわからない話をすることにします
今まで、模式的に、イメージと実体の境目が感覚器官、という理論を展開して、眼耳鼻舌身の五感までは境目としてきました
それで、意識は境目ではない、ということなんです
すでにこちらで書いているんで、ちょっと別の角度から書きます
仏教ロジックの模式図
仏教の考え方に、まあ哲学ですけど、大きく二つの流れがあります
空観と唯識観
空観は、イメージと実体ですね、この実体がSuperpositionで、無始無終無常無我で、有るでも無いでもなく、しかし、そこにあるということを説明しようとしています
唯識観は、「イメージと実体」が、意識の中で生じる現象だということを説明しようとします
仏教の歴史の中では、瞑想体験や神秘体験の、体験したこととうまく整合性のとれるような理論が研究されました
なかなか苦労してるんですが、ここのところが、どうも煩雑なので割愛します(^^;)
意識、マナ識、アラヤ識、如来蔵と意識は階層化しています
説明がめんどくさいので、興味があれば「仏教ロジックの模式図」を見てください(^^;)
結論的に言うと、意識が、「イメージと実体」の入れ物だということです
わかりにくく縮めて言うと(^^;)、物質も意識の産物です
意識は、無始無終無常無我で、てっとり早く言うと、永遠です
それで、僕らの、肉体は死ぬことはありますが、意識は永続というか始めも終りもなくそのまま、ということになります
意識は、境目(唯識の専門用語でいうマナ識)のあっちとこっちを行ったり来たりします(なんのこっちゃ、だと思いますけど)
唯識的には、眼耳鼻舌身の消失が死です
意識は永続します
マナ識が、妄想にしがみつく、まさにしがみついている本質です
マナ識は、意識が成長する(つまり、妄想から解放される)と消滅します
マナ識が消滅した状態が、ブッダです
マナ識が消滅しても、意識の履歴は保持されます、なぜなら、実体には時間や空間はありませんから
それで、ブッダは無数に存在します(厳密に言うと数えることはできませんが)
ですから、僕らは死んでも、今経験していることは、蓄積され、実績として生かされ、輪廻転生を繰り返し、最後は、別々のブッダになります
ただし、実績が評価されてブッダになるのではありません
妄想から解放されるからブッダになるのです
ここのところが大事です
輪廻を通じて、栄枯盛衰、喜怒哀楽、いろいろな経験をするんですが、つまりは、妄想が原動力ではあるのです
それで、どれだけ長く転生を続けても、ブッダにはなれません
でも、妄想にしがみつくのをやめれば、ブッダとなり、経験したことは全て生かされます
ブッダにならずに、妄想を離れた状態で転生を続けるのが、仏教でいう菩薩ですね
で、天台学的には、頓悟が可能になります
なんにもわからなくても、妄想を離れることができれば、すぐに成仏が可能です
これがですね、仏教があんまり人助けを熱心に言わないという歴史にもなるんですねぇ
理論的には、山にこもって瞑想して、それだけでブッダになれます
ですけれど、ブッダとなったとき、生きとし生けるものの苦しみ喘ぐのが我がこととして迫るのです
ブッダは実体そのものですからね
妄想を離れた生活が、菩薩の生活、人助けの生活、ですね
丸木の柱ですから、まるで、森の中にいるような感じになります
冷たい空気が下に来ますから、木々の梢の下を通ってくる風は、涼しくて気持ちいいですよ
ここで、ユリイカなど読むのです
「法身は説法する」弘法大師
密教の精髄ですね
どのように説法するかと言えば、「五大に皆響きあり」で、響きが感覚器官を通じて、脳内にイメージとして色香触味法を作ると
ユーミンの歌にありますが
「すべてのことはメッセージ」です
ですから、勝手なことを言えば、ユーミンは密教を布教してることになりますw
弘法大師的には、「響き」はつまり、Superpositionです
で、それがサンスクリットだ、となるんですが、まあ、どうなんでしょう
サンスクリットもイメージじゃないかと思いますが
波動という説もあるのですが、なんでしょうね、「波とその動き」として観測されてるわけじゃないので、波動はいわば、文学的表現ですね
「水からの伝言」など、どうしていきなり波動になったんでしょうね
水と波で、つながったのかな
水と心が通うでも、念飛ばし、でも、まあ、文学的表現はいろいろあるんじゃないですかね
さて
銀河系には2000億以上の恒星があるそうですが、宇宙全体には、そのような銀河が1000億以上あるらしいです
しかし、それは、眼で観測して数えるからで、響きとしてとらえれば、実はたった一つの響きしかありません
Barred Spiral Galaxy NGC 1300
->をクリックしてください
こちらでも書いています
その響きが真言である、となるのが弘法大師なのですが、サンスクリットにしろ、マントラにしろ、脳内のイメージ、とするのが厳密な態度でしょう
真言密教は、真言以外を密教として考えないという立場なのですが、天台密教は、全く違います
天台学は、そもそもは中国の天台山にある国清寺で始まったのですが、日本に伝教大師が請来してから、比叡山で密教化します
その時、真言だけでなく、阿弥陀経や法華経、般若心経なども密教に分類します
密教の範囲が、全く違うのです
専門的には、「教主の違い」と言うんですが
真言密教では、教主は大日如来です
天台密教では、教主は釈迦如来です、で、釈迦大日一体とします
大日如来が説法している経典が、金剛頂経や大日経などです
阿弥陀経、法華経、般若心経はお釈迦様が説法します
一見、大日如来だけが密教を説いているようなんですが
お釈迦様の悟りの本質が、大日如来の本質と同じなら、釈迦大日一体で、お釈迦様の説法も、大日如来の説法も同じカテゴリーだとすることもできます
これは、慈覚大師や智証大師が入唐したとき、改めて向こうの坊さんに確認して、大陸正当の考え方であることを、わざわざ確認しています
ま、学問的にはそうなりますが
真言も、経典の言葉も、同じように、向こうから来て、脳内イメージとなるんですから、来る前の実体は一緒と、考えていいわけです
それで、意味がわからずお経を呪文のように唱えても、仏の言葉として尊んでいれば、伝統的に、それはそれでいい、とされているのです
ですが、比叡山で天台密教の教理か純化するなかで、意味を知らずに読んでも、真言と同じように効果かあると認定された経典が、阿弥陀経、法華経、般若心経となります
他の経典は、理解し、仏教の意味を知るための経典として分類します
こういう土台があって
念仏だけ、題目だけ、をマントラとして唱えるだけで間に合うという、浄土宗や日蓮宗が出てくるのです
ですから、天台学的に言えば、念仏、法華は密教です
さて、実は、密教には大きな落とし穴があります
なかなか、うまくいかないのです
真言や経典の言葉がですね、向こうから来る、のはいいんですけど、それが宇宙の根本で、正義で、愛に満ちて、人々を救うと、どうして言えるのか、ということです
縮めて言うと、神秘体験がすべて善きものとはかぎらない、ということですね
それが、悪魔の囁きでないと、誰が決めるのか
ここで、つづく、でもいいんですが、書く事を忘れそうなので書いときます
そのために、スッカラカンが必要なのです
一回Superepisitionを見て、絶望しなければなりません
禅で身心脱落と言いますが、死んではないんですが、死んだも同然に自分を離れて初めて見える境地です
釈迦は6年苦行し、イエスも40日荒野をさまよいましたが、自分の都合を捨てて初めて、本質が現れる、ということなんですねぇ
欲得抜きで、神秘体験を評価しなければ、私利私欲の拡大になるだけです
御利益先行の神仏詣では、神仏の願うところではないということです
そんなことを言っても、欲も願いも無い透明人間になれるわけではないですし、やはり、難しいんです
単にSuperpositionを認知するだけでは悟りではない、という話の続きなのですが
Superpositionを知るのが、無上の悟りなら、昼寝でも修行になります
感覚器官がお休みの状態ですからね
仏教では、悟りにも段階があって、Superpositionがわかるくらいになって、初心の行者になります(なんか専門用語がありましたが、時代や宗派によって違うので、説明するとややこしくなります)
わかりやすく、弘法大師で言うと、10段階にわけて8です
要はですね、本を開けてみたはいいけれど、活字がランダムに並んでいて読めない状態です
自分に語りかけてくるものが無い
無始無終無常無我のSuperpositionなのですが、自然科学によって確認されつつあるように、美しい秩序があります
なぜ、あまりにも整合性のある厳然とした法則があるのか、謎ですね
その、法則(とりあえずこう言っておきます)そのものが、イメージの中で形になると・・・
それが、神や仏の姿になります
神や仏がなぜ人の形になるかと言うと、人の理解力に応じた形でイメージが作られるからです
密教では、三昧耶形(さんまやぎょう)というんですが、神様などがいろいろな持ち物を持っていますが、これなども、理解力に応じて、というか、人の中にあるイメージを借りて、法則が表現されたものです
この三昧耶形の意味は、必ず師から弟子に直接伝授されなければなりません
よけいな意味が入りこまないようにです
これが、密教の秘密性にもなるのです
ここからは、わかる人にしかわからない話です
弘法大師で言うと、ここが9です
神仏は、我々に、常に語りかけています
キリスト教だと、啓示ですね
これは、つまり、今までの文脈で言うと、感覚器官が自動的にSuperpositionをイメージ変換していて、ついに、法則そのものと出会う、ということです
それは、人が、与えられた自由を行使して、求め続けて、求めても得られないことに気がついた時に、与えられます
一回、スッカラカンにならないと、うまくいきません
本を開いて、意味のない文字の羅列を見て、どんなに頑張っても解読できず絶望したとき
その時初めて、文字が語りかけてきます
向こうから、来るのです
僕らの中には、ありません
来迎ですね
来迎というイベントが発生するルールも確認されています
阿弥陀如来を呼ぶ場合は、「南無阿弥陀仏」と念仏してちょーだい
とか
念仏で必ず阿弥陀如来の来迎があります
信じてください
だから、理屈を言うと、念仏も、向こうから来たものです
真言とか、マントラですね、これらも向こうから来たものです
般若心経の最後の
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
も、だから、向こうから来て、イメージになった言葉ということですね
それで、この先に、弘法大師の10があります
それが悟りです
この解説は、僕には無理です(^^;)
あたりまえか
これが、「経済危機対策」なのか「バラマキ」なのか
これから選挙になりますから、一応の関心は集めるでしょう
まあ、争点になるかどうかはわかりません
ローカルにはローカルの事情があって、まともな言い分だけが評価されるわけでもありませんから
個人的な評価をしますと、株価が世界に先駆て回復の兆しをみせていますし、経済運営は比較的うまくいっているのではないかと思われます
あまりにグチャグチャになったしがらみの中で、よくやっているのではないでしょうか
もちろん、この先どうなるかわかりませんが、世の中を明るくしようという意図が感じられます
ただし、過去の利権政治の土台の上で実施される政策ですから、昔ながらの金権は温存され、無駄遣いもまかり通るのでしょう
それでも、世界経済が猛烈なリセッションにみまわれているのですから、すべての理想を求めても無理です
どう判断しますかね
生活に直結しますからね
ありきたりの結論ですがそれを決めるのは、神でも仏でもなく、自分だということですよ
その連続が人生です
判断の基準は、自分の中にあるのです
でまあ、僕的には、自分を信じるしかない、と、結構つらい結論なのです
「だいじょうぶか、自分・・・」
その不安や孤独が、宗教を生みだしたり、妄想にすがったり、絶望したり、いわば、悪あがきをさせるのです
それがまた、悪あがきと言って笑っている場合じゃなくて、悪あがきだろうがなんだろうが、やっていくしかありません
選挙の日は迫っております
それで、虚心坦懐、当面の利害得失を捨て、冷静に現実を観察する必要がある、というのが仏教の教訓ではないでしょうか
「リアリスティック」と「インテリジェンス」、ですかねぇ
たいていのことは、解決の糸口が見つかるんじゃないでしょうか
わかりにくい話を、もっと、わかりにくくしてさしあげましょう
遠方の銀河の拡散しつつある速度を観測した結果から逆算して、宇宙は137億年前に凝縮された単一状態からビッグバンしたと考えられています
今のところ、この説を覆す事実は報告されていません
当然に、最も最初の凝縮した状態の時に、なんらかの生命があって、宇宙を観察していたということは確認されていません
仏教式に言えば、観察されなけば世界は存在できませんから、誰かが見守っていたことにしなければ辻褄が合わなくなります
ビックバン直前は、少なくとも、脳や感覚器官を備えた生物はいなかったわけで、イメージも実体も無い、ということになってきます・・・
実は、ポーのユリイカを引用したかったのですが、手元に本が無いのでネットで注文して、届くのを待っていました
去年文庫で再版されたんですねぇ
文庫の表紙の絵は、ポーの本にある挿絵です
ビッグバンの図と同じですね
ポーは、
と、精神と物質が、凝縮された一つの状態から膨張し、それが星雲や星々を生み、臨界点に達すると、また次第に収縮して単一に帰る、いわば、ビックバン宇宙論を説いているのです原初の事物の原始の単一のなかに、その後のすべての事物の原因がひそみ、同時に、それらすべての不可避的な消滅の萌芽もひそむ
「原始粒子が拡散し宇宙が形成され、やがてそれが収縮して
すべての創造物は程度の差こそあれ、みな知覚をそなえている。
第一に、自己が自己であることを感得する知覚、第二に、そしてかすかで曖昧な洞察によるものだが、いま問題にしている聖なる存在者、すなわち神との同一性の知覚である。
これら無数の個々の知覚力が・・空に輝く星々もろとも・・一つに融合するまでの長い年月のあいだに、二種類の意識のうち、前者は弱くなり、後者が強くなるものと想像していただきたい。
自己同一性の感覚がしだいに普遍的な意識に融合し・・たとえば、人間はいつのまにか自分を人間であるとは感じなくなり、ついには自分の存在をエホバの存在と同一視するにいたるような輝かしい勝利の時代をむかえるものと想像していただきたい」
宇宙が「原始の単一」から始まったとするなら、物質と精神も、単一状態でなければなりません
その状態を、「神との同一性の知覚」とするなら、爆発し拡散するにつれ、同一性の知覚は薄れ悪がはびこり、収縮を始めると意識は融合し神に近づく、という理屈です
つまり、あなたも私も、収縮してしまえば、一つの神に融合すると
正義にあこがれ、神を求めるのは、収縮する力のせいで、悪があるのは、銀河が拡散しているからだと・・・・いうことらしいのですが・・・
ビッグバンが否定されない限り、「原始の単一」の時、意識はどうなっているのか、答えが必要です
はたして、一つの神に融合しているのでしょうか?
これですね、般若心経などでは、不生・不滅と説いているわけです
有るでも、無いでもない
ですから、イメージを通じて知覚されなければ、世界は存在できないが、世界そのものは、知ろうが知るまいが、おかまいないしに、「有るでも無いでもない状態のまま」だということになるのです
まあ、今ですね、パッと目をつぶって、触るのを止めても、ご覧になっているモニターは消えてなくなっているわけではない、と
でも、目を開けて、確かめてみなければ、ほんとに目の前にあるかどうかはわからないし、触らなければ持ち上げることもできない、と
世界の存在は、感覚器官による認識を必要としてない
しかし、認識されなければ、世界は変化することはできない
ということです
ですから、ビッグバン直前の、「原始の単一」の時には、いわば、Superpositionだけがあったと
ここのところが、どうも言いようがないですが、有るでも無いでもない状態が存在するだけであったということなんです(実体とか、いままで勝手に言ってましたが、天台学で言う、実相ですね。こういう時、仏教語は便利です)
なんでしょうね、霊界だけが存在した、とでも言うのでしょうか
ただその霊界は自分自身を変化させる方法がないので、自由にイメージを持つことができる生命を必要とした
そして、ビッグバンした
まあ、神話ですが
で、その、Superpositionには数はないので、1=∞でもなんでもありで、無数の神々や未熟な魂達が、一つでありながら別々に存在し(一冊の本に無数の文字が詰め込まれるように)、感覚器官で認識されるのを待っていると
ですから、実相には、正邪美醜が詰め込まれているのですよ
それを、より善くしていくのが、生きている人間の仕事、ということです
ああ、そうそう、ポーですけれど、一神教的な宇宙観ではそうなるが、目をつぶってもモニターが消えてなくならないから、どうも説明しきれてないんじゃないか、ということになりますね
多神教の世界 : 演者は、すべての人を一つの宗教に改宗させようとするのではなく、多様な宗教や無神論者が共存する多神教の世界でどのように生きるかに焦点を当てるべきです。 仏教とキリスト教 : キリスト教のような「啓示宗教」とは対照的に、仏教は個人的な実践と理解を通じて自身の苦しみを...